さて、台所で料理をしているうちに気付いたことがある。
「うーん、晩飯の材料、足りなくなるかもしれないな」
 今日は本来なら遠坂が晩飯を作る予定だったから、和食用の食材を買い足していなかったのだ。具体的に言うと、昨日きれてしまった味噌とか。
 遠坂が作るのはもっぱら洋食か中華。だから今夜、中華で隠し味に少量入れることはあっても、和食並に味噌を使うことなどありえないと思っていた。なにせ遠坂のやつはみそ汁も作れない。作らないんじゃなくて作れない。学園の優等生がみそ汁も作れないなんて、うちの学校は家庭科の時間に何教えてるんだろ。
 そんなわけで味噌がないのだが、俺としては自分で作るならやはり今夜は和食にしたい。つまり買い物に行かねばならないということだ。

 ひょいと台所から居間を覗く。居間の空気は相変わらずだ。セイバーとイリヤがそれぞれ切嗣と作り出す微妙な空気。お互いに言いたいことがあったり、あるいは相手の動向が気になりつつも、はっきり口にはできない。そんなどこかぎくしゃくとした、居心地の悪い空気だった。
 それでもまだ切嗣とイリヤの間には、ぎこちなくも会話が成立しているのだが、切嗣とセイバーにいたってはそれすらない。たまにセイバーたちの会話に切嗣が、もしくは切嗣たちの会話にセイバーが入ってくると、一瞬身構えるように身体がはねたりする。相手への警戒心をいまだ消しきれない、張り詰めた緊張感。

「あ、そうだ。ねえセイバー、ちゃんとイリヤは魔術のお勉強してる? え、してないの? ダメよイリヤ、いくら最初から知識を与えられているホムンクルスとはいえ、勉強で修得できる技術はあってね」

 それをアイリさんが笑顔で打ち砕く。……強いな、アイリさん。
 空気の悪いときは換気をした方がいい。そんなわけで。
「おーい、みんな。買い物に行こうと思うんだけど、一緒に行かないか?」
 外の空気を吸うべく、誘いだしてみることにしました。
 最初に反応があったのは、やはり屈託のないこの人。
「え、本当? 行くわ、連れてってくれるのね?」
 期待に瞳を輝かせ、アイリさんは率先して立ち上がった。イリヤがそのすぐ後に続く。
「母さまが行くならわたしも行くわ。キリツグはお留守番してていいわよ」
「え、そりゃないよイリヤ。僕も連れてってくれよ」
「ダメよ。母さまならともかく、キリツグが商店街に行ったらみんながびっくりしちゃうわ」

 ……あ、そうか。
 俺の失態だ。藤ねえだけじゃない、深山町に住む人の中にはちらほらと切嗣のことを知っている人たちがいる。切嗣はそんな人たちからも姿を隠さなくてはいけないのだ。
 考え無しな提案を申し訳なく思い、切嗣に視線を移すと、なぜか親父は不敵に微笑していた。
「ふっふっふ。大丈夫だよ。どーんと僕にまかせてくれ」
 言うが早いか風のように走り出し、土蔵へと駆け込んでゆく。
 わずか5分ほどで舞い戻ってきた切嗣は、

「じゃーん。これでどうだ!」
 なんか、風体が怪しくなっていた。
 ただでさえ今着てる薄汚れたヨレヨレのコートは目立つというのに、相変わらずのボサボサ頭、そしておそらく土蔵から持ち出したのだろうサングラスをかけた姿は、どう見ても不審者だ。
 …………まさか、これで変装のつもりなんだろうか? いやまさか。切嗣はこう見えて、アインツベルンという魔術の名家に雇われて、60年に一度という聖杯戦争に出陣する代表となるほどの…………
「ん? まだ駄目かい? じゃあマスクも追加しようか。目元と口元を隠せば人相なんてわからないしね」
「………………やめてくれ。よけいに怪しい」
 肩を落として呟く。子供は成長すると親の背中が小さく見えると言うが、今がそのときなんだろうか。
 こんなんじゃ返って目立ってしまう。切嗣だって本当はわかっているはずだ。
 やっぱり俺一人で買い物に行こうか、と言おうとしたとき。

「頼まれてくれないか、士郎。もしも問題があったら、僕だけでも先に帰るから」
「親父……?」
 問い返す俺に、切嗣は目だけで方向を指し示す。
 ――――あ。
 そこにあったのは、楽しそうに言葉をかわしてはしゃぐ、白い母娘の姿。
「楽しみねえ。みんなでお買い物なんて素敵だわ。10年前は品物を見るだけで、実際に買ったことはなかったのよ」
「わたしも最初は驚いたわ。カードが使えないお店が多い上に、アインツベルンでもらったお金も使えないのよ」
「イリヤ、それ本当? じゃあどうやって買い物するの?」
 まるで関係が逆転したように、したり顔で日本の商店街での買い物の仕方を教えるイリヤと、素直にこくこく頷きながら聞いているアイリさん。
 二人の笑顔を見てると、今さらやっぱり置いていくなんて言えなくなってしまう。
 女の子は泣かせるな、といつも切嗣は言っていた。俺ももちろん気持ちは同じ。まして、こんな笑顔の前ではなおさらだ。
 無言で切嗣に頷く。

