1.コンピュータという名の神

コンピュータは万能であるか?

<コンピュータは全知全能である>少なくともコンピュータはそのようなものになろうとしている.

全知→コンピュータはすべての知識・情報をデータバンク(データベース,知識ベース)の形で掌握するだろう.全能→コンピュータはすべての生産,流通,管理の工程を無人化するだろう.

このことにはありとあらゆる社会的,経済的,歴史的留保が付けられるとしても,<論理的には可能>である.つまり,コンピュータはすべての論理的な事柄(情報)とすべての論理的なプロセスを論理的に処理することが論理的に可能である.
 

人間の全生活域――世界内で,何がどの程度まで論理的であるかと言えば,<一切は論理的である>と(仮に)言うことができる.一見論理的でないように見える事柄も,根気よく(おそらくは無限に近いプロセスを要するとしても)分節してゆけば,最終的には論理的なものにいつかは帰着する.(もちろん一切を論理化する必要はないし,実際上可能的ではない.)

(ここで言う論理的であるとは,あることが普遍的に,あるいは条件を附して正しいか否かということの判定が可能であるということを意味している.たとえば,<1人の人間がいるとすれば,その人には必ず1人のそして1人だけである母としての女と,1人の,そしてただ1人だけである父としての男が,その人間以前に存在する>ということは論理的に言えそうだ.(この場合でさえ,なんの付帯条件もなしにというわけにはいかない.このことがアプリオリに真であるとすれば,どうしても,アダムとイブを仮定しなくてはならなくなる.))
 

人間の論理性,正しさに対する感覚は自分自身の存在の確かさ――identity と深く結びついている*1ために,私が私でいることと,正しさに対する感覚とは切り離すことができない*2.(人間は何か悪いことをしようとするのにさえ――何がしかの(自分を納得させる)理由を必要とする.)これをあっさりと自我<ego>と呼んでおけば,後で述べるコンピュータの脆弱さ,壊れやすさは,この ego の未成熟(というよりも,まったくの欠如)によると言うことができるだろう.(つまり,人間は ego――論理性の確立によって,逆に論理的自己矛盾に対する耐性を獲得したと言える)

*1 デカルトはそれを「我思う.ゆえに我あり.」と表現した.「我思う」という言葉の中には,思考の論理性,正しさに対する感覚が含まれている.「我思う」が単に何かしらの心象的なイメージを頭脳スクリーンに投影することであったとしたら,「我あり」として自己を定位することはできなかったであろう.デカルトについては→ハミルトン閉路問題

*2 参照→Kへの手紙:沈黙と邪悪
 

実際的な事柄(特にモノに直接関わるときには)は,非常に幅広く論理的であることを容易に認めることができるし,それらを論理的な(機械的な processing(処理)に分節することは原理的に可能である*2.つまりコンピュータは,相当に広い人間の領域で,たいがいのことができる.(現在の技術レベルにおいてすら)と言える.コンピュータは,製造,加工,運搬,流通,管理,その他のほとんどのことを(まかされさえすれば)こなすだけの潜在的能力を持っている.

*2 デカルトはこれを「方法序説」で示した.デカルトが扱った問題はグラフ理論的には「木」と呼ばれるもっとも単純な構造である.論理を一般のグラフに適用する確立した方法を我々は未だ持っていない.参照→ハミルトン閉路問題

ベルトコンベアー上の流れ作業による作業の自動化,いわゆるフォーディズムと呼ばれる生産システムはデカルトの理論が自動機械と結合した最初の事例である.これは,熟練工の仕事を単純作業に分解して線形に再配置し,そのライン上の単純工に引き渡すという生産方式である.