Kへの手紙

― 虚偽について ―

1981-1982

M.N.


情熱の推論だけが,信頼するに足る唯一の推論,

ひとを説得する唯一の推論である.

― キルケゴール ― 

手紙を書かなかった理由

ゴーマンということ

再審請求

ボタン信号一つ

良い人

僧侶

コーヒーカップ

コトバと事実の一致

許される虚偽

真理を恐れる理由

虚偽と時間

誤謬という虚偽

虚偽の暴力性

書き言葉の中の死

沈黙と邪悪

  

手紙を書かなかった理由

 私がこの間に何故あなたに手紙を書かなかったか,ということの釈明を聞いてほしい.私は何度もあなたに宛てた手紙のペンを取りかけて止めた.私はあなたに手紙を書くとき,私自身が文学してしまうことをもっともおそれた.私が文学することの結果は論証を省略して言えば,私の文学的自殺――,つまり自殺にみせかけた文学による扼殺――を招いただろう.私は死ぬかもしれなかったが,自然に死にたかった.私は死に瀕していたが文学的にそれを美化することを欲しなかった.というより,私は美しいコトバとそのコトバの実現を恐れた.そのコトバによって私自身が奪われてしまうことを惧れた.

 たとえば私はあなたの昔の手紙の中のこういう引用を覚えている.多分,ヘルダーリン*1か誰かのコトバだろう.「生の美的段階―恋愛,倫理的段階―結婚,宗教的段階―破婚」何と美しいコトバだろう.何という真理,何という洞察に充ちたコトバだろう.このコトバ一つのためだけでも,人は離婚を決行しなくてはならないだろう.あなたに手紙を書くことを始めたら,私はコトバを探す誘惑を断ち切ることはできないと思う.そしてコトバは見出されるかもしれない.美しい光り輝く金文字で書かれたコトバ.そこで現実の私達はそのコトバに略取されてしまう.

 もっと分りやすく言えば,私は「破婚」というコトバの先に歩み出ようとしていた.その先にも何かがなくてはならない.しかしそこはもう,(あるいはまだ)コトバの無い世界だ.私はそこに何時もと同じように,光の射し込む角度と,風の吹いてくる方角だけを頼りに進んでゆきたいと思った.つまりそれが少なくとも仙台に来てからの私のやり方だから.

 こういうわけで,私はあなたに手紙を書かなかった.だから逆に言えば,あなたの奥サンに手紙を書いている彼女は不可避的にこの過マチを冒している可能性がある.この2つの立場の違いが私に文学を止めさせた最も大きな理由だ.私はあなた方の手元にある彼女の手紙の美しさを知っている.そしてそれが《偽り》であること,にも関わらずコトバのもつ力,成就する力をそなえていたことを知っている.

 彼女は手紙を書く.そして一歩歩む.コトバの正しさとコトバの力がそれぞれ独立であること.つまり偽りのコトバにも力のあるコトバが存在することは指摘するまでもないだろう.大東亜共栄圏*2とか,八紘一宇とかいうコトバがどれほど悪辣な偽りにみちたものであったとしても,そのコトバには何千万という人間を死にわたすだけの力が付与されていた.

*1 キルケゴールの間違い.参照→彼女に対する私の関係:結婚

*2 終戦後,朝鮮から引き揚げてきた後,しばらくして今の土地に移住してから父が関係したアミノ酸醤油製造会社(あっという間に潰れた)の社名は「共栄産業」であった.(私達はこの工場の一角を囲って住まいとしていた.父は学生時代,先鋭な国粋主義者赤井峻の使い走りをやっていたことがある.)

 

ゴーマンということ

 私はゴーマンだとあなたは言う.特に私が人の心の中を勝手に断定し,「あなた自身は知らないだろうけれど,あなたはいまこーしようとしている」とか「あなたはもう私のことを愛していないというけれど,それでもあなたは私のことを愛している」と私が言うことを,もっとも倣岸な行為だと批判した.彼女はそのことをこういうふーに言っている.「私のことをそんなふーに勝手に決めつけないでよ」

 あなたはそれが私タチの間における最も主要な問題であると指摘した.つまり私は,彼女の自由を奪っている.身体的,物理的自由だけでなく,精神の自由を侵している.「あなたの際限もない自我の拡張」とあなたはそれを呼んだ.そして,それに対する彼女の反逆は正当なものであると主張した.しかし,私は思う.それでは人はどのようにして人の心を知るものだろうか?(断定によってでなく,確信によってでもないとしたら)愛を誓うコトバによってだろうか?あるいは何がしかのささやかな,あるいは献身的な行為によってだろうか?

 私はあなたの私に対する友情を信じている.だが,その保証はどこにもない.私達は沢山のことを語り合ってきたし,長い時間をともに過ごしてきた.けれどそれが,今現在の私達の友情の確証となるわけではない.(それは今,刑務所を出てきた人が再び刑務所に入ることを請け合うことができないと同様に明らかだ.)にもかかわらず,私は私達のあいだの友情,とりわけあなたの私に対する友情の変わらないことを信じている.同様にあなたは私のあなたに対する友情が信じうるものかどうか,その根拠はどこにあるかを確認することができるだろう.そして,それは結局,自分自身のそのことについての確信にしかないことを見出すだろう.

