次第に冷え込みはじめた秋の空気は、火照った身体を適度に冷やしてくれる。
 ぱたぱたとライオンスリッパの足音をひびかせて、風呂上がりのセイバーは廊下を歩いていた。
「ふう……とてもいいお湯でした」
 セイバーは食事だけでなく風呂も好きである。特に鍛錬の後の風呂はお気に入りだ。
 思えばまさにこの家は、彼女にとって理想郷と言える。士郎がいるというだけではない。食事は信じられないほどおいしいし、温かいお湯に長時間浸かるのがこんなに気持ちいいとは知らなかったし、夏や冬でも部屋が春のように過ごしやすい状態であるなんて考えもしなかった。えあこん、というらしい。そういえば以前大河が、
『こんなところに居候してたら堕落しきっちゃう』
 と言っていたと聞いたが、それは真実ではなかろうか。
「――いけません。それは困ります」
 いくら今は緊急事態でないとしても、気を緩めるのと堕落するのは別物である。
 明日はもう少し気合を入れて、改めて鍛錬をしようか。
 セイバーは決意を新たにしつつ、居間に足を踏み入れた。
 そのとき。
「はて。これは…………」
 彼女の耳朶に小さな旋律が届く。どうやら、歌、のようだった。

 ――――When you wish upon a star
       Makes no difference who you are

 それは。
 桜ほど澄んでいるわけではなく
 イリヤスフィールほど上手いわけではなく
 大河ほど発音がいいわけではなく

 けれど少し低めのあたたかい声は
 他の誰よりセイバーを落ち着かせる響き。

 セイバーは静かに足を進めた。
 歌はまだ続いている。
 台所をそっと覗くと、はたして予想通り、そこにはこの家の中心にして主夫である衛宮士郎が食器を洗っていた。
 彼が鼻歌を歌うというのも考えてみれば珍しい。
 士郎は洗い物に専念していて、背後にセイバーが入ってきたことには気づいていない。

 ――――If your heart is in your dream
       No request is too extreme

 歌は続く。
 音楽に造詣の深くないセイバーには、歌の良し悪しはあまりわからない。
 だから好みの問題でしかないのだけれど。
 この歌は、とても彼女の心に染み入った。
 瞳をとじて、もっと音に心を澄ませる。士郎のつむぐ旋律は耳から溶け入って、体中を満たしてくれる気がした。

 ――――Fate is kind
       She brings to thos…………

 ぽつ、と。歌がやむ。
 歌い終わった、というより中断させた、という感じで。
 ちょっと残念に思いながらセイバーが目を開けると。
「……………………」
 いつの間にか士郎がセイバーの方を向いて固まっていた。
「シロウ? どうかしたのですか?」
「セセセセセイバー! い、いつからそこに!?」
 なぜか慌てふためく士郎。セイバーはかしげた首の角度を深くする。
「少し前からです。シロウの声が聞こえたもので」
「あ、あぅ…………」
 士郎の顔は少し赤い。しかもなんだか落ち着かない様子だ。
 わずかに目が泳ぎ、軽く頭をかいている。
 彼女の知るかぎり、彼はよく照れ隠しのときにこのような仕草を見せる。
 しかしセイバーにはなぜ士郎がこれほど照れているのかわからない。
「どうかしたのですか? 様子がおかしいですよ」
「あ、あのさ、セイバー。その……さっきの歌、もしかして聞いた……?」
「ええ。とても美しい歌でした。さっきはどうしてやめてしまったのですか? 私はもっと聞いていたかったのですが」
「え……? で、でも、あんまりうまくなかっただろ?」
「そんなことはありません。いえ、実際には私に歌の良し悪しはわかりません。けれど先程の歌は、私はとても好きです」
 さっきの歌を聞いているとき、驚くほど落ち着いていた自分の心を、セイバーはもう一度思い返す。
 柔らかくてあたたかな何かにそっと包まれているような感覚。道場で瞑想しているときとはまた違った精神の安定が、新鮮で心地よかった。
 士郎は先程のように少し頬を赤くして、照れた様子を見せながら、
「……そうか? あんまり上手くないから恥ずかしいんだけどな……」
「そうでしょうか。いい歌でしたよ。どこで教わったのですか?」
 セイバーが疑問に思ったことを聞くと、士郎の顔がわずかに渋面を作った。
「――――藤ねえがな」
「大河が?」
「音楽の教師と共謀したんだ。英語の歌を音楽のテストに使えば、英語と音楽のテストが同時に行える、って。歌のテストで発音まで注意して歌ったのは、さすがにあの時が最初で最後だったな」
 そのためどちらかに集中しすぎてもう片方が疎かになった生徒が続出。片方、あるいは両方赤点を取る生徒はかなりの数にのぼり、穂群原学園の伝説のひとつとして今も語りぐさという。
「…………なるほど。かなり常識外れに聞こえますが、大河ならそれくらいやるでしょう。
 それでシロウはどうだったのですか」
「俺? なんとかギリギリだったけど合格。追試もこの歌だったらしいから、テスト受けた奴はまだ、みんな歌えるんじゃないかな」
 なんか忘れらんないんだよな、あれだけ苦労すると。
 士郎は苦笑しながら、それでも楽しそうにそう言った。
「セイバーはこの歌知ってるか? 『星に願いを』って言うんだけど」
「星に……? いえ知りません。星に願いを、どうするのです?」
 聖杯から教わった知識のおかげで日本語の一般知識はあるつもりだが、まだまだわからないことも多い。専門用語や、後に続く言葉を略すという文法は、もう少し慣れる必要がありそうだった。
「へ? 願いって言ったらかけるものじゃないのか?」
「星に願いをかけるのですか? いったいなぜ?」
「いやなんでって言われても……」
 士郎は困ったように考え込む。セイバーも首をかしげて考え込んだ。
 彼女にとって星とは、時に吉凶を占う道具であり、時に方角を知る道標であり、時に時間を知る時計であった。
 いわば家具や文房具に願いをかけるのと同じようなもの。
 神格化するには生活に根付きすぎていて、あまり実感はわかない。
 しばらくして答えが出たのか、士郎は障子を開けて外の星空を眺めながら言葉を紡いだ。
「本当のところ俺にもよくわかんないんだけどさ。
 星はどんなに手を伸ばしても届かないだろう。届きそうで届かない、ってところが願い事とよく似てるのかもしれない。それで同じようなものにお願いをするんじゃないかな。
 昔から星は手に入らないものの象徴だし、死んだ人のことを星にたとえたりもするしな」
「では、切嗣もあそこにいるかもしれませんね」
「ははは、そうかもしれない」
 セイバーは縁側に腰を下ろす。その隣に士郎も座りこんだ。
 頭上には瞬く星の群。はるか遠くで輝く光。
 ――無為に星を見るなどいつ以来だろう。純粋にきれいだと感じたのは、セイバー自身思いがけないことだった。
「シロウ。星にはどうやって願いをかけるものなのですか?」
「そうだなあ。たとえば流れ星が流れる前に願い事を3回唱えると、願いが叶うって言われてるんだ」
「願い事を3回、ですか…………。それはもしや聖杯のようなものでしょうか」
 そんな簡単なことで願いが叶うとは思えなかったセイバーは、不思議に思って士郎に問うてみる。士郎は笑いながら、
「そんな大層なもんじゃない。単なるまじないだよ。それくらいの意気込みと運があれば叶うんじゃないか、って話」
「はあ。つまり魔術的なことではない、と」
「そうだな。5歳の子供でもできるかもしれないし。
 ――ただし、この歌の場合は流れ星じゃなくて、決まった星に願ってたらしいな。毎日同じ星に向かって祈りを捧げてたんだってさ」
 星に願いを。
 捧げる祈りは星のように秘やかに、けれど永遠に。
「星に祈りを捧げる、ですか――――」
 セイバーは星を見た。
 かつて星を見るときは必ず何か理由があって見たものだった。知りたいことがあり、それを星の位置や輝き方が教えてくれる。そこに感慨や想像の入る余地はなかった。
 しかし改めてその必要もなく見上げてみると。
 なんとなく星に願いをかける人の想いもわかるような気がする。
 昼間は見えぬ星の光は。
 たしかにそっと願いをかけるとき、その願いを聞いてほしくなる。
「――セイバーはなにか願い事とかないのか」
 横から士郎が彼女の顔を覗きこんできた。セイバーはしばし考える。
 考えて、だが答えは最初からひとつしかなかった。
「特にありません。今の私はシロウの傍にいられますから。他に願いなど思いつきません」
「あ――――そ、そうか…………」
 士郎はどもりながら目をそらす。セイバーも顔が熱かったが、それは冷え込んだ秋の空気のせいだと思い込むことにした。
 そんな二人を、星は優しく見守っている。

