彼女に対する私の関係

― キルケゴールとレギーネ・オルセン ―

1983/5

馬場 英治

子供を乳離れさせようと思うとき,母はその乳房を黒く染める.子供に飲ませてならないのに乳房に魅力を残しておくのは,まことに残酷なことであろう.乳房を黒く染めれば,子供は乳房が変わったのだと思う.しかも母は同じ母であり,母のまなざしはいつものように愛情にみちてやさしい.子供を乳離れさせるために,これ以上の恐ろしい手段を必要としないものは幸なるかな!

(おそれとおののき,キルケゴール)

 1.キルケゴール
 2.レギーネ体験
 3.結婚
 4.絶望
 5.意識された絶望
 6.自己自身であろうと欲しない絶望(自殺)
 7.自己自身であろうと欲する絶望(反抗・苦役)
 8.悪魔的な絶望(誘惑者)
 9.誘惑者の日記
10.少女
11.自愛
12.処女性
13.絶対的冷淡さ
14.父娘の関係
15.魅惑的な場面
16.倫理が効力を失う場所

 

1.キルケゴール

 キルケゴールはすでに遠い人であろうか?確かに遠い.私達が,私達の安楽なその日ぐらしの寝床で薄く開いた眼の中にぼんやり見るとき,それはずい分遠いに違いない.(彼は1855年安政2年に没した)「私は憂鬱だ」「私はまだ一度も子供だったことがない」と語る人の憂鬱.彼は自分自身について「私は一日も憂鬱の圧迫から自由だったことはない」と述べている.

 けれど,長靴を履き,だぶだぶのズボンをだらしなくはみ出して道を行く哲学者(しかしまだ30そこそこなのだ)の後から「あれか,これか」とはやし立てながらついて来る子供達や,こき下ろしの記事をマンガ入りで執拗に連載する文芸雑誌とそれに対抗する生き生きとした反論,難解しごくでやけにもったいぶったその上にふざけきっている標題や,次から次へと繰り出してくる多重人格的ペンネームの付け方(沈黙のヨハンネス,ニコラウス・ノベタネ,フラーテル・タキトゥルネス,アンティ・クリマクス,etc, etc)には,ずい分現代的でポップな詩人の行き方が見える.

 (詩人?「私は詩人ではない」哲学者?「それでもない」宗教家?「それも違う」「私は私自身に関係し,私自身であろうと欲することにおいて,私を措定した力のうちに透明に根拠を置こうとする何ものかである」)

 

2.レギーネ体験

 キルケゴールは1837年24歳のとき,14歳のレギーネ・オルセンと出会う.3年たってレギーネが17歳になったとき,二人は婚約し,11ヶ月後キルケゴールの方から婚約指輪を送り返して,その契約は破棄される.これがキルケゴールにおけるレギーネ体験と呼ばれるものである.

 キルケゴールはこの体験について次のような謎めいた言葉を残している.「この秘密を知るものは私の全思想の秘密を知るものである」このような言葉が言われている以上,その「秘密」を解く鍵を探そうとするのは当然のことではないだろうか?

 エマーソンの言うように,どのような詩人,哲学者にもプライバシーは存在する.しかし,生自体を直接原資料として哲学を引き出して崩れない,まったく偽りの含まれていない生,(まったくというのが厳密でないとすれば,偽りもまた一つのゆるがせにできない真実であるとして)があるとすれば,書き残された書物の中から,詩人の生に遡行する試みもまた,許されなくてはならない.

 「詩人というものは自分には表現できない小さな秘密を代償にして,自分以外の全ての人の重い秘密を表現する言葉の力を償うものだから」(「反復」)

 私は私の「直感」を頼りにしてこの詩人の「秘密」に迫ってみようと思う.とてつもない見当外れで終わるのが関の山ではあろうけれど.

 70年代のドイツの学生反乱に影響を与えている行動的神学者,モルトマンは「キルケゴールは人間を精神として捉えすぎたので,たとえばレギーネとの婚約を破棄したのではないか」と言っている.イエスの十字架を神の王国建設の挫折ととらえ,教会の燭台の間から十字架を外に,社会に持ち出そうとするモルトマンの立場からすれば,これは当然のコトバであるかもしれない.