 たいがいの場合,自分自身の心の中のことについては人はほとんど自明のことだと思っている.(実際には必ずしもそうではない.人は自分の心の中でその背中を見ることはできないから.)しかし,人が自分のことをどう思っているか,何を考えているのかを誤りなく知ることは難しい.

 人というものは物理実験の対象のように,反復して一つの現象を追跡観測することはできないから,人と人の関わり合い,相手を知ろうとする行為自体が,必然的にその関係を,だからその解答を変えてゆく.愛されようとして,愛を失ってゆくということは往々にしてあるに違いない.そのことを怖れて,どうしても接近することのできない関係もあるだろう.

 

再審請求

 私タチが離れてくらしはじめてから,すでに一年以上を経過した.私タチの間では三度,離婚用紙が往復した.けれど私は私が彼女を愛しているのと同様に彼女が依然として私のことを愛しているのを知っている.(彼女自身がそれを否定しているにも関わらずだ)けれどそれは,彼女の私に対する愛が終わらない,ということを意味しているのではない.彼女の私に対する愛はこれまでに何度も燃え尽きようとするローソクの炎のように明滅した.私の魂はそのたびに千キロメートル余の空間を隔ててそのことを感知し,私は全力を挙げてそれを食い止めてきた.そんなことがあるのだろうか?――多分私はあると思う.それが,この一年間に私がやってきたことの全てだから.――細々と消えかかる生命の灯を守りつづけること.

 彼女はこれまでに何度か,少なくとも三度私から離脱することを決意したと思う.愛というのも一個の行為であるから,決意し,実行することができる.私は彼女が本気で離れようとしていること,一度離れてしまえば,たとえどんなことがあっても,百個の流星が背後に落ちたとしても振り返らないであろうことを知る.そのことが今,起こっていること,彼女の心が今,決まったということを私は直接知ってしまう.どのように?――夜の海の潮騒のように不吉な胸さわぎと,私を誘惑する甘美な死のササヤキが聞こえ始めてくることによって.

 『ワタシハユキマスサヨーナラ』と彼女は最後の電報を打ってくる.遠い宇宙の涯まで漂い出た宇宙船からの送信が次第にかすかなものになってゆくように,通信は途切れがちになり,途絶える.私は目をこすり,手の中の電文を拡げてみると,そこには『アイノオワリ」シ』とタイプされている.私は何処へ行こう?ワタシハドコヘユコウ!*1しかし,もう私の行くところはない.私は断崖に立ち,私の孤独な跳躍の瞬間を待つ.無数の星が波に沈んで消えてゆく.

 そしてそのとき,私が躍ばなかったのはなぜだろう?第一に,私は余りに多くの人の祈りによって支えられている.私の苦しみは知られていて,沢山の人タチが私のために祈っている.週毎の祈り会*2の祈りの中にも私のための祈りがこっそりと目立たないように加えられているだろう.第二に,私の小さな子供タチは私を取り巻いて私のソデ口や洋服のスソをしっかりと握っていただろう.そして,第三に,多分彼女自身が私の状況を感知して,彼女の決意を鈍らせ,今しばらくの執行猶予を私に許したのだと思う.

 もし,私が死刑囚であるとするなら,私は冤罪を叫んで再審を請求し続けている死刑囚であると思う.私の何度目かの再審請求は却下され,次の書類審査が何時始まるのか私は知らない.執行吏は今日もカラカラと滑車を鳴らして,綱の張り具合を試しているに違いない.

*1 このリフレーンは彼女に対する私の関係:意識された絶望に引用されている.

*2 筆者は教会嫌いなので,いかなる宗派にも属したことはなかったが,仙台では,一つの教会と親しい交わりを結ぶことができた.

 

ボタン信号一つ

 あなたは多分彼女にTELするだろう.あるいは手紙を書くかもしれない.しかし,その中で決して触れて欲しくない話題がある.このあいだのあなたとの再会のとき,あなたが最も熱心に語っていた話題―黒色舞踏と菱方霞のことだ.私はあのときあなたの話を聞くにとどめ,何の反論も行わなかったけれど,あの男とその流れは私の側から見ると逆流だ*1.あなたが菱方(それももうずい分遠い幻影だが)とその流派の礼賛者であることを知れば,彼女の立場は決定的に強められるだろう.

 彼女は一度万博に出品する作品だと称する菱方の勧誘に乗って京都に行ったことがある.それは(多分菱方の全盛期であったろう)20人ほどの男女全員を全裸にして体育館の床の上で無差別に絡み合わせ,さまざまな姿態を取らせながらそれを真上から長時間撮影するというものであった.

 この体験が彼女の血に一滴の毒を注ぎ込んだことは間違いない.撮影の後,要求された演技とはかけ離れた報酬に不満を抱いた参加者が騒ぎ始めたが,多分菱方が要求を蹴って終わったのだろう.彼女はその係争では局外者の位置にいて,そのあと菱方に(一人だけ)「自分のところに来ないか」と誘われている.私の腕から私の愛する女を奪い取っていった男はこの舞踏派の一員である.