「シロウ。もう一度歌ってくれませんか」
「……へ?」
「もう一度、貴方の歌が聞きたいのです。――いけませんか?」
「……………………」
 顔を耳まで赤くして。
 頭をかきながら、しばらく考えこみ、士郎は小さくうなずいた。

 ――――Like a bolt out of the blue
       Fate steps in and sees you through――――

 セイバーは夜空を仰ぐ。
 空にはたくさんの星。昔ブリテンで見たほど満天とは言えずとも、光輝く数多の星。
 かつて自分付きの魔術師に星読みを教わった彼女は、郷里の星を覚えていた。
 今見える幾千の星の中にも、見覚えのあるもの、ないもの、いろいろなものがある。
 けれど今はそんなことを考えず、ただ星を見る。
 太陽も月も持ち得ない、柔らかく小さな瞬きがセイバーを見下ろしていた。

 ――運命は優しく。
    愛し合う人達の密やかな憧れを満たしてくれる。

 遠い、遠い。手の届かない星。憧憬の対象。
 けれど、手に入らないなんて、まったく些末な事だ。
 だって。
 星は、いつもこうしてここにいて。
 見上げるだけで、こんなにも心が満たされるのならば――――

 ――星に願いをかけるなら。
    運命は突然やって来て願いを叶えてゆく。

 星は。
 ただそこにあればいい。
 人は各々その星に願いをかける。想いをこめる。
 だから、星はそこにあればいい。変わらず輝いているだけでいい。
 そう。手に入るとか入らないとかではなく。
 そこにあることが、何より大切なのだと。

「……ひとつだけありました、シロウ。私の願いが」
「ん? なんだよセイバー」
「いつもシロウが笑っていますように。それが私の願いです」
「――――――――
 …………じゃあ、俺も。
 『セイバーがいつも笑っていられますように』」

 ――星に願いを…………






 曲は言わずもがな、ディズニーの「星に願いを」です。
 ディズニー嫌いなんですけど、この曲だけ好き。
 ……小心者は、著作権にうるさいディズニーに見つからないよう、このページだけ検索ロボット拒否かけてます(汗)
 それでも使った理由。歌詞に「Fate」って入ってるから。ああっ、ゴメンナサイゴメンナサイ!!
 …………あと、ちょっとだけ本編の「届かない星」という表現に天の邪鬼してみる、反抗期。
 こうして並べてみると、かなりの問題作じゃなかろーか。




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