 キルケゴールは「人間は精神である」と規定し,「神の前に罪あるものとして,単独者として立つ」ことを求めた.しかし,哲学がどこまでも観念の高みに上昇し,抽象的体系の形式的整合性に中でついに生身の生を完全に忘却してしまうことこそ,キルケゴールのヘーゲルに対する最大の批判であった.彼はヘーゲルについて「大宮殿を建てた人間がその宮殿に住まないで,その傍らの犬小屋に住んでいる」と揶揄している.だからモルトマンの「人間を精神として捉えすぎて」というコトバは当たっているとしても全面的なものでは有り得ない.

 

3.結婚

 当時,キルケゴールはまだ半ば学生であり,レギーネに会ってから始めた語学教師のアルバイトも1年位で止め,その後はまったく職業に就いていなかった.喫茶店や書店などのツケが山のように溜まり,父親がその尻ぬぐいをさせられている.

 結婚?まともな生活!しかし,考えられないことではない.彼はレギーネを深く愛している.愛は困難に打ち克つだろう.あるいは,キルケゴールの本来的多情さが結婚を妨げたのだろうか?確かに彼が「気の多い人」であったことは彼の口からも明らかだ.しかし,それは誰についてでも言えることであり,実際的困難を引き起こすほどの障害になったとは考えにくい.

 あるとき,男と女が出会い,結婚する.それは半ば偶然であり,また必然でもある.つまり,つねに可能的なものであり,単なる1個の事実であるに過ぎない.2人は祭壇の前に立ち,聖書に手を置いて誓う.「何を?」『永遠を』

 この定式,「結婚」が「永遠」によって規定されるという定式は,多分まだしばらくは(あるいは後,ほんの束の間)改定されることはないだろう.しかし,キルケゴールによれば「永遠は,人間に決して知られることのない何かであり,ただ逆説として,永遠が時間性に突入する非歴史的な瞬間にのみ触れることのできる何ものかである」

 キルケゴールが「結婚」に与えた1つの美しい規定がある.「生の美的段階―恋愛,倫理的段階―結婚,宗教的段階―破婚」これが私の耳に真理のようにさえ聞こえてしまうのは,一種の聴覚的錯覚であろうか?(レギーネ・オルセンとの婚約解消が,ここでの破婚―宗教的段階にあることは言うまでもない)

 

4.絶望

 人はときに絶望する.深く,あるいは,少しく.それは暗い水の中で溺れかけたときの危機に似ている.口は塩辛い水を呑み,体内に侵入した水は外の水に支えることを止めるようにと早くも要求し始める.

  確かに,波しぶきと烈風の中で精神を惹きつける岬が存在し,遠くを見据える目をもった灯台は叫ぶ.「この岩がエデンだ.ここで難破せよ!」この声に抗うことが誰にできただろう.19世紀ヨーロッパは眼前にこの岩を見出した.「我々はもはや救われている」「今こそ,難破するときだ」しかし,溺れるものがここで易々と水没することを,この孤独な哲学者は許さなかった.

 絶望の書「死に至る病」の著者はその絶望がまだまだ不足していることを指摘する.絶望して気絶し,死んでしまったかのように横たわっているが,「死んで寝ている演技のようなものだ.」「そのうち時がすぎ,外からの助けが来れば,この絶望者の生命もよみがえってくる.彼は彼が止めたところから始める.彼は自己ではなかったし,自己になったこともない.」「絶望とは死に至る病とは呼ばれ得ない.」

 「死に至るまでに病んでいるということは死ぬことができないということであり,しかもそれも生きられる希望があってのことではなく,それどころか,死という最後の希望さえも残されないほど希望を失っているということなのである.」絶望の果てしない<絶望的な>エスカレーション.意識が増せば増すほど,意識が上昇するのに比例して絶望の度が強まってゆく.厳格な対位法にもとづく無限上昇カノンだ.