「よし、じゃあ行こうか」
「うん! シロウ、エスコートよろしくね!」
「俺にそんなの務まらないぞ。案内ぐらいならできるけど」
「それで十分よ。シロウがあの商店街には一番詳しいんだから」
 イリヤはそう言うと、待ちきれないとばかりに居間を飛び出した。切嗣とアイリさんも玄関へ向かう。
 俺もサイフを取って、居間を出て行こうとして、

「セイバー? どうしたんだよ。行くぞ」

 ただ一人、その場に座したままの彼女へ声をかけた。
 セイバーはゆっくりと首を振る。――――横に。
「いいえ。私は留守番をしています」
「? なんでだよ。一緒に行こう」
「いえ。家族水入らずの邪魔をしたくはありません」
「ジャマって……セイバーだって俺の家族だろ」
 たしかに切嗣との仲はあまり良くないが、彼女も俺たちの家族だ。遠慮なんてすることはない。
 セイバーが小さく苦笑する。その笑みは、笑みなのになぜか表情を感じさせない固いものだった。

「シロウの心は嬉しい。
 しかし切嗣にとって、私はあくまでサーヴァント。戦うための道具でしかありません」
「なっ――――!」

 久しぶりに聞いたその言葉。聖杯戦争の道具にすぎないと自称する彼女。
「戦うための武器が側にあっては、切嗣とて心休まらないでしょう。それでは安心して買い物を楽しむこともできません。
 せっかくの家族の団欒に、切嗣が殺気立っていては意味がない。シロウ達も自然体の切嗣と接したいはずだ。彼の警戒対象である私は、あまり側にいない方がいいのです」
「バカ言うな、そんなこと…………!」
 ない、とは言えなかった。
 切嗣はたしかに、セイバーを嫌悪している。話には聞いてたけどここまで仲が悪いとは思わなかった。二人の間に挟まれるだけで、俺なんて牙を剥きあう二人を押さえるのが精一杯で。
 たしかに彼女の言うとおり、とても落ち着いてなどいられない。特に切嗣はそんな状況下で、親子の語らいも、夫婦の睦み合いも楽しめないだろう。
 否定したかった。けれど、セイバーの言ったことは。
 腹が立つぐらい、悔しさで頭が煮えくり返るぐらい、どうしようもない真実だった。

「さあシロウ、行ってください。皆が待っています。私のことならば遠慮はいらない。
 私は明日も、明後日も、シロウと買い物に行くことができる。しかし切嗣には――」
 今日しかないのだから、と。
 言外に告げられたセイバーの意思は、さっきの表情以上に固かった。
「………………………………。
 お土産、買ってくるからな」
「――――――――」
「絶対買ってくるからな。留守番してくれるお礼だからな。セイバーが留守番して当然だなんて思わないからな!」
 駄々っ子みたいな一方的に言い捨てた俺の言葉に、セイバーはゆったりと優しい笑みを浮かべた。

「……はい。お帰りをお待ちしています。シロウ」







 目的地のマウント深山商店街は、衛宮邸から歩いて20分ほどの距離にある。もっとも行きは下り坂だから、もうちょっと短い時間で行けるのだ。
「母さまー! はやくはやく、急がないと置いてっちゃうわよー!」
 その道の先で手を振るイリヤ。待ちきれない気持ちのまま先へ先へと走っていき、また俺たちのところへ駆け戻ってくる。
「待ってイリヤ、そんなに走ったら疲れちゃうわ」
「もう、母さまおそーい!」
 きゃっきゃとはしゃぐイリヤは本当に楽しそうだ。アイリさんの腕をしっかと握りしめ、離さないとばかりに抱きしめている。

 そんな彼女に、アイリさんを挟んで反対側から声がかかった。
「イリヤは買い物が好きなのかい?」
「好きな人と行く買い物は好きよ。そうでないならつまらないわ」
 今までの浮かれた調子はどこへやら。切嗣に声をかけられたとたん、イリヤは低い声で刺々しく答える。切嗣もその変貌ぶりに、そうか、なんて返しただけでまた黙ってしまった。そんな二人を見て、アイリさんが首をかしげる。
「どうしたの? イリヤってばさっきから、ずいぶん切嗣に冷たくない? もっと昔みたいに楽しくおしゃべりすればいいのに。
 ……って、もしかしてこれがウワサの、娘の反抗期!?」
「母さま。わたしそんな子供じゃないわよ」
 子供と言われて拗ねてしまったイリヤに、また疑問の表情を浮かべるアイリさん。どうもこの人は、切嗣とイリヤの確執を知らないんじゃなかろうか。

 おそらくまだ二人とも、互いに対する遠慮があるのだろう。イリヤはもう親父を憎んでいないと言うけれど、どういう態度で接したらいいかわからないのに違いない。素直になるにはまだ気持ちの整理がついておらず、やむなく尖った態度をとっている様子だ。
 切嗣もイリヤへの罪悪感が先に立って、なかなかうまく話せない。こんなときはどっちかが勇気を出すか、あるいは――――