 あなたは多分料理の話もしていたと思う.男はフランス料理の料理人.確かにあの男にはもっともふさわしいものだ.料理人という職業にはどことなくエピキュリアンで悪魔的なところがある.グツグツと煮えたぎっている大ナベの中の犬の骨には多分一筋の毛が絡み付いているだろう.

 女は週に一度家族には博多に出張と称して男に会いに行く.西洋料理店のほの暗いローソクの火影で水鳥の腿肉をほぐしながら,男はワインリストに書き込まれたフランス産葡萄酒の名前を,まるで自分のなじみの女達の名前を呼ぶかのように熱を込めて女の耳元に吹き付ける.女はうっとりとそれを聞き,ワインの赤い血に酔い痴れながら心につぶやくだろう.「今までのくらしなんて,子供じみたママゴトみたいなものだったわ」

 そして衣装ダンスの中の女の衣装は際限無く増え続け,大きい子供は日ヨウ日がブラブラしているだけですぐに終わってしまうことを知り,小さい子供はズルズルと絶え間なく流れる鼻の治療のために,一人でボタン信号一つ,ボタン信号でない信号一つを渡って病院に通うだろう.真ん中の子供は読書サークルの帰りの道で本の中にはかなしいこともあるけれど現実ほどではないと思うかもしれない.

*1 おそらく菱方はコトバをまったく信じていないだろう.もちろんそれは,彼が言語を持っていないとかコミュニケーションをまったく否定しているということにはならない.彼の言語は肉体である.彼は人が眠るとき口を閉じるように,四肢のすべての関節を外して眠る,と信じられていた.

 

良い人

 私への何度目かの最後の手紙の中で,彼女は私についてこう書いている.「あなたはとても良い人でした.どうぞ,あなたの幸せを見つけて下さい.心よりあなたの幸運を祈っています.」『良い人』川端康成が伊豆で踊り子に別れ際に言われたことば.私もまた,十八才のとき,このコトバを街で偶然知り合った(同世代の)若い女に言われたことがある.川端の文学は,もう一度この踊り子にめぐり合ってこのコトバの取り消しを求めるための長い道程であっただろう.

 渋谷のレッドイーグルで彼女と出会ったころの最初の印象を彼女はこう言っている.「あなたがこわかった.とてもこわい人のように見えた.」そして終わりのコトバはこーだ.「あなたはとても良い人でした.どうぞあなたの幸せを見つけて下さい」何という不条理.何というマンガであろう.

 彼女は「良い人」をではなく,「こわい人」をこそ愛していたのだ.駒場の頃の私の学生証にそのころの私の写真が貼られている.どこかの(確か寮の前あたりにあったような気がするのだが)スピード写真で取ったために白黒のコントラストのどぎつい手配写真向きの人相.ほゝがこけ,ほほ骨が突き出ているため出っ歯であることが隠しようもなくなっている.

 たとえてみれば飢えた狼の今にもよだれでも落としそうなカオ.(あの頃のキャンパスでほゝがごそっとこけているカオを見ると,こいつにも女ができたなということがすぐにわかった)あの男のカオは私の独断によればこの私の15年前の写真に酷似している.女は私を捨ててこの男を選び取った.何という大きな過誤を私は冒していたのだろう.

 

僧侶

 十五年という長い年月を村人のためにトンネルを掘るということだけに捧げ尽くした僧侶がいたとして,もしその十五年間の辛苦のあげく掘りあげたトンネルがまるきり反対の思ってもみなかった方に出てしまったとしたら,その僧侶はがっかりしないだろうか?がっかりしないはずはない.がっかりするに違いない.とてもがっかりすると思う.多分腰をぬかすだろう.しばらくは立てないのではないだろうか?(多分それは何千丈という絶壁の中腹.僧侶は腹ばいになって眼下を見下ろす.はるか下の方には急流が白いキバをむき出している.)

 もう一度立ちあがったとき,多分僧侶は十年は歳を取っているだろう.腰は曲がり,歯はぬけ,眼はおちくぼみ,髪は真っ白に逆巻いている.僧侶はこの十五年間の言葉にし難い労苦のあとを手でさすりながら出発点までよろよろと戻ってゆく.そのノミあと一つ一つを僧侶は思い起こすことができる.ここは何年の何月,土砂降りの雨の続くころだった,ここを掘っているとき私はすでにほとんど餓死寸前だった,この頃は私のウデに力があり,ノミのはじきかえす力が唄に聞こえた.

 多分,この僧侶は若い時,何かふとしたことがきっかけで念仏よりも実践の道を選びとったのだと思う.この僧侶は再びノミを取って新たな岩尾に向かってゆく勇気をもち得るだろうか?十五年前最初のタガネを打ち込んだときのあの無謀な勇気が再びこの僧侶に湧き上がるだろうか?