 

5.意識された絶望

 意識された絶望はその弱さにおいて絶望である.弱さ,力の無さ.5本の指にありったけの力をこめているのに,汗ですべりやすくなった指から逃げ去るものを留めることのできない握力の無さ.<何もかも,一切が無益だった>しかし,「地上的なもの,地上的なあるものについて絶望する自己はまた,自己が絶望であることをも自覚する」

 私は絶望だ.私は絶望している.その絶望には限界がない.<私は何処に行こう?私ハ何処ニ行コウ!>それは,自己がある永遠なるものをもともと含んでいることを示している.私の絶望の深さによって,その限度の無さによって推し量ることのできる永遠なものがあり,あるばかりでなく失われているということ.<どこに永遠の愛などあるだろう!だが愛が永遠でないとしたら?>

 

6.自己自身であろうと欲しない絶望(自殺)

 永遠と自分自身とが共に失われているという絶望.このとき絶望は単に受難ではなくて行為であり,「自己は絶望して自己自身であろうと欲しないか,絶望して自己自身であろうと欲するか」のいずれかとなる.絶望して自己自身であろうと欲しないとき,(これは絶望の女性的形態である)私はもはや私ではない.

 暗い閉め切られた部屋の中で,私は何か得体の知れない,私自身も知らない大きな虫のようなものに変容する.精神?これが私達の中に巣食う精神という名の虫であろうか?宛先不明郵便物の処理という呪うべき仕事をまかされたあの郵便局員のように,(精神?)は机の下にもぐり込み,部厚い書物の冷え冷えとしたページの間に平たくなって横たわる.

 「この閉じこもりが絶対的に,アラユル点ニオイテ完全ニ,保たれる場合には,自殺が彼にもっとも身近に迫る危険となるだろう」(この危険は誰かたった1人の人にでも打ち明けられるなら1音階ゆるめられる)

 

7.自己自身であろうと欲する絶望(反抗・苦役)

 絶望して自己自身であろうと欲するとき(これは絶望の男性的形態であり,反抗である)私は私だ―,私は私であることを譲らない.私が私であること,それは不可能であり,絶望だ.なぜなら私は単に事実として私であり,限定された具体性としての特定でしかない.だが,驚くべきことに,私の中には1つの無限な力が保有されている.つまり私の「無限なる形式,否定的な自己の力」による反抗である.この「否定的な自己の無限な形態の力」は行動的,あるいは受動的に表現される.

 絶望的な自己が行動的な自己である場合,絶望者は破壊者として,全否定者,無の思想家として現れる.だがそれは本来暫定的なものでしかない.このとき「自己は本来つねにただ実験的にのみ自己自身に関係する.」「1つの思想がどれほど長く追求されるにしても,その行動の全体は仮設の埒内を出ない.」「自己が殿堂の構築を完成したかと見えるまさにその瞬間に,自己は気ままに全体を無に解消させることができる.」

 絶望した自己が受動的な自己である場合,絶望者は無限の苦役につながれたプロメテウスである.だが,彼の誇りは無限に繰り返されるこの苦難に決して屈服せず,地獄のあらゆる苦しみを嘗め尽くしてもなお,救いを拒否して自己自身であろうと欲するところにある.

 しかし,このような絶望のエスカレーションの全過程の最後に,絶望の度のもっとも強まった極限として,絶望は悪魔的な絶望となる.絶望は自己の裂け目である責め苦の中に,自分の全情熱を投げかける.そのとき,この情熱は暴走してついに悪魔的な兇暴となる.

 

8.悪魔的な絶望(誘惑者)

 なぜなら神の前にあって絶望は罪であり,自己の罪について絶望する罪であり,罪の赦しについて絶望する罪(つまづき)であるから.かくて,反抗は極限的なもの,神への反抗となる.<私は破滅だ.私は滅亡だ!>

 この悪魔的な絶望者の呼び名は「誘惑するもの」(「誘惑が来ることは避けられない」実にイエスでさえも誘惑にさらされたのだ.「しかし誘惑をもたらすものはわざわいだ」それが罪の甘美を伴うゆえに,その甘美が善いもののもたらす楽しみをはるかに超える度合いを有していることのために,誘惑はわざわいである.その甘美は析出した死の甘さである.)エデンにおいてイヴをそそのかした蛇,「キリスト教を積極的に廃棄し,それを虚偽であると説く者」である.

