――――カルネアデスの板、という話がある。

 二人の男たちが海に落ちた。
 幸いにも、すぐ近くに浮き輪代わりとなる木の板が浮かんでいた。
 しかし板は小さく、重さを支えられるのは一人分だけしかなかった。
 板に先につかまった男は、その板に向けて助けを求めるもう一人の男を、触れさせまいとつきとばした。
 結果、板につかまった男は助かり、もう一人の男は命を落とした。
 それは果たして、罪に問われるべきか否か?
 仮にその後がどうであろうと、どちらか一人しか助からないならば、自らの命を守ろうとするのは当然。
 板を求めて争いが起こるのも当然の話。
 両者が共に、自らの命を守ろうとするのならば。




 真っ赤な夕陽が真っ赤な橋の上にかかっている。
 空も地面も真っ赤っか。やがて時間とともに赤い太陽が赤い橋の下に沈むと、今度は黒一色の世界になるのだろう。
 束の間の赤い赤い世界を、セイバーと士郎は並んで歩いていた。
「さっきのバッティングセンターとやら、とても無念でした……」
「あと一歩でホームラン賞だったのにな」
 悔しそうなセイバー。けれどその顔と声には笑みがある。士郎も同じく笑っていた。
 新都から帰る途中の道すがら。恋人たちは束の間の、デートの余韻を楽しんでいる。
「まああんまり気にしないほうがいいぞ、セイバー。また連れてってやるからさ」
「はい。お願いしますシロウ」
 幸せな時間。幸せな会話。
 過ぎ去ったそれはやがて想い出という、次の幸せの種になる。
 もろく儚い幸せの瞬間。
 だからこそ、人は祈る。
 その刹那の幸せを積み重ねて、やがては永遠になれるようにと。
 ふとセイバーは、聖杯戦争のとき初めて二人で新都へ遊びに出かけた日を思い出した。
 瞬く間に駆け抜けたあの日。ちょうどあのときも、こんな夕焼けの中、この橋の上を二人で歩いたのだ。
 セイバーは隣を歩く士郎を見上げた。
 あのときは、あんな夢のような瞬間など二度と来ないと思っていたけれど。
 こうしてもう一度手にしてしまうと、それがどんなに失えないものであるか再度確認させられる。
 我ながら欲深になったものだ。内心で苦笑して、セイバーは自分の手をそっと士郎の手に重ねた。
「…………セイバー?」
「少し――こうしていてもいいですか」
「…………。ああ。勿論」
 ――――ごう、と風が吹いた。
 川面からの風は強く、そして冷たい。晩秋の夕暮れ、気温は昼間よりずいぶん下がり、道ゆく人の体温を奪う。
「冷えてきたな。セイバー寒くないか?」
「大丈夫です。私にとって、こちらの冬はむしろ暖かい」
「そうか? たしかに冬木の冬はあったかいけど」
 それに、繋いだ手があったかい。だから彼女は平気だった。
 相手の体温を確かめるように。握った手に力をこめる。
 するとそれに応えるように、彼女の手を握る力も強くなった。
「セイバー」
 上から士郎の声が降ってくる。セイバーは上を振り仰いだ。
 そこには夕陽で赤くなった士郎の顔。
 赤い橋と赤い水面。前にも見た風景。
 ――――ああ。今の風景は、あの時にとてもよく似ている。
 そして、彼の紡ぐ言葉も。
「今日は、楽しかったか」
 もしかすると、彼も同じことを考えているのかもしれない。
 セイバーはあの時の答えを後悔していた。
 間違った自分の、間違った答え。たとえ二度とあのような時間が過ごせないとしても、あんな言い方をするべきではなかったのに。
 だから。今回は。
「…………はい。楽しかったです。今日は、とても楽しかった」
「そっか…………良かった」
 士郎が微笑む。その顔が、なぜか泣きそうに見えて。
 セイバーは彼の胸に顔をうずめた。
「セ、セイバー!? どうしたんだ!?」
「いえ……なんでもありません」
 言ってから気が付いた。自分の声も少し震えているのだと。
 思えば、あの時はうやむやになってしまったけれど。
 ――本当はずっと、彼に謝りたかったのだろう。
「…………そろそろ帰りましょうか、シロウ」
「そう、だな――家で待ってるやつらもいるし」
 彼女がうずめた顔を上げて笑ってみせると、士郎も安心したように言った。
 セイバーは思う。この人を、この瞬間を守りたい、と。
 あの時からすれば、今こうしていられるのは奇蹟のようなものだ。
 脆く儚い幸せ。だから人は祈る。この幸せを失わないように。
 少なくとも一般論ではなく、セイバーはこの時間が、ひどく危ういものの上に成り立っていることを知っていた。
 だって、彼女の幸せは。
「本日のメインは、たしかアジの焼き魚でしたか?」
「ああ。あとは鶏肉と大根の味噌煮とか、ほうれんそうのおひたしとか、きんぴらごぼうとか。たくさん作るから、心配しなくていいぞ」
「なっ……! シロウ、何度言ったらわかるのですか! 私はそれほど食い意地がはっているわけではありません!」
「悪い悪い、そうだったか?」
 ――彼女の幸せは、この少年と共にいること。
 しかし彼女は知っている。彼の目標を。彼の志すものを。
 そして、彼に決定的に欠けているものを。
 それゆえ彼はとても危うい存在なのだ。
 二人は橋を渡りきり、深山町側の公園に出た。太陽はもう半分ほど沈みかけている。このままだと家に帰りつくころには、すっかり暗くなっているだろう。
「遅くなっちゃったかな。藤ねえとかイリヤとか暴れそうだなあ……」
「そういえば、『お土産を買ってこい』と言われていましたが、本当に買って帰らなくて良かったのですか?」
「ん、あー、あれは単なる冗談というかワガママというか。だから気にするな。つきあってたらきりがない」
「はあ……」
 公園の街灯にはすでに灯りがついている。白い光があちこちに闇のない空間を作り出していた。
 ――――ふと。
 士郎が立ち止まる。セイバーと繋いだ手には、少し痛いほどの力がこめられた。
「……シロウ……?」
「え? あ、ああ。――悪い」
 こころなしか彼の体が固くなっている。セイバーは不安になって士郎の顔を覗き込んだ。
「どうしたのですか。様子がおかしいですよ」
「ああ。…………ちょっと、思い出してただけだ」