 アイリさんが楽しそうに手を打って、
「そうだ。ねえ、切嗣。イリヤを肩車してあげたら?」
「「ええっ!?」」
 驚きは二人分。当然肩車をしろと言われた父親と、されろと言われた娘のもの。だがその声にはどちらも、嫌悪の響きはない。
 立ち直るのは切嗣の方が早かった。
「……そうだね。いい考えだ。ほら、イリヤ、乗ってごらん」
「の、乗れって……! 言ったでしょ。わたし、もう子供じゃないのよ。レディが肩車されるなんてはしたないわ」
「あら、イリヤは昔、切嗣の肩車が大好きだったでしょう? 久しぶりにやってもらえばいいじゃない」
 にこにこと純粋なアイリさんの瞳が、イリヤの心を突き刺しているらしい。あの期待に満ちた瞳を裏切るのはなかなかできるもんじゃない。もう会えないと思っていた母親ならばなおさらだ。
 イリヤはアイリさんを見ながらかなり迷っていたが、
「〜〜〜〜もう、わかったわ! でも少しの間だけよ」
 自分の方が折れることを決めたようだった。

 しぶしぶといった感情を隠そうともしないイリヤ。それでも切嗣は笑顔でイリヤを肩に座らせ、一気に立ち上がる。
「どうだい? イリヤ」
「――――――――…………」
 切嗣の問いかけにもイリヤは返事しない。やはり機嫌を損ねているのか。
 そっと彼女の顔を見上げると。
「………………………………」
 イリヤは呆けたように、目を軽く見開いて眼下に広がる風景を眺めていた。
 いったいどうしたっていうんだろう。
「イリヤ?」
「……違うの。珍しいんじゃないの」
 俺が名前を呼ぶと、やはりぼんやりと呟くイリヤ。
「バーサーカーが持ち上げてくれるともっと高いもの。だから珍しくはないわ。怖くもない。
 でも――――……」
 切嗣の頭を、小さな手がわしわし撫でる。てちてち叩いてみる。頭をおもちゃにされても、切嗣は何も言わなかった。
「………………うん。
 でも、この高さは、好きかも」
 少女の顔にほのかな笑みが浮かぶ。
 幼い頃の、もうはっきりとは覚えていないであろう遠い記憶のおかげなのか。
 さっきまで気乗りしなかったイリヤは、実際に肩車をされてとても嬉しそうだった。

 と、淡い大人びた笑みが、満面の子供の笑みに変わる。
「よーし、行けーキリツグー!」
「よしきた、しっかり掴まってるんだぞー!」
 きゃー、とイリヤの歓声を残して、切嗣は――切嗣とイリヤは走っていってしまった。
 残された俺とアイリさんは思わず顔を見合わせる。
「…………じゃ、俺たちも行こうか?」
「ええ。あの二人の邪魔をしない程度に、ゆっくりとね」
 ほんのりと笑うアイリさん。俺もつい頬がゆるむ。
 10年前、切嗣が聖杯戦争に参加するまで、切嗣とイリヤは仲のよい父娘だったと聞いている。それこそアイリさんが仲良しで羨ましいなんて口にするほどに。
 だから、あの時の気持ちを取り戻した今ならば。
 きっともう、心配はいらないのだろう。
「――――よかったな、イリヤ。親父」
 父娘は仲が良い方が絶対にいい。そして二人とも笑顔でいるのがいい。
 以前、切嗣とイリヤが親子だと聞いたときに思い描いた風景を。
 こうして現実に見れたことが、本当に嬉しかった。










「お、イリヤちゃん。後ろの美人は誰だい? おぉ、よく似てんな。もしかしてママか?」
「こんにちは、おじさま。ええそうよ、この人がわたしのお母さまなの」
「ほう、こりゃべっぴんさんだ! 将来はイリヤちゃんもママそっくりの美人さんになるなあ」

 マウント深山商店街は休日ということもあって、昼間から人が多かった。
 気さくな八百屋のおじさんが、もはやここでの顔なじみとなったイリヤに声をかけてくる。商店街でもイリヤは人気者だ。あの妖精みたいな容姿と、見事なまでに本性を隠したお嬢様然とした愛くるしい笑顔に、おじさんおばさんたちは軒並みノックアウトされている。
 おじさんの視線がアイリさんの隣に立つ、もうひとりの人物の方へと向いた。

「お? まさかアンタ……」
 まずい。やっぱり気付かれたか?
 ここのおじさんも切嗣の顔は知っている。親父はあんまり商店街には来なかったけど、俺の買い物を手伝いにしばしばついてきてくれたことがあった。
「まさか、衛宮ん家の、えーと……そうだ、切嗣――あれ? でもアイツは死んだはず――」

「はじめまして。私はケリィ。イリヤの父です。娘がいつもお世話になっています。
 衛宮切嗣は私の兄なんです。兄も、ここには世話になったそうですね」

 そう言って、サングラスをはずす切嗣。あまりにも堂々としているせいか、おじさんは呆気にとられて口を開いてはいても、疑っている様子はなかった。
「いやあ……こりゃ驚いた。なんだい、弟さんは外人さんかい?」
「いえ。ちゃんと日本語の名前がついています。しかし日本の名前は、妻と娘には発音しづらいようでしてね。この名前で通してるんです」
「はあ、なるほどなあ。それにしてもアンタ、お兄さんそっくりだねえ」
「あはは、兄より私の方がいい男でしょう?」
「はっはっは、こりゃまいった! そんじゃそのイイ男の弟さんは、ダイコンどうだい? みそ汁に入れるとうまいぜ!」
「そうですね。――どうだい? 士郎」
「え? あ、ああ――――」