 このようにして,私達はキルケゴールの絶望の全過程をたどって(この絶望のさまざまなカテゴリーがどれほど普遍的なものであるかは驚くほどである.「死に至る病」1巻の中に,人間の絶望と苦悩のすべての形態が封ぜられているのではないかとさえ思われる.)ようやくキルケゴールの最初の主要な著作,レギーネ・オルセンとの葛藤から産み出された,手に触れてまだ熱い書物,「誘惑者の日記」にたどりつくことができた.

 

9.誘惑者の日記

 「誘惑者の日記」はレギーネとの破綻の2年後に刊行された全2巻からなる大部な著作「あれか―これか」の第1部に含まれる1つの独立した作品である.「誘惑者の日記」にほどこされた何重もの遮蔽と隔離は,作者がこの「人間をその根源的様相において捉えようとする書物」を,どの程度に危険なものとして取り扱っているかを示している.

 キルケゴールはまず第1の隔離として,「あれか―これか」全体の架空の著者,あるいは刊行者として,ウイクトレル・エレミタという人物を設定している.その序言によれば,この書物を書いたのはエレミタ自身ではなく,彼は,この書の草稿を古道具屋から買った古机の引出しの中に偶然見つけた,ということになっている.

 この草稿の筆者として2人の人物が設定される.第1部美的内容部分の作者はAと呼ばれ,第2部倫理的内容の筆者はBと呼ばれる.これが第2の隔離である.第3の隔離として,ヨハンネス(誘惑者)という人物が設定され,「誘惑者の日記」はこの人物の引き出しからAが偶然発見し,整理清書したものとされる.

 この「支那の魔法箱のなかに隠れている箱」のような書物の構造は,遺伝子工学の組み替え実験に要求される生物学的隔離の最も厳重な段階を想起させる.このように何段もの隔壁に防護されて始めて,作者はこの書を実際的に取り扱うことができたのである.

 しかし,このようにして厳重に封ぜられた<わざわいなるもの>とは,実は,金の生毛のそよぐ白く瑞々しい桃の果肉に埋まる固い果核の沈黙であった.これは少女の秘密である.少女―「世界の外交上のあるゆる秘密など,ひとりのうら若い娘の秘密にくらべたら,いったい何であろう.」「秘密ほど,多くの誘惑と多くの呪いとにつつまれたものはない.」

 

10.少女

 2人が出会ったとき,レギーネはまだ幼さの残る14歳の少女,水の泡の中に誕生したばかりの少女だった.「彼女は美しさの絶頂にあった.若い少女の発育は少年のそれとは意味がちがう.少女は生長するのではない.少女は誕生するのである.少女は長いあいだかかって誕生し,生長して誕生するのだ.この点に少女の無限の豊かさがある.」

 誘惑者がコーデリアに結婚の申し込みをするときの,17歳の誕生日を迎えた少女の印象.「摘み取ったばかりの新鮮な薔薇,そうだ,この娘自身があたかも摘み取ったばかりの新鮮な花のごとく,そのように新鮮で,いましがた到着したばかりのようなのだ.若い娘というものがどこで夜をすごすものなのか誰が知っていよう.それは幻想の国なのだと,僕は思う.そしてそこから,彼女は毎朝かえってくるのだ.彼女の若々しい新鮮さはそこからくるのだ.彼女はいかにも若々しく,しかも,いかにも成熟しきったように見える.それはあたかも,自然が,やさしく豊かな母親のように,いまこの瞬間に彼女をその手からとき放ったばかりのように思えるほどである.」

 これはもちろん,少女一般についても言えることであるから,キルケゴールがレギーネを愛しただけでなく,少女一般を愛していたと言うこともできる.しかし,「婚約を解消して広汎な可能性がひらけると,かなりの女のことを,つまり,どれだけ多くの女のことでも,心配してやれるのだ」のようなテキストは,むしろ説得力を欠いて疑わしい.