 私は思う.多分,それはないだろう.時は過ぎ,もはや取り返すことは不可能だ.この大いに不運な僧侶の行末を考えると私はかなしい気持ちをおさえることができない.僧侶の節くれだった指はすでに数珠を持つには似つかわしくない.ゴツゴツと荒れて,珠は一スリで飛び散ってしまうだろう.もう一度寺院に戻ってあの抹香臭い空気を吸いながら読経ぐらしをすることができるだろうか?既に破門されて久しい僧侶を受け入れる寺院はもちろんどこにもないだろう.

 私は一ばん普通のありふれた結末を考える.この僧侶は多分このトンネルを離れることはできない.このトンネルの中で犬のように眠り,飢え,この彼自身の唯一にして最高のケッ作であり,しかもかなしむべき錯誤であったトンネルの中で死んでゆくだろう.彼の魂が死後もこのトンネルにとどまるということは大いにあり得ることだ.時には彼の生前の唄が聞こえてくることもあるだろう.力強く甘い彼の唄声が.

 

コーヒーカップ

 一昨年の末,暮れも押し詰まった頃,私タチは相変わらず金が無かったが,私は親方からモチ代カセギになるからと言われ家からすぐ近くのところに,地震で落ちた古い借家の壁にプリントベニヤを貼る仕事をもらって,夜ナベ仕事にやっていた.その日一日かけてその仕事をあらかた終え,給料をもらい,また,借金しているところに金を置いて私は家にもどってきた.

 私のフトコロにあったのは12,3万の金であったろうか?金額はもう覚えていない.しかし,家族五人が正月の半月を過ごすのに決して不足する額ではなかったと思う.私の給料は月二回払いの半月勘定になっていた.私はキチンと仕事を片付けた満足感と久しぶりの休暇に入る喜びでウキウキした気分だった.車を狭い庭先に入れ車を降りると部屋の灯りは消えて誰もいなかった.家の中に入って電気を点けたときの印象を私は終生忘れることができないだろう.

 部屋はこざっぱりと片付けられて,洗い上げられたように美しかった.特別ていねいに磨き上げたわけでもなく,いつもの見なれた家具がいつものところに置かれているだけなのに,部屋には異様な美しさがみちあふれていた.テーブルの上には灰皿と吸いサシの煙草が二本.コーヒーカップに残る口紅のピンクが私の目を奪った.私はそれを手にとり,そのわきに置手紙.手紙には「とても疲れました.少し九州へ行って休みます.休みの終わる前には帰ります.心配しないで下さい.」という意味のことが書かれていた.

 その手紙は多分私をその晩中,怒らせていたと思う.私タチはこの休みには相談して,最近購入したばかりの車で東京へ行き,友ダチのところを回って過ごすことに決めてあった.それなのに彼女は私に一言も相談せず子供を連れてさっさと出ていってしまった.

 翌日,私は一日を夢中で働き,仕事を決め,(請け負い分の)金をフトコロにして意気ヨーヨーと帰ってきた.しかし,車を車庫入れする時点でまた車がトラブルを起こし,結局車はレッカーで車屋に運ばれてしまった.しかも,正月休みに入るので車は明けてからしか乗れないということになった.(私が車に乗って東京に出ていったら,すでにその時点で私は事故を起こすか何かで死んでいたと思う.だから私はこのとき車が乗れない状態になってしまったことを後になって感謝した.)

 夜,白ワインを半分くらい空けながら私は十日間の休暇のプランを練った.故障している温風機その他の修理,雪の落下で折れてしまった便所の(以下欠落)

(M.N. 1982?)


  

コトバと事実の一致

 昔,私達が青年であったころ,論争は一種のスポーツであった.軽いラリーからバックハンドのサイド攻撃,顔面をねらった激しいスマッシュ.しかし,そこには肉体の汗をかくさわやかさがあった.この間あなたと少し話して,私達には今はそれも社交としてしか許されていないと感じた.社交である限りは,そこに慎ましさもなくてはならず,相手を傷つけることも避けなくてはならなかった.

 このあいだのあなたにあてた手紙の中で私はあなたに手紙を書かなかった理由を「あなたに手紙を書くことを始めたら云々」と書いていると思う.この文章を注意深く読むとこの手紙が実はあなたに書かないといっているその手紙そのものであることがわかる.つまり私はあなたに書かないといっている当のものをすでにそう書くことで書きはじめている.あなたはそれを読むだろう.そして,私がそれを書かないでいたことはもっともなことだ,と納得するに違いない.

 どのようなコトも言える.たとえば,文学的世界,想像的空間においてはどのようなことも言表し得ると言えるだろう.このとき,どのようなコトもということばは,どのようなウソ(虚構)も,ということばにほぼ置き換えることができる.それは,そこで表現されるコトバが事実との対応を欠いている,あるいは必要としていないという理由による.(事実とコトバの一致ということをコトバがウソでないこと,真であることの原始的要請としてよいだろう.)

 言語についてのある異端的理論によれば,コトバと事実とは『行為の瞬間にのみ一致する.コトバは関係の中に置かれるからその行為は取引を伴わない無償なものでなくてはならない.無償な行為のみがこのような純粋行為であり,その中で真に完全な純粋行為は唯一,自殺である』.もちろん私は今,このような観念をもてあそんではいない.しかし,私は私自身を性急に要約しようとする強い欲求の中に,このような種類の危うさを感じている.