 突然話を振られて我に返る。
 まいったのはこっちだ。あらかじめ考えていたんだろう、切嗣の口からはスラスラと、立て板に水のごとく嘘八百が飛び出してきた。
 八百屋のおじさんはもはや完全に、切嗣の言い分を信じきっている。まあそりゃあ、死んだ切嗣が帰ってきたっていうより、瓜二つな弟がいるって方が信じやすいのはたしかだけど。
 考えてみればこの商店街の人がいくら切嗣の顔を知っているといっても、5年前に切嗣が死んで以来、誰もその顔を見ていないのだ。ならば細かい記憶は薄れて当然。まったく同じ顔が目の前にあったって、細部まで寸分違わず同じであると断言できる人などいやしないだろう。

 俺がダイコンを受け取ると、アイリさんが切嗣の腕をとって引っ張った。
「それじゃ切……ケリィ。次はあっちを見てみましょう。あれって何かしら?」
「ああ、あれは魚屋さんだね。生の魚がいっぱい置いてあるんだよ」
「かなりニオイがきついわね。魚ってお料理前はあんなにニオイがするものなの?」
「あ、待って、わたしも行くーー!」
 とてててて、とイリヤも夫婦に走って追いつく。二人の間に割って入る姿は、両親にかまって欲しい一人娘そのものだった。
 アイリさんと、そして切嗣へ交互に笑いかけるイリヤからは、もう父親へのわだかまりは感じ取れない。
 ――――よかった。あんなに屈託のない笑顔を向けられるなら、あの二人はもう大丈夫だ。
 ひとつ肩の荷物が下りた気分に、安堵のためいきがもれる。
 俺も後を追おうと、足を踏み出したとき。ふと横合いの喧噪に気付いた。

「………………ん?」
 ケーキ屋ベコちゃんが、なんだか騒がしい。
 店の外からでもすぐわかるぐらいヤジウマが集まっている。どうやら店の中になにかあるようだ。
「なんの騒ぎだろ、あれ」
 チラと遠く前方を確認すると、あの三人は魚屋で見せてもらった大きなカツオとかヌルヌルしたイカに熱中していた。少しくらい側を離れても問題ないだろう。
 人の間を通してもらい、ヤジウマの前に出る。ガラス窓越しに見えた、店内の風景は。
「――――うわ」
 一人の女性――まっすぐな黒髪を肩のあたりできれいに切りそろえ、全体的に黒ずくめの印象を与えるスラッとしたきれいな女の人が、黙々とケーキをたいらげていた。
 驚くべきはその量。はっきりと数えることはできないが、テーブルの上に乗ったケーキの残骸であるビニールは、軽く20を超えるのではあるまいか。
 それだけの量のケーキを食べてるはずなのに、女の人は眉ひとつ動かすことなく、これが1つめといわんばかりの顔でモンブランを口に運んでいる。クールな容姿は切れ味の良いナイフを連想させる鋭利なものだというのに、食べているモノがモノだから、その無表情がむしろ可愛らしくすら見える。
 周囲の反応は様々だ。ただただ驚きの顔で見つめる者。応援という名のヤジを飛ばす者。胸焼けを起こして口をおさえてる者。隣の人といくつまで制覇できるか予想しあう者。そんな喧噪などどこ吹く風、女の人は決してがっつくことなく、楚々とした仕草でケーキを食べ続ける。

「うーん……」
 その様を見て、なんとなくセイバーを思い出してしまった。
 普通の女の子がどのくらい食べるのかはよく知らないが、遠坂やライダーを基準とすれば、我が家のメンツには健啖家が多い。その中でも先陣を切るのが藤ねえ、その次が桜、やや下にセイバーと来るのだが、実は個々人には食べ方に個性があったりする。
 藤ねえは豪快に。桜はおかわりが進むたび恥ずかしそうに。そしてセイバーは、騒がず静かに。
 なんというか、目の前の黒い女の人は、そんなところがセイバーにも似ていると思ったのだ。もしかすると彼女も放っておくと、藤ねえぐらいこの店のケーキをたいらげるのかもしれない。ちなみにあの冬木の虎の最高記録は、店のケーキ全種類にあと1つで届かなかったところ。言うまでもなくベコちゃん冬木店の最高記録でもある。
 この町では見たことない顔だけど、よそから来た人なんだろうか。もしかして店の記録が打ち破られる日は近いのやもしれぬ。ここにセイバーと藤ねえと桜がそろっていたら、現チャンプVS挑戦者三名のケーキ大食い勝負チャンピオン防衛戦in冬木の陣が開催されそうだ。むろん本命は藤ねえだが、セイバーも筋金入りの負けず嫌いだし、桜は甘いものが大好きだし……。
 そんな他愛もないことを想像していると。

「シーローウー! どこーー!?」
「あ、ヤバい」

 遠くからイリヤの声。三人の近くを離れたことに気付かれたか。
 もくもくもくもくケーキを食べ続ける女性の姿に後ろ髪をひかれたが、それを振り切って三人のところへ駆け戻った。







