その全てを浄化するかのように、雨は――世界中に、強く降り注いでいた。
空気に冷ややかな軌跡を残し、地面に新たな波紋を描き続けてゆく。
徐々に大きくなる、小さな水の池。
晴れてしまえばすぐに干上がるであろうそれは、しばしの間、暗くよどんだ街を映し出していた。
ゆらゆらと、水面が揺れる。
明らかに下がり始めた気温に、気が付けば、あたしは思わず、その身を震わせていた。
「油断してたわ――まさかこんなに早く降って来るなんて」
呟いて見上げた空は、雲に覆われ、透けるようなあの蒼さを、今だけは隠してしまっていた。
雲から降り注ぐ水滴の、地面を、そうして、すぐ上の大樹の葉を打つ音が、途切れも無く、聞こえ続けている。
ポツリ――と小さな音をたてて、その葉から、水滴が一つ、頭の上に落ちてきた。
鼻の上で跳ねたそれをゆっくりと拭うと、本当にうっすらと、だが、雨の香りが、した。
――瞬間雨は、あたしの呟きをもかき消すかのように、激しさを、増していった。
降り注ぐ音に、言葉すらも、浄化されているかのようだった。
雷が鳴ってもおかしくないような豪雨の中、あたしは、ふと、自分が抱きしめられたのに気づいた。
無意識のうちに、体重の全てを、彼に任せてしまっていた。
……とても、暖かかった。
目の前に広がるのは、限りない雨の世界だというのに、ここだけは、太陽のような――陽だまりの、暖かい香りが、する。そんなような気が、した。
普段なれば魔法でぶっ飛ばす所だったけど、今だけは――そう思って、あたしはゆっくりと、彼の背に腕を回した。
それに答えるかのように、彼は、あたしの背を、優しく撫でてくれていた。
何度も、何度も――
空気を切り裂くほどの水に、景色は既に、霧の向こうと化している。
何も見えない空間の中で、唯一、この木の下だけが、真実を見ることのできる場所だろうと、そう、感じざるを得なかった。
リナ――。
不意に、頭の中に直接、あたしの名前を呼ぶ暖かな声が、聞こえてきた。
聞きなれた声に、あたしもいつものように、ゆっくりと、答える。
「ガウリイ――」
名前を呼ぶ。ただそれだけの行為だった。
それでも――普段はあまり気づくことができなくとも、この言葉は、どんな呪文よりも、大切な言葉だった。
――天から降り注ぐ雨の描き出す幻影の中で、たったの、2人きり。
いつもとは少しだけ違った心で、あたしは、彼のことを抱きしめている。
そうして、彼も――あたしのことを、抱きしめて、くれている。
不意に、寂しくなることがあった。
空の具合から、今日は雨が降るんだ――と、そう理解していたのに、宿屋に帰れなかったのには、それなりの、理由があった。
光を薄くし始めた太陽の下で、教会の鐘が、凛として鳴り響いていた。
そうして見かけたのは、死者を弔う、黒の葬列だった。
――こんなものは。
確かに何度も、見てきてはいる。人が死ぬことは当たり前であり、自然の摂理に、適ったものなのだ。
だが、やはり。
自分も、多くの人を殺してきてはいる。この手を汚してきてはいる。
それでも、人の死というものには、どうにもなれることが、できずにいた。
慣れてはいけない――そんなような気さえ、した。
……その葬列を見つめながら。
あたしは、つい先日に起こったことを、ふと、思い出さずにはいられなかった。
ガウリイが、あたしのことを、デーモンから庇ってくれたことが、あった。
ちょっとしたミスだった。思いもがけぬ、出来事だった。だが、それが免罪符になるはずもなく、ガウリイは、自分の目の前で――……。
失っていたかもしれないと思うと、不意に、怖くなることがある。
あの時は幸い、小さな怪我ですんでいた。あたしの呪文詠唱が間に合い、事が大きくなる前に、デーモンを打ち倒すことが、できたのだ。
それでも、と。
その時から、ちらりと思うことがあった。
即ち――もしあの時、ガウリイを失っていたら――……。
好きだよ、と、当たり前のように、彼はあたしに呟きかけてくる。
時には愛しているよ、と、ありったけの想いと共に、そんな言葉をくれる。
何よりも信頼できるそれだからこそ。
時には、裏切ってしまいたいと、そうとすら、思うことがあった。
あたしと一緒にいちゃいけないだとか。
あたしと一緒にいたら、あんたは不幸になるだけだとか。
そんな当たり前のことを何度言い聞かせても、相変わらず、愛しているよと、ただ純粋に、想いだけを、くれるあんたのことを、いつか、裏切ることができたら良いな……と、そんなことすら、思う事が、あった。
それでも、一方で。
言葉は、滑り落ちるばかりだった。
「あんたの居場所は、ここなんでしょ……?」
――どちらも、本心ではなかった。同時に、どちらも、本心でしか、なかった。
あたしは、ふと滑り落ちた言葉に、思わず、彼を抱きしめる力を、強めてしまう。
聞こえてくる鼓動に、安堵が生まれる――あぁ、こうして、ガウリイもちゃんと、生きていてくれるんだ――と。
雨が全ての音を、掻き消して降り続く。
目の前の見えない世界に、孤立したこの場所に見えるものだけが、唯一の、唯一1つだけの、真実であれば良いなと、普段は考えるはずの無いようなことを、今だけは平気で、考えてしまっていた。
――今日の自分は、明らかにおかしいのだと、心の片隅では、そう、わかっていた。
しかし――この雨が、まるであたしの心の中の余計なものを、全て、全て浄化していっているのだと、そうとすら、感じられてしまっていた。
ゆっくりと、瞳を閉ざしたあたしの心に直接、ガウリイの声だけが、暖かく、響き渡る。
――オレは、お前さんの傍にいるから――
……何よりも信用できて、何よりも信用しがたい、そんな、言葉が。
それでも暖かく、あたしの中で、何度も、心地よく木霊する。
雨が、降り注ぐ。
街の映りこむ水鏡に、絶え間なく波紋を描き続け、雨が、降り続く。
いつか又、空が蒼くなりし時は、きっと――太陽の光と暖かさに、干上がってしまうであろう、小さな水面は。
今だけは、今だけはと、何かを探すかのように、その瞳に、何かを映そうとしているかのようにすら、見えていた。
水に歪む世界の中。
あたしはさらに激しさを増す雨の中で、ゆっくりと、まるでそこにある真実を、捜し求めるかのように――ガウリイの鼓動の音だけに、じっと、耳を済ませていた――。