 

許される虚偽

 あなたはこのあいだ,私が彼女の置手紙の中に存在するウソ*1を問題にしたとき,「ウソをついたっていいじゃないか*2」と言明した.(私はあなたがこのコトバをいい加減に言っているわけではないということを知っている)私は基本的に「ウソをついてはいけない」と思っている.しかし,この2つの立場には実際上,それほど大きな開きはない.何故なら私は現実的にしばしばウソをついている*3し,ウソの混じらない話などむしろほとんど存在しないかもしれない.

 コトバと行動が一致していないという点において私自身矛盾しているから,私の用いる「ウソはいけない」というコトバには説得力がない.逆に言えば,「ウソをついたっていいじゃないか」というコトバは私達の現実に即している以上,正しいとさえ言える.にもかかわらず,やはり「ウソはいけない」とあえて私は主張する.

 (私は仙台の一年目少なくとも数ヶ月間は,ほとんどウソをつくことなく生活した.これがどれほど驚くべきことか,一日ウソをつかずに過ごすということを試みてもらえば直ちにわかると思う.その期間私は当然コトバが少なかったろうし,特に冗談の中に不可避的に混じってしまうウソについては慎重に避けなくてはならなかった.それからあの長い下り坂(ニーチェは山から巷へ下りると言っている)を下るに従い,私の話すことばの中には漸次,ウソ(ちょっとした誇張や追従)が添加されるようになり,それに伴って社会生活における人との交わりは多少なりとも円滑なものになっていったが,交わりそのものはむしろ浅くなったように私は感じる.多分,浅くなっただけでなく,劣化したとさえ言えるだろう.)

*1 相手に物質的ないし精神的損害を与えない限り,「ウソをつく」ことそれ自体は一般には犯罪を構成しない.経済的な損害をもたらすウソを詐欺という.「裸の王様」の大域的なウソを見破ったのは一人の幼児であった.裸の王様的状況はつねに広汎に存在するが,これは単純な詐欺とは区別されるべきものである.

*2 仏教では「ウソも方便」とされると言われているが,残念ながらその典拠を知らない.少なくとも釈迦の言葉ではないのではないだろうか?イエスは「比喩によって語る」と言っている.比喩とウソ(ないし虚構)の距離を厳密に測定する必要があるだろう.

*3 筆者がウソというコトバを(後述されるように)通常よりずっと広い意味で使っていることに注意する必要がある.通常の言い方で言えば,筆者は「まったく(ないしほとんど)ウソをつかない人,ウソの嫌いな人」である.

 

真理を恐れる理由

 私もまた,どのようなコトも言えるという立場にある.話せないどのようなこともないと私は考えている.ただし,どのような真実も言表し得る,どのようなことであれそれが本当のことであれば言えるというのが私の立場*1だ.(私はウソはつくべきではない,つまり人は本当のことを言うべきだと思っている.しかし,それは私が絶対的に正しいとか,私は誤ったことがないとか,私は罪から自由だ,というようなことを意味してはいない.

 私は私自身の悪や,私自身のウソが公けになることを好まない.私はできるかぎりそれを覆い隠そうとするだろう*2.確かに私は他者を怖れる理由を持っている,他者と私とは利害によって結ばれているから.しかし,私には真理を恐れる理由は存在しない.それゆえ,どのような真実も語ることができる(もし聞く人があれば)と私は考えている.(真理の前には無益なものはおそらく存在しないだろう.――もしあるとすれば,それは真理自体を無益なものとしてしまうから.)

 この立場は世間一般の立場とは180度反対のものだ.しかし,私は自分自身の真理に対する欲求だけは捨てることができない.私は私に対してどんなウソもついて欲しくないと思う.私はどんな真実でもそれが真実であるというだけの理由で受け入れることができる.このような私のコトバがどこまで本当であるかは試みてみなければわからないだろう*3.だが私は最後まで真実を聞く人でありたいと願う.

 (しかしこれは私が世界一般をあるがままに受け入れる,容認するということを意味してはいない.たとえば,今日私は「自宅療養*4」と称して一日中部屋に閉じこもり,フトンの中でラジオの国会中継を聞いていたが,茶番劇としか聴き取れなかった.民生党鹿島某の発言は「軍部」の欲求不満が暴発してクーデターにまで行き着く危険を仄めかすものであったが.)

*1 私が表現者のポジションから限りなく隔たっていることはこれからも明らかである.

*2 プライバシーは現在個人の権利として法律的に保護されているが,ネットワーク上で個人情報を効果的に保護することは技術的にも困難な課題になりつつある.これは情報流通上の問題だが,情報の公開の問題も含む.人は自分を知られたいという強い欲求を持っているが,同時に知られたくないという二律背反する感情もある.ネット上での情報は無差別に公開されるから,そのバランスを取ることは予想する以上に難しい.