「いっぱい買ったなあ。大丈夫か、イリヤ?」
「うん。わたしは大丈夫よ。それよりシロウこそ、ブドウか風船持ったピエロみたいになってるわ」
 両手に大量の買い物袋を抱えた俺を見て、楽しそうにイリヤが笑う。
 白いお姫さまはご機嫌に、俺と、数歩前を行く彼女の両親との間を行ったり来たりしては、そのたびに笑みをこぼしていた。
 いつもイリヤは楽しそうに笑うが、それでもこんな嬉しそうに笑っているのは久しぶりに見る。その理由が何なのか、この笑顔を見れば考えるまでもなかった。
 同時に、少しだけ切なくなる。
 いつもの通りならば、今夜中に切嗣とアイリさんはまたいなくなってしまうのだろう。そのときこの笑顔も失われる。イリヤは再び両親と別れることになる。
 元々この時間が、この邂逅自体が、一時のユメのようなものなのだから。
 それを知りつつ、イリヤは今の幸せを精一杯かみしめて笑う。
 右手を父親、左手を母親とつないだ少女は、未来さきの憂いなど感じさせず、幸せに笑っていた。

「Der Gipfel des Berges funkelt Im Abend sonnen schein 〜〜♪」

 風に乗って、きれいな歌が流れてゆく。
 学校で習ったこのメロディは、たしか、水難を呼ぶ乙女の唄。
 歌で船乗りたちの心を惑わせる乙女たちローレライを彷彿とさせる唄を。
 透明な声があたたかく奏でてゆく。

「Dort oben wunderbar Ihr goldnes Geschmeide blitzet〜〜♪」

 イリヤは嬉しそうに歌っていた。俺にわからない言語は、きっとドイツ語なのだろう。
 彼女の故郷の歌。きっと切嗣や、アイリさんにも懐かしい歌。
 今は遠い彼女の故郷。その風景が見えるような、イリヤの歌。

「Und das hat mit ihrem Singen Die Lorelei getan〜〜♪」

 ――――上を見上げると、道路のカーブミラーが目に入る。
 なんでもない、当たり前の道を横に並んで歩く、当たり前な家族の姿がそこにはあった。
 両親に挟まれた娘は幸せをその身いっぱいで体現して微笑んでいる。両親もそんな娘と、夫が、妻が自分のそばにいることが嬉しくて仕方のない顔をしている。
 それは、なんでもない、当たり前な家族の姿。おそらく十年前はたしかにそこに存在していて――そして今日、神のきまぐれか悪魔のいたずらか、一日だけ見ることが叶った、本当ならばここにはありえないはずの幻影まぼろし
 カーブミラーの中の三人は、本当に楽しそうで。
 だからふいに、わかってしまった。
 切嗣が本当に守りたかったものは、こんな、なんでもない家族の姿だったのだと。
 世界中の人々が、こんな、当たり前の毎日を紡いでいくことができたら。
 それはきっと、どんなに――――

「………………」

 ――――イリヤの歌は続いていく。
 聞いていると心地良くなる調べは、まるで夢を見ているようで。
 彼女がこの夢幻ゆめを終わらせたくないと、惜しんでいるようにも、聞こえてしまった。










「ただいまー」
 家に入って声をかける。セイバーはほとんど間をおかず、パタパタとスリッパを鳴らして迎え出てくれた。
「おかえりなさい、シロウ。お疲れさまでした」
「ああ、ありがとうセイバー」
 俺の荷物を持とうと伸ばされる彼女の手をかわし、後ろに目配せする。その意味を理解した彼女は、アイリさんとイリヤの荷物を持ちに行った。
 大人しくお留守番をしてくれたセイバーに、買い物袋から小さい紙包みを渡す。
「はい、セイバー。おみやげ」
「おお、これは……!」
 中を確認し、セイバーのクセ毛がピンッと立った。
「江戸前屋の限定大判焼き、いちごミルククリームですね。ありがとうございます、シロウ」
 嬉しそうな彼女の微笑は、渡したおみやげを気に入ったと物語っていた。手の中にあった大判焼きのぬくもりが離れた代わりに、セイバーの笑顔があたたかく胸を満たす。

 ほくほく顔の彼女は、やがて大判焼きから顔を上げ、
「そういえばシロウ。先ほど桜から電話がありました。本日はこちらに来ないので、宜しくとのことです」
「そっか。わざわざ電話くれたんだ」
 やはり桜も来ないのか。仕方ない、ヘタをすれば遠坂以上のしがらみがありそうな立場だ。だとするとライダーも来ないだろう。
「大河も桜たちも来ない、となると夕飯の材料は足りそうですね。あとは凛が来るかどうかですが――――」
「ああ、遠坂も今日は来ないってさ。だから夕飯は5人だな」

「「遠坂!?」」

 驚愕の声が玄関先に響く。見ると、仲良し夫婦がそっくりに目を見開き、こっちを凝視していた。
 ――――あ。

「……リン……サクラ……遠坂…………?」
 噛み締めるように呟く切嗣。呑み込むたびに、だんだん顔が険しくなっていく。
「……たしか十年前、遠坂の当主には娘がいたな。資料によると上の娘がリンで、下の娘が……サクラ。
 ――――士郎。説明してくれないか。どういうことだい?」
 質問というより詰問の口調で親父は問うてくる。そうか、遠坂の家にとって切嗣が宿敵であると同時に、切嗣にとっても遠坂は警戒すべき敵なんだ。
 でもそれは十年前の話。切嗣と戦った遠坂の親父も、今はもういない。その娘は二人ともすごくいい奴らだ。それは間違いがない。
 ぐっと腹に力をこめて踏み止まり、切嗣の視線に対抗する。