 キルケゴールとレギーネの愛の形式は確かに独特なものであった.それは「心の奥深く立ちこめている永遠の夜」と表象される青年キルケゴール自身の,深い憂鬱という特性を考えてもただちに想像し得ることだ.キルケゴールは半ば意識的に,ほとんど不可避のものとして,2人の当面の関係を極めてプラトニックな,反省的なもの―中性的なものに保とうとした.

 「蝿たたきで叩きまわっているような恋人たちの接吻の音」「1ぱいのシャンパンを享楽するのと同じように,あわだつ瞬間に,若い娘を享楽する」ようなやり方は到底できなかった.「彼女の心は情熱的で非凡なものに対する欲求」をもっていたから,「彼女は自由でなければならない」「彼女が重い物体のごとく落ちてくるのでなく,精神が精神に引き寄せられるような仕方で腕の中に落ちてくるような」「自由の独特な遊戯」でなくてはならなかった.このことに関わって,キルケゴール自身充分意識していた1つの事柄を指摘することができる.

 

11.自愛

 「私がただひとりを愛しているということは,夜の静寂(しじま)にしか洩らしてはならない秘密である.夜の静寂にもけっして繰り返してはならない秘密なのだ.だから,私にこの告白を強いるものは,災いあれだ.」(『日記』のための手稿)この秘密は,つづく欄外の補足「ついに彼自身が,ナルキッソスと同じように〔自分自身〕に惚れ込んでしまった」によって,彼自身の自愛<ナルシシズム>であることがわかる.

 「あなたのお兄さんはきのう,わたしがいつもわたしの靴屋のことや,わたしの果物屋のことや,わたしの辻馬車の馭者のことなどしか話さない,といって非難されました.それはわたしが特に好んで第1人称の所有代名詞を使うのを咎めておられるようでした.」(レギーネ宛て書簡)「ぼくはぼく自身への恋におぼれている,と人びとはぼくのことを言います.」(『日記』)

 (ナルキッソスは残酷にもエコーの愛に心をとめなかった.彼女は悲しみのあまり死んであとに声だけが残った.そのように少女の愛はいく分かは「雲を抱く」ような空しいものになる契機をはらんでいた.

 <ぼくは彼女を捨てるだろう>確信にみちたナルキッソスのコトバ.そのコトバは文字通り厳密に実現された.さらにこのコトバはより具体的には次のように表記される.「娘がひとたび身をささげつくしたならば,すべては終わりである.」(『日記』)

 

12.処女性

 コーデリアと婚約した誘惑者ヨハンネスの心そそる計画「一方では婚約を破棄してコーデリアとの関係をいっそう美しく,いっそう意味深いものとすることができるように手はずをととのえ,他方では時をできるだけうまく利用して,自然からめぐみ与えられた彼女のあらゆる優美さ,あらゆる愛らしさを楽しむようにすること.やがてぼくが彼女に愛するとはいかなることか,ぼくを愛するとはいかなることかを学び知らせることができたあかつきには,婚約は不完全な形式として破れ,彼女はぼくのものになる.」

 反省的誘惑者ヨハンネスはこのような独特の恋愛の美的段階を楽しんだのち,その深奥の果実を味わいつくして捨てる.だが,キルケゴールがこの作品を「彼女を突き放すことのために」「子を乳離れさせようとする母親がその乳房を黒く染めるような」悲痛な目的をもって書いたことを忘れてはなるまい.