*3 このようなトライアルを受けて失敗した例が「ダーヴァビル家のテス」(トマス・ハーディ)にある.参照→邪まな愛:前書き

*4 最終的にこれは「魂のリハビリテーション」と呼ばれるようになり,約1ヶ月間狭い下宿屋の一室で昼も夜も眠りつづけた.大脳に張り巡らされた神経回路網の何億個というパラメータを再調整する作業には,それだけの時間が必要だった.(宿根草が深く根を張った植木鉢からこの草花を抜こうとしたら,植木鉢はそのすべての土を失うことになるであろうことを考えれば,この作業コストがどれほど高価なものにつくかは容易に理解されるだろう.網の目のように張り巡らされたこれらの細かい根を丹念に一本づつほぐし,切り離してゆく気が遠くなるほどの作業を大脳は作業員を総動員して,夜間,煌煌とサーチライトを照らした危険な突貫作業=夢の中で行う.)読者は,サンテクジュペリの「星の王子様」に出てくる惑星(プラネット)が大脳のメタファであったことに気付かれるだろう.

 

虚偽と時間

 ウソ*1の最も基本的な形態は「本心に反するウソ」と「事実に反するウソ」だろう.この2つはともにそのウソが行われたときからウソであり,そのことを話者は多かれ少なかれ自覚している.「ウソをついてはいけない」というときのウソも大方はこの2つのどちらかを意味している.(本心ということ,および事実ということについては今は言及しない*2

 ウソはこの他にも多様な形態で存在する*3.たとえば,短縮・要約に伴うウソ.あるいは,拡大,誇張に伴うウソのようなものもある.つまり,一般にコトバを用いて伝達するときのメディアとしてのコトバの限界性に起因して,コトバの修正や縮約,あるいは意図的な歪曲,修飾が行われたりする.(それはたいがいはより効果的に理解してもらうために行うものであるけれど,時によってはそれがカタストロフ的に拡って大がかりなデマとなるようなことすらある*4

 (私がこの手紙の冒頭で問題にしていたのは,この要約に伴うウソという事柄だった.つまり手紙は書き終わるであろうし,そのとき同時に要約もまた完了する.それはウソであるがゆえにコトバでもあるから,コトバの力,つまり実現する力を持つに至るだろう.私は今,このウソを回避する手段をほとんど持っていない.手紙を中断することだけがほとんどその唯一の方法であるように私には思える.)

 それから約束に対する違反,記憶違い,忘却,すり替え,でっち上げ,その他が存在する.これらは主にコトバと事実の間の時間的関係にかかわっている.ある事実は時間と共に忘れられ,その代わりに誤ったコトバがその場所を乗っ取る.話者がそれを真実と信じていたとしても,事実をありのままに知っている人,あるいは事実そのものの立場からすれば,まぎれもないウソと言えるだろう.

 ある時間が経過した後,ウソになるコトバ.時間が経過したために多少なりとも不明になった事柄の意識的ないし無意識の歪曲,ネツ造,その他は「あの時はこーだった」「いや違う」といった類の水カケ論議の主因をなしている.ファシズムが歴史をネツ造してゆく手続きはつねにこの様式に従っている.同様にある時間が経過した後真実になるコトバもあるだろう.たとえば予言.*5

 そのコトバを発したときには本心からのものであっても時間とともに事実と乖離してゆくコトバ.そのコトバを信じてその時間を生きてきた人間にとっては残酷な結末と言える.

*1 虚偽はコミュニケーションの最大の阻害要因である.デモクラシーないし市民社会は「話せば分る」という原理が無条件に適用可能であることを仮定している.つまり,完全なコミュニケーションがつねに(ないし,何時かは)可能であることを前提とする.古典経済学的な市場至上主義の立場も同様に情報の完全な開示つまり,完全なコミュニケーションという仮定を所与とする.完全な情報公開はこれらのシステムが成立するための(最小限の)与件である.

*2 本心と事実とウソ(コトバ)というトライアングルを考えると,仮にそれぞれが0か1の値しか取らないとしても,本心と事実とコトバが完全に一致する場合から,本心と事実とコトバがすべて齟齬する場合までの,少なくとも8つのパターンが存在する.(本心 OR 事実 = コトバ であるとすれば,状態は4つに限定されるが)

*3 「平気で嘘をつく人たち」の中で,スコット・ペッグ?が言及している.スコットは米国の精神分析の臨床医であるが,「ウソをつく」という病理が単に個人的問題に留まらず,すでに社会的病理として蔓延しつつあることを認めている.

*4 口コミ,放送媒体,ネットワークその他さまざまな広域メディアが存在する.製品不良は(巨額のコストがかかるにしても)リコールすることが可能であるが,1度発信され,メディアに載ってしまったメッセージを回収することは原理的に不可能である.聖書には,「人はその犯すすべての罪も神を汚す言葉も許される.しかし,聖霊を汚す言葉は許されることはない.」とある.これを熱力学では「エントロピーは不可逆的に増大する」と表現する.

*5 イソップの狼少年の寓話は,最初にウソがあり,ある時間が経過した後にそれが真実となってしまうという逆転した構造を持ったパラドックスであるが,歴史上に類似の悲劇を見付けることは難しくない.