「遠坂――遠坂凛は俺の友人で、魔術の師匠をしてくれてる。桜は後輩で、妹分だ。二人とも、もううちの家族だからな。追い出せって言ったって聞かないぞ」
「…………………………………………」
 呆気にとられた切嗣の顔。俺の口から聞いてもいまだ信じられないと表情が言っている。魔術師同士が家族のようなつきあいをして互いの家を行き来する、それもあの遠坂と、という驚きなのだろうか。
 やがて親父は口元を引き締め、いつもより低い声で言った。
「……士郎。第五次聖杯戦争があったと言ったね? 遠坂とは戦わなかったのか?」
「戦わなかった。あいつとは最初から同盟を組んで、最後まで一緒に戦った戦友でもある。桜もマスターだったけど、表には出てこなかった」
 だから彼女たちとは敵対していない。二人への敵意を解いて欲しいと無言で訴える。
 セイバーも後ろから言葉を足してくれた。

「切嗣。凛は聖杯戦争など欠片も知らず、まったくの偶然で私を喚び出し、突発的にマスターとなったシロウへ聖杯戦争のことをきちんと教えてくれました。先代はともかく、今代の遠坂の当主は気持ちのいい人物です」
「そうね、リンはシロウのこといぢめるの大好きみたいだしねー」
「はい。凛はシロウをいじめるのが……って、イリヤスフィールっ!」

 途中で口を挟んだイリヤを、セイバーがたしなめる。だがイリヤはにやにやと、遠坂によく似た笑みで――それこそ遠坂が俺をいじる時そっくりな笑みを浮かべ、

「こういうところ、シロウはキリツグにそっくりよね。他のマスター、それも女の子ばっかりたぶらかして味方に引き入れちゃうんだから。
 トオサカのマスターのリンも、マキリのマスターのサクラも、それにアインツベルンのマスターのわたしも、みーんなシロウのこと好きなのよ。御三家のマスターがそろって外来のマスターに骨抜きにされたら、シロウが今回の勝者になるのも当然ってものよね」
「なっ……! イリヤ、それは意味が違う!」

 思わず叫んだ。骨抜きって、人聞きが悪すぎるぞ!
 それじゃまるで俺が三人を手込めにしたみたいじゃないか。あくまで彼女たちの向けてくれるのは友人や兄貴分としての好意であって、そんなやましいことはしていない。
 今の爆弾発言で、切嗣の驚愕は混乱の域まで達している。目を白黒させながら今度はイリヤに詰め寄った。
「イリヤ、それは本当かい!? 士郎が五次の勝者!? あ、いや、それより遠坂の次女が間桐のマスターとはどういう……いやいや、ちょっと待った、僕が女の子をたぶらかすなんて誰から聞いたんだ!?」
「タイガが話してくれたわ。最近この家は女の子が多すぎる、シロウがキリツグそっくりになっちゃったーって嘆いてたわよ」
「ちょっと切嗣! そんなことよりもっと大事なところがあるでしょう!?」
 横で話を聞いてたアイリさんが、キッと目つきを鋭くして俺を見た。
 そうか、アイリさんだってアインツベルンの人間だ。三家の娘たちが親しくしていることに一過言あるのかもしれない。それとも聖杯戦争自体のことか。ぽっと出のマスターが五次の勝者とされていることへの反感や質問があるのだろう。
 アイリさんはイリヤが魔術師の顔をしたときと同じ厳しい瞳で、

「シロウくん、いいえ、シロウ! ハーレムなんてお母さんはいけないと思うわ!」
「へ!?」

「女の子にとって、自分の他にも大切な人を好きな女の子がいるのは悪いことではないの。だって自分一人じゃ大切な人を守りきれないとき、一緒に戦ってくれる誰かがいるってことだもの。
 でもね、だからって一番を決めないのはダメよ。
 いつまでも貴方が一番を決めなかったら、女の子たちはみんな哀しいわ。一番を決めて、それでもお互いを認めた女同士なら、きっとうまくやっていけると思うのよ」
 なんかやけに実感のこもった言葉だ。というかすごく具体的。
 知ってるか? と意味を含めてセイバーに視線を送る。彼女は俺と目が合うと、ふいと視線をそらした。
 なんでさ。

「シロウ、答えなさい。誰が本命なの? 遠坂のお嬢さん? マキリのお嬢さん? それとも、さっき話に出てたタイガさん?」
 ずずい、と近寄ってくるアイリさんの顔。――って、近い近い!
 きれいな女の子の顔が目の前にあるのは初めてじゃないけど、今日会ったばかりの年上の美人というのはまた別の緊張感がある。この近さだとアイリさんの肌のにおいまで感じ取れそうで、さすがに焦った。
 キスまであと三秒な距離から慌てて顔を離す。だが退いた分だけまた近寄ってくるアイリさん。
「シロウ!」
「待った、全部誤解だ! 一番もなにも、俺には好きな子は一人しかいない!!」
「誰!?」
 口にするのは正直恥ずかしいが、もうここまで来たら言わずに済ませることはできないだろう。観念して、舌に彼女の名を乗せた。