 キルケゴール自身の中に,処女性に対する強い憧憬のあったことは確かだ.「女性が他者のための存在として特徴づけられるのは,純粋な処女性によってである.処女性とは,すなわち,自分のための存在であるかぎりはじつは1つの抽象物であるが,他者のために存在する場合にのみ自己をあらわすような存在である.」

 「瞬間がこの場合このように無限な意味をもってくる.その瞬間がくるまでに長い時間がかかる場合もあれば,短い時間で足りることもあるが,その瞬間がくるやいなや,もともと他者のための存在であったものが,相対的な存在の形をとるにいたり,それによって他者のための存在は終わってしまう.」

 (この規定を裏返しにすれば,「女性が他者のための存在でないとすれば,処女性は単なる抽象である」という結論がただちに引き出される.ヘーゲルの用語によれば,他者のための存在とは,物一般,あるいは労働者その他使役されるものである.これに対し,キルケゴールは,女性という存在がある点を境にまったく対極的な2つの区間に分割されるとし,この分割点にはある超時間的なものが現れると考えている.)

 

13.絶対的冷淡さ

 キルケゴールにあっては,処女性とはこのように絶対的なものであった.「もしこの他者のための存在が,そのための存在である他の存在との関係において,自己のための存在であろうと試みる場合には,その矛盾は絶対的な冷淡さとなってあらわれる.絶対的献身の正反対は絶対的冷淡さであり,これは抽象的存在(処女膜のこと)とは逆の意味で,目に見えぬものである」

 この平板な概念的記述の中に,私達はこの不幸な愛の真相を解く1つの手がかりを得ることができる.それは,「目に見えないもの」であるために,明らかには表現され得ない.だから,「誘惑者の日記」の中の何処を探しても,これにあたるものを見出すことはできないだろう.しかし,たった1つ,決定的な記述が存在する.それもたった1行.

ぼくのコーデリア

抱擁とは,戦いのことなのでしょうか?

        あなたのヨハンネス

 愛し合う2つのナイーブな魂が抱擁しあうとき,もしそれが戦いであったとすれば,そこには,目に見えぬ何かが介在していなくてはならない.2人は目に見えない何か,2人を決定的に隔てる何かがあるために,自分達の意に反して(見かけ上)争うことになるのだ.それを突き破ろうとする試みは,空しく,そして荒々しいものになる.キルケゴールは,この「自己が自己のための存在であろうとする矛盾」を「目に見えないもの」と表現することによって,それが外的な要因に関わるものであることを示唆している.

 少女の周辺に存在する目に見えないものとは,少女の処女性をめぐるある危機に際し,防御的あるいは対抗的に形成されると考えられる.つまり,1人の少女における近接的占有の危機(これは一般にはまず少女にもっとも近い男性である父によってもたらされるであろう)とそれに対する反発の作用によって,少女の表層に硬質の透明なバリアーが形成され,それがまた,少女に独特の完成した印象を与えることになる,と言うことができよう.

 それは既婚の女性に見られる冷却した表情とは異なり,少女に透明な反射作用と,ある種の冒し難い気品,高過ぎる値札の付いた商品を前にして思わず後退してしまうときの畏怖にも近いものを与える.このようにして最初の脅威あるいは危機に反応して,少女は目に見えない武装を,自分自身にも気付かれることなく身に帯びるのである.

 

14.父娘の関係

 私はここでまだ証明されていない1つの仮説を提出しよう.つまり,「父なるものの映像が少女に深く埋め込まれているときには,少女は同年の彼女に相応しい対象ではなく,自分よりはるかに年上の男性にかえって自然な恋愛感情を抱くようになる(傾向がある)」というものである.少なくとも,ある少女が自分よりずっと年長の男性を慕うようになるときには,彼女の父のイメージがその最初の隠れた動因になっているということは,納得されるであろう.

 これを認めるとすれば私達のケースにも直ちに適用することができる.事実キルケゴールとレギーネは10も歳が離れているのだ.そこで,「レギーネ・オルセンには彼女の父の心理的影響が濃厚に存在する」としよう.とすれば,キルケゴールは彼女の父と一種のライバル関係にあることになり,またそう仮定すると容易に理解される様々な事実が存在する.

 「彼女に対する私の関係」に収録されたレギーネに宛てた書簡.レギーネが15歳で堅信礼を受けた折のものである.「あなたはこの間わたしを訪ねてこられたとき,お父さんから堅信礼のお祝いに鈴蘭香水を1壜贈っていただいたと言いましたね.あなたはわたしがそれを聞いてはいなかったと思ったかもしれません...ところがそうではないのです.けっして.」といって,彼自身も香水を送ろうとしていることを告げる.