 

誤謬という虚偽

 さらにもっと広汎に存在し,ほとんどウソとはみなされていないけれど,結果はしばしばより重大で,深刻なもの.事実誤認,誤謬,誤解あるいは理解しないこと.このような場合,話者は事実とコトバとの不一致にまったく気付いていない.ときには,半ば気付いているというようなこともあるけれど,ほとんど話者の責任範囲外のように見える.私達はほぼ日常的にこのような誤謬の中で生活していると言えるだろう*1

 しかし,「理解しない」(ドグマ的理解と言い換え得る)ということの中には極めて集団的かつ悪質なものが存在することがあって,私はファシズムの主要な特徴の一つに当たると考えている.たとえば,ナチスの文化的体系においてはゲルマンの民族的優位と世界史的意義といったドグマの他に,「宇宙氷理論」とか「アトランティス大陸神話」などといったきわめつけのまゆつば的奇論が勢力を持っていた.(このような吉元流*2に言えば二流以下の文化人の跳梁跋扈する社会は不幸な社会だ.正常な人間は精神病院にしか見出し得ないだろう.)

*1 科学的発見は第三者の追試による確認を要求されるが,宗教はその埒外である.宗教活動(その大半は経済活動である)から「ウソ」を取り除いたとしたら,どれだけのものが残るかは大いに疑問である.

*2 吉元尭明 60年代から70年代の学生反乱に影響を与えた思想家.彼のその後の行動は,彼自身が二流であったことを証明するものとなってしまったが.女流小説家吉元ばにらの父.

 

虚偽の暴力性

 「理解しない」というのはコトバとの関係で言えば,コトバを聞かない,コトバに耳を貸さないということであり,これはそれ自体一つの静かな暴力である.(私はウソ,ということの中にはそれがどんな小さなものであれ,必ず暴力的なものが存在するのではないかと考えている.)

 ウソは通信路に(場合によっては)破壊的なダメージを与える.聞く耳を持たないという相手に対して可能なコミュニケーション手段は,限りなく限定されたものになってしまう.暴力は暴力を誘発しがちだ.全ての交通路が遮断された段階では,通信距離0の物理的な通信(接触*1)だけが現実的な手段となってしまう可能性すらある.コミュニケーションの手段として暴力しか残されていないという関係はいずれのレベル(家庭,学校,職場,共同体,民族,国政,外交...)においても最悪である.

 もっとも軽いウソとしてはジョークというコトバの遊びがあるだろう.しかし,これもまた,コトバのウソとしての暴力性を免れることはできない.偶然発せられた冗談*2によって深く傷つけられてしまうことはありがちなことだ.確かに軽いジョーダンの交じった活発な会話はスポーツのように楽しいものだ.そのような冗談の応酬の中で人は鍛えられ,人間関係に耐えることを覚えていく*3.だが,そのときに失われてゆくあの柔らかい魂を,私はいたましく思う.

 (もちろん,つねに自然でいたいということから却ってギコチなくなってしまうということは往々にしてある.社交というのは人間の生活技術,あるいは文化のカテゴリーであるいは最重要のそして最も高度なものであるかもしれない.しかし,私にはそうではなかった《これは自分についてのことだから》と言える.)

*1 人間は視覚,聴覚,触覚,味覚,嗅覚の5種類の感覚器によって世界からのメッセージを多様なモードで受信する.口で話したことを耳で聞くというチャンネルを2つ使うことによって,双方向の実時間交信が可能になる.触覚が他の通信器官と大きく異なるところは,チャンネル1つで実時間双方向通信が可能になる場合があるということである.たとえば,手を差し伸べて握手するとき,2人はともに発信者であり同時に受信者でもある.性愛ないしエロス的なものがコミュニケーションに占める特権的な地位は,このような(接触という)通信路の特殊な実時間性によって規定されるものである.中でも,男性だけが送信機を所持し,女性だけが受信機を保有する「性交」というコミュニケーションの特殊性は際立っている.

*2 つねに真実を告げていればよいのか?という問題はある.言うべきでないこと,伝えるべきではないことも当然あるに違いない.実際には,ウソによって傷つく場合より,本当のことを言われて傷つく場合の方が多いかもしれない.私自身について言えば,もし私がガンに罹っているとしたら,そのことを私自身に伝えて欲しいし,そうしてくれることを要求する.

*3 これは,スポーツが本物の狩猟や闘争をエミュレートする「遊戯」であるのと同相である.参照→ホイジンガ「ホモ・ルーデンス」

 

書き言葉の中の死

 書きことばの中に存在してしまうウソ*1.たとえば私はこの手紙の中で私自身のことを「私」と称している.しかし,私は普段,日常生活の中でこのコトバ「私」を使っていない.私は自分のことを「ボク」と呼んでいる.生まれてからこの方,何時でも,どんなところでも,私がこれ以外の名称で自分を呼んだことはない.それでは,この手紙の中に現れる「私」とは一体何者だろう.確かにそれは,普段私に知られている「私」ではない.