「……セイバーだよ。俺が好きなのはセイバーだ」

 そう口にしたとたん。


「なんだってええぇぇえぇぇえええ!!?!?」


 目玉が転げ落ちるんじゃないかってぐらい極限まで、切嗣の目が見開かれる。口がだらんと開いて、重力に引かれたまま床へ落ちてしまいそうだ。
 その表情はまさに絶句。二の句が告げられないというやつだろう。……そんなに驚くことなんだろうか。
 一方アイリさんは、いつのまにかセイバーに、さっきの俺に対する距離と同じぐらい詰め寄っている。

「ホント!? ホントなのセイバー! 伝説のアーサー王が女の子だったってだけでも驚きなのに、まさかセイバーが私の息子と恋に落ちるなんて!」

 距離はさっきと同じだが、声音は段違いだ。ちょうどクラスの女子が、同級生の誰それは誰それを好きだと話してるときの、弾みきった声。
 セイバーもアイリさんに気圧されているのか。若干上半身をそらしぎみに彼女を押し留めていた。
「お、落ち着いてください、アイリスフィール。近すぎます」
「ねえセイバー、本当に? 貴女もシロウくんのこと、好きなの?」
 きらきら光る純粋な瞳に質問され、セイバーは助けを求めるように俺の方を見た。
 ……う、そんな目で見られても、困る。俺はもう言っちまった立場の人間なんだから。
 頬に熱がたまるのを自覚する。俺を見ていたセイバーも、それが移ったみたいに顔を赤くした。
 そしてわずかにうつむいて、小さな声で、

「…………はい。私も、シロウを愛しています」

 ごがずっっ!!

 大きな音に振り返ると、切嗣が物言わぬまま、靴箱にヘッドバッドをかましていた。
 一方アイリさんの盛り上がりはさらにヒートアップ。目の前に肉をぶらさげられた犬ですら、こんなには喜ばないだろう。
「本当!? 本当なのね!? やっぱりもうキスぐらいしたの!?」
「あっ、アイリスフィール! 他人の恋愛事情を詮索するなど、淑女のすることではありませんよ!」
「いいえ、日本の奥様はワイドショーが好きだって聞いたわ。知ってる人の結婚や離婚の話を聞いて、楽しく騒ぐものだって。これってワイドショーでしょう?」
 いや違うって絶対。
「そんなわけないじゃない、母さま」
 アイリさんの影からする少女の声。しまった、ここからは死角で、あのあくまっこの存在を忘れていた――!

「キスもなにも、シロウとセイバーは二人っきりでこの広い家に住んでるんだもの。キスだけですむはずがないじゃない。
 わたしもリンもサクラもよくこの家には泊まるけど、誰も泊まっていかなかった次の朝って、しょっちゅうシロウかセイバーがお寝坊するのよね」

 がだだだだん!! べちぃ。

 今度はなんだと振り向けば、床にカエルの轢死体のようにつっぷした切嗣の姿。なんでそんなリアクション?
 さらにあっちはあっちで別の盛り上がりを見せている。セイバーがさっき以上に真っ赤な顔でイリヤの言葉を否定していた。
「っっ…………! ちちちちち、違います! 私が今朝寝坊したのは決してそんな理由ではなく……!」
「あら。今朝はシロウもお寝坊だったわよ。わたしが家に来たとき、まだ誰も起きてなかったんだもの」
 イリヤの推論は完璧だ。俺にもセイバーにも論破できる穴がない。なにせ彼女の言うことは、まぎれもない真実なんだから。
 ――――今度から気をつけよう。いっそ目覚ましを買った方が……ああいや、でも今朝みたいに気持ちよさそうに眠ってるセイバーを目覚ましの音で起こしてしまうのはあまりにも可哀相だ。
 アイリさんが最高潮のテンションで、黄色い歓声を上げながら問い詰める。

「ということは、二人はもう夫婦なのね!? 結婚式は!? イリヤも見たの? セイバーの花嫁姿!」
「別にシロウとセイバーは結婚してないわよ。わたしだってまだシロウを狙ってるんだから、勝手に夫婦にされたら困るわ」
「なあんだ、式はまだなのね……」
 まだ恋人止まりだと聞いて意気消沈し、落ち込むアイリさん。しかし次の瞬間、ししおどしにも似た反射速度で蘇り、
「そうだわ! いいこと思い付いた。今からセイバーとシロウくんの結婚式やりましょう。ね、セイバー」
「な、な、何を言い出すのですか、アイリスフィールっっ!」
「いいじゃない。私、セイバーの花嫁姿が見たいわ。きっと似合うわよ。ね? やりましょ」
 気の毒に、セイバーの顔は彼女が大嫌いな茹でダコにも迫る勢いで真っ赤っかだ。だが他人を哀れんでいるヒマはない。俺の頭もさっきから、すごい早さで沸騰しきっている。このままだと体中の水分が全部蒸発してしまいそうな。
 そのとき、ずっと床と仲良くなっていた切嗣がようやく復活して言い募った。