「思い出した? なにをですか?」
「――――ここで、戦ったこと」
 セイバーも一瞬、背筋が固くなった。
 それは運命の二週間も終わりを迎えた頃。そう、先程思い返していたあの時間の、その後のこと。
 ケンカ別れして橋の上でたたずむ彼女を、彼が迎えに来てくれて。
 帰ろうとしたら、英雄王と会ってしまい、あやうく二人とも死にかけたあの時。
 けれど。それも今は遠い想い出。
「……あの時は驚きました。逃げてくださいとあれだけ言ったのに、シロウは私よりよほど深い傷を追っていたのに、それでも英雄王に立ち向かっていった」
「ばか。女の子を置いて、俺だけ逃げられるもんか。それに立ち上がれる俺より、絶対セイバーの方が重傷だったぞ」
「それはあの瞬間だけの話です。その証拠に、戦闘の後私の傷はすっかり癒えていたでしょう。シロウの体に鞘が入っていなかったら、シロウとて立ち上がれるはずなどありませんでした」
「うっ…………」
 それ以前に死んでいただろうとセイバーは思う。
 あの時のことを考えると、今でも震えが走るのだ。彼を喪ってしまうと、本気で恐怖した。
 彼女を守るため、自らを投げ出そうとした士郎。
 ――――そう。あの時のことは、すでに想い出になってしまったけれど。
 この恐怖は、まだ想い出にしきれていない。
「そもそも貴方には、もっと自分を大切にしてほしい。でなければ私も安心できません」
「む。それはおまえだって同じだぞセイバー。あんなになって倒れたんなら、少しは俺を頼ってくれてもよかったんだ」
 士郎はムキになって言い返す。また、それなのだ。セイバーの――いや、凛やイリヤや桜や大河ですら言っていることだが、彼に対する『自分自身を大切にしてほしい』という周囲の願いは、なかなか届かない。
 疲れたようにセイバーがため息をもらすと、士郎は小さく苦笑した。
「……そうだな。たしかに俺は、自分のことが勘定に入ってないんだ。
 でもあの時思い知った。きっと自分を勘定に入れてたって、それでも俺はセイバーを守る。心配かけるかもしれないけど、それだけは譲れない」
「――――――――」
 セイバーはそれに答える言葉に迷った。
 そんな二人に、冷たい風が吹き付ける。いつの間にか、日は暮れていた。
 くしゅんっ。
 小さなくしゃみがセイバーの口からもれた。
 隣の士郎は驚いたように彼女を見下ろしている。
「セイバー、寒いのか?」
「あ、す、すみません。はしたないところを見せてしまって……」
「いや、寒いなら無理するな。――それじゃあこれ」
 ばさ、と鳥の羽音に似た音が耳元で聞こえる。次にはあたたかい温もりと胸を高鳴らせる匂い。
 一瞬遅れて、彼の上着が肩にかけられたのだと知った。
「シ、シロウ!?」
「これで寒くないか?」
「はい……ってそうではなくて! これでは貴方が寒いではないですか」
 この上着を脱いでしまえば、士郎が着ているのは薄手のシャツが1枚だけ。さっきまでのセイバーよりはるかに薄着となってしまう。
「俺は大丈夫だって。それより紅茶でも買おうか? あったまるぞ」
「困ります、シロウ。それはむしろ貴方が飲むべきだ。私のせいでシロウが風邪をひいてしまう」
「信用ないなあ。男っていうのは女の子より頑丈にできてるものなんだぞ。これくらいでカゼひくほど、ヤワな鍛え方してるつもりはない」
 そう言って、士郎は笑う。さらには本当に紅茶を買いに、近くに見える自動販売機へ小走りで走っていってしまった。
 彼の後ろ姿を見送って。セイバーはひとつ息を吐いた。
 士郎の気持ちはわかる。それはとても嬉しい。彼が自分を気遣って、大事にしようという想いは、痛いほどしっかり伝わってくる。
 けれどそれが、彼自身を削って行動を起こさせるというのなら。
 看過するわけにはいかないではないか。
「まったくシロウは……」
 ホットの紅茶の缶を持って、士郎が戻ってくる。彼の顔に無理をしている様子はまるでない。事実、彼女のために無茶をしているつもりはまったくないのだろう。
「ほら、お待たせ」
「――ありがとうございます」
 礼を言って紅茶を受け取る。美味しいものではないと知ってはいるが、冷えてきた体に熱い缶はありがたかった。
 けれど、それ以上に気になったのは。
 缶を受け取るときに触れた、彼の手の冷たさ。
 普段は自分の手の方が冷たいことを考えれば、いかに彼の手が冷えているかは明らかだった。
 ――――しかし、それでも。
 彼は辛い顔ひとつ見せない。否、辛いとはカケラも思っていないのだ。
「シロウ。本当に寒くないのですか?」
「大丈夫だいじょうぶ。そんなに心配しなくていいぞ」
 ……本当に。
 こんな冷たい手で、小刻みに震える肩で、笑いながら、何を言っているのだろう。
 彼には、自己防衛本能というものが欠けている。
 自らの身を守るために必要なものを、なんのためらいもなく他人に分け与えて、結果自分が傷ついたり死んだりしてしまう。
 彼は、たしかに欠けていて。
 それでも彼女は彼を、この世で一番愛しいと思う。
 ――――だったら。
 この身にできることは、するべきことは決まっている。
 セイバーは手にしていた紅茶を士郎に渡した。
「……セイバー?」
「シロウ。家まで競争しませんか」
「へっ?」
「シロウの持久力は一般人としては高いですが、武人としてはまだまだです。どれだけ貴方に持久力がついているか、私も稽古をつける立場として知っておきたい。
 私に負けた場合、明日の稽古は持久力をつけるため、ひたすら走り込みをしたいと思います」
「げっっ!?」
 士郎の顔が嫌そうに歪む。これで彼は本気で走るだろう。セイバーは小さくほくそ笑んだ。
「では、開始です」
 言うが早いか、士郎の返事を待たず、さっと走り出す。
「あ、待ってくれセイバー! おい、ちょっとズルいぞ!」
 後ろからは非難の声。それもじきに、足音に取って代わられた。
 ちらりと後ろを見れば、置いていかれまいと士郎が必死に走っている。
 これで大丈夫。家に着くまで体をあたためていれば、風邪をひく心配はない。