 少なくともこの「私」は私自身から多少なりとも突き放されている.それではこの「私」は存在しないものだろうか?それも適切な言い方とは思えない.それは書かれたものの上にある.あなたはどんなにくまなく探しても,書かれたものの上でしかこの「私」に会うことはできないだろう.この「私*2」に会うことであなたは私それ自体と間接的に対話する.しかし,それがあくまで間接的なもの,あるいは可能的でない*3ものであることは,あなたが紙から身を起こすことで明らかになるだろう.

 書きことばはそれが観念的なものであるなしにかかわらず,必ずうっすらとウソの色を帯びる.私は以前――仙台の最初の頃には,このことをもっと明確な強いことばで表明していた.「コトバを書きしるす文字のインクの黒の中にすでに死*4が存在している」

*1 話しことば,たとえば「ディベート」の中で用いる弁論術はウソをマコトとするための技法だろうか?腹芸と呼ばれる心理学的な高等戦術はどうだろう?

*2 サイバースペース上では,「私」という代名詞は「アバター」と呼ばれるキャラクターに置き換えられる.「ハンドル」は「私」と「アバター」の中間に位置するものである.「アバター」について我々はまだ実験的な体験しか持っていないが,あなたのアバターがネット上で恋愛しているとき,あなたは何をしているだろうか?

*3 本当にそうだろうか?間接的に存在する「私」つまり,参照される私と実在する私の関係については,もう少し考える必要がありそうだ.現時点における筆者の意識は,当時の把握とはかなり異なっている.それは「書き言葉の中の死」という論点を撤回するものではなく,むしろ,「書き言葉の中の生」を再発見しようとするものである.参照→邪まな愛:お怒りは解けたのでしょうか?

*4 歴史が始まる以前の幸福な黄金時代の記憶は確かに残っている.人間の不幸が歴史を持ってしまったことにあるとすればその歴史は文字を持つことによって始まった.文字を持つことの遅かった民族ないし,いまだに文字を持つことの無い部族に幸いあれ!

 

沈黙と邪悪

 最後に沈黙*1とは一ヶのウソであろうか?多分そのとおりだ.《黙っていればわからない》しかし,それは真実とせめぎあう葛藤しているウソ,生きて血を流しているウソであろう.

 私達は真と偽の中間項であり,まずもって矛盾として存在している.100%の真も100%の偽もないだろう.しかし,たとえば,悪を為そうとしているどんな人にも,そのことについての聞くべき弁明が存在しているということは驚くべきことだ.人はどんな小さな悪を行う場合にも,それを少なくとも部分的にであれ正当化するコトバなしに着手することはできないだろう.このことはどんな場合にでも,進んで悪を行おうとしているときでさえ,私達がなお『正しさ』に囚えられていることを示している.

 そのもっとも極端な場合,つまり悪を目的意識的に行うときでさえ,人は「悪ければ悪いほど悪い」という言い方はしない.「悪ければ悪いほどよい」とか「悪くてもよい」とかというふーにしか表現できないだろう.その人が「悪ければ悪いほど悪い」と言ったとすれば,それはほとんど自家撞着でしかない.

 「私はどこまでも正しい.私は誤まっていない」と言える人は,あのマリア*2のときも今も存在しない.しかし,もし誰かが「私は悪だ.私は誤っている.」と叫ぶとすれば,それはどこか「私は義しい」という声のひびきに似ているように聞こえる.いや,そう聞こえるというべきだ*3

 人は「私は誤っている」と告白する以外のどのような仕方によっても義に到達することはできないだろう*4.ウソがばれたときには謝るという原則はゆるがせにできないと私は思う.そうでなければ,収拾のつかないウソとウソの応酬の果てに,全ての関係は崩壊するか,極めて退化したものになってしまうだろう.

 「あなたを裏切ってしまったことを許してください」と彼女の手紙に始めてあった.今まで彼女が絶対に認めようとしなかったことだ.*5

(M.N. 1982?)

*1 沈黙はすべての言語の基盤つまり,大地である.ここで述べているのはその矮小化した特殊な形態,損なわれた不自然な沈黙であり,小型原子炉を格納する鉛製の容器のように放射線が外部に漏出することを防止する遮蔽として機能する.この鉛製の容器の内部で燃える火を仏教者が「地獄」と呼んだとしても,誇張とは言えないだろう.彼らの想像力によれば,この容器は火葬場のバーナーの高熱によっても焼却されない超耐熱設計になっている.

*2 マグダラのマリア

*3 当然ながら,親鸞の「悪人正機説」が想起されるところだ.

*4 イエスはこれを「悔い改め」と呼んでいる.メディアはその上を通過する善と悪に対し透明で中立なチャンネルを提供する.しかし,コトバをメディアとするコミュニケーションでは,コトバの真・偽がつねに問われるから,コミュニケーションの可否は必然的に倫理的な様相を帯びたものとなる.本稿は,宗教と哲学の用語をコミュニケーション理論(それは当然にも言語論を包含する)の用語で置き換える試みの端緒となるべきものである.

*5 本稿の2通の手紙は友人に宛てた「遺書」として書かれたと推定するのが妥当である.その意味では完結していない未完のテキストである.そのことと,このテキストが最後に女の謝罪について触れていることには,連関があるだろうか?