「アイリ、なにをノンキなこと言ってるんだ! 相手はセイバーなんだぞ!!」
「あら、私も十分驚いてるわ。まさかあのセイバーが、女の子として人を好きになるなんて夢にも思わなかったもの」
「そりゃ僕も心臓が止まるかと思うぐらい驚いてるけどそうじゃなくて!
 わかってるのかい? セイバーはサーヴァントで、普通の人間じゃない。まともな人間じゃないんだ。そんな相手じゃ、士郎が幸せになれる保証は――――!」
「……まあ、切嗣の言葉とも思えないわ」
 怒気をはらんだ冷たい口調。がらりと彼女の雰囲気が変わる。
 切嗣が一瞬息を飲むのがわかった。俺も思わず言葉を失う。

 アイリさんは今までとは別人のような――女王のように気高く厳然とした表情で、
「私だって造られた命――ホムンクルスよ。人間には造花や人形と揶揄される存在だわ」
「アイリ…………」
 そうだ。セラからも聞いたことがある。イリヤは人間の精子とホムンクルスの卵子から生まれた、ひとつ高次元の生命体なのだと。
 その場合、父親の切嗣が人間であるならば、母親のアイリさんは……
「……ごめん。すっかり忘れていたよ。そうだね。それでも僕は、アイリを好きだと思ったんだ」
「いいわ。それを忘れるくらい、私を愛してくれたんでしょう?」
 アイリさんが小さく笑う。普通の人間じゃない、という親父の失言は、それで水に流されたらしい。
 夫婦の間に言葉はいらない。優しく見つめ合う切嗣とアイリさんの顔が徐々に近づいていき、二人は目を閉じて――――

「シロウ、そこまでです。それ以上見るのはいくら息子の貴方でもよくない」

 後ろからセイバーの両手に目を隠された。
「……まあ、仲がいいのは昔からだし」
 苦笑したイリヤの声。んん? もしかしてイリヤは目をそらさず、二人を見ているのではないだろうか?
 少しして、セイバーが目隠ししていた手をはずしてくれる。そのときにはもう、切嗣とアイリさんは元の位置に戻っていた。
 切嗣は優しく微笑みながら、
「イリヤ、どうだい? 士郎とセイバーは仲良くやってるかな」
「ええ、ちょっと妬けるぐらいには仲良しよ。わたしだってシロウと一緒にいたいのに、セイバーにとられちゃってあんまりいちゃいちゃできないもの」
 肩をすくめて言うイリヤ。いやちょっと待て、そんなにセイバーといちゃついてはいないぞ。…………たぶん。
「士郎。君はどうだ? セイバーは普通の人間じゃない。それでも、彼女を選んで後悔はないかい?」
 親父の質問は簡潔で、そして胸のうちの偽りない答えを求めていた。
 今の彼女はサーヴァントという仮初めの肉体ではないが、それでもやはり英雄だ。普通の人間とは違い、どんな困難がこれから待ち受けているか、想像することもできはしない。そこには死ぬまで共に生きられる保証も、安寧な日常の確証もない。
 普通の人間ではない彼女を選ぶリスクは、きっと俺が考えているよりずっと大きなものなのだろう。ホムンクルスという人外の女性を愛した切嗣は、たぶんそのことを知っているのだ。だからこそ俺の幸福を心配してくれている。
 けれど迷うことも、ためらうこともない。初めから答えはひとつに決まっている。

「するわけない。俺はセイバーが好きだ。セイバーも、その……俺を好きだって言ってくれてる。
 なら、今のこの気持ちに、後悔なんてするはずがない」
 聖杯戦争の終わりに経験した、最愛の人との別れ。十年前のあの日からぽっかりと空席になっていた、自分という特別席に座らせた大切な人を失った。それは文字通り、自分自身を再び失う痛み。
 もしも現代の誰か――セイバーではない誰かを愛していたら、あんな想いはしなかっただろう。
 それでも、セイバーを愛したことに後悔はなかった。彼女を愛したこと自体が間違いだとは思わなかった。
 ならば、これから先、どんな未来が待っていても。
 彼女を想うこの気持ちを、後悔することなんて、ない。
「……………………」
 まっすぐ切嗣を見つめ返す。今の誓いを貫き通す、覚悟の証として。
 やがて親父は口元を緩め、

「そうか。士郎もいつのまにか大きくなったんだな」
「本当に、素敵よシロウくん。血は繋がってないのに、まるで昔の切嗣みたい」
 うっとりと呟くアイリさんに、イリヤが飛びついた。きらきらと輝いた目は、まるでさっきのアイリさんだ。……女の子って本当に恋の話が好きだよな。
「へえ、キリツグってば昔母さまにそんな告白したの?」
「うふふ、そうなのよ。切嗣ってばね、私がホムンクルスなんて愛してどうするのって聞いたら、すごく怒ってね」
「ア、アイリ……。恥ずかしいよ、そんな昔の話は」
 困ったように止めながらも、顔はにやにやと照れ笑いの切嗣を見て、セイバーと二人、そっと笑みを交わした。
 どうやら親父は認めてくれたらしい。俺とセイバーのことを。

 ノロケ話を続ける三人に気づかれないよう、こっそりと手をつないだ。
 あたたかくて小さなセイバーの手。今このぬくもりがここにあることを心から感謝する。
 この手を放すぐらいなら、後で何かが起こるかもしれない恐怖を抱えながら彼女を愛するほうがよっぽどいい。
 そう思いながら、固く彼女の手を握りしめた。




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