 彼が自らを守ろうともせず、彼女を守ろうとするのならば。
 彼女は全力をもって、彼を守る。
 自らを守ることなど、彼を守りきったその後だ。
 そして。
 他人に板を渡してしまう彼を守るには、余分な板を探して持ってくるしかない。
 彼を守るのに大切なのは、そういうことなのかもしれない。


 ふたつの影が、日の落ちた深山町を駆けてゆく。
「遅れていますよ、シロウ!」
「くそぉ、絶対追いついてやるっ……!」
 紅潮した二人の顔は、いつしか楽しそうな笑顔に変わっていた。
 あたりは真っ暗で、風はいっそう冷たさを増し、二人に吹き付ける。
 けれどセイバーも士郎も、冷たい風をむしろ心地よく感じていた。






 人は誰しも防衛本能を持っているのが当然で、だから自分を生かしていけるわけで。
 でも士郎は、そしてたぶんセイバーも、他人を助けるために自分をすり減らしてしまう人間だと思うです。
 その結果、自分の身だけは守りきれず倒れてしまう。最初に犠牲になるのは自分なのです。
 けど、そんな二人が互いに守り合えたら。互いに捨て身で守る分、必ず互いを守りきれるのではないか。
 以前別ジャンルで違う意味にとって書きましたが、彼らの場合は従来の意味で、比翼の鳥であり連理の枝なんだと思うであります。
 人という字は、人と人が支え合っています。どちらか片方欠けると倒れてしまうけど、揃っていればどちらも安定していられる。
 ジブンの理想のセイバーと士郎のカンケイって、たぶんそんな感じ。
 ……でもなんか、もちょっとうまくまとめられないかジブン……。つか前半部分みたく思いつくまま書くのはいーかげんやめようぜいい年なのに。




戻る