 「あなたがこの瞬間に(あなたが出かける直前に)香水を受け取られるということは,あなたもまたこの瞬間の無限性を知っておられることを,わたしが知っているからなのです.間に合ってほしいものです.急いでおくれ,わたしの使いの者よ!急いでおくれ,わたしの思いよ!そしてわたしのレギーネよ,ちょっと一瞬間待っておくれ!一瞬間だけたちどまっていておくれ!」

 (この急きこみ方は尋常ではない.「この瞬間の無限性」というコトバは,出かける直前という単なる時刻を指し示したものとしてはあまりに大げさに過ぎるのではないか?)

 この手紙の冒頭に1つの短詩がそえられている.

わたしのレギーネ,

苦痛は終わる,

冗談と同じに,

夜と同じに,

知らないうちに.

 

15.魅惑的な場面

 これは確かに非常に interesant な(興味ある)ものだ.この詩はドイツ語で書かれていて,誰の詩であるかはわからない.キルケゴール自身が書いた可能性はもちろんある.「苦痛は終わる./ 冗談と同じに,/ 夜と同じに,/ 知らないうちに.」これは何だろう?もっとも当たり前に解釈すれば,これはあの,いわゆる「初体験」と呼ばれるものを指していると取ることが可能である.だが,この詩をそのようなものと解釈すれば,この手紙の内容は全体として極めて容易ならぬ問題について書かれているということになる.

 キルケゴールは「どのような場所と時間がもっとも魅惑的なものとみなされるべきか」という設問を立て,「それは結婚式,それもとくに一定の瞬間,花嫁衣裳を身につけて花嫁が新郎に身をゆだねる瞬間,「謎が解ける前に涙が震えるとき」と答えている.「(この瞬間において)何かが欠けても,ことに主要な矛盾の1つが欠けても,この場面はたちまち魅惑的なものの1部を失ってしまう.」

 続けてもう1つの「魅惑的な場面」が描かれる.「有名な銅版画がある.そこには1人の懺悔者が描かれている.彼女はあまりにも幼なく,あまりにも無邪気に見えるので,彼女はいったい懺悔すべきどういうことをもっているのだろうかと,その少女のためにも,聴罪師のためにも,当惑をおぼえるくらいである.彼女はヴェールを少しあげて,何かを,のちにはおそらく彼女に懺悔の動機をあたえることになるようなものを,探してでもいるように外の世界をながめている.」「もしぼくがその背景に置かれたとしても,この少女にさえ異存がなければ,ぼくにはなにも異存はありはしない.」

 1849年,レギーネの父商事顧問官オルセンが死んだあと,キルケゴールは長く決着のつかないこの事件の(宗教的な意味での)きまりをつけるために,レギーネの夫となったシュレーゲル宛ての手紙に,レギーネに書いた手紙を同封する.その手紙のいくつかの下書きには,この事件にレギーネの父が深く関与していることを示唆する個所が見える.これらの記述から推量されることは,キルケゴールのレギーネの処女性に関する疑いであり,レギーネとその父との間に何か重大な秘密が存在しているという疑念である.

 これはキルケゴールを深い恐れと猜疑の深淵に陥とし込んだ.このキルケゴールの疑惑の内容が事実であったかどうか,ということは必ずしも重要な問題ではない.どちらにしても結果はまったく同じであったであろうから.キルケゴールがこの疑惑を,神の前で自分に負わされた巨大な責め苦と感じ,恐れおののき,スープ皿で泳ぐ蝿のように絶望しながら,なおそれからひと揺るぎも身を引かず,巨人のように耐え,そこから彼の一切の思想的行動を非妥協的に展開していったところに,この事件の重大さ,隠された恩寵の深さが存在している.

 

16.倫理が効力を失う場所

 「本符はいかなる罪をもあがなうものなり.たとえ処女なる母に暴行しようとも」と免罪符に書かれているということを彼は22歳のとき父の口から聞き,大きな衝撃を受けた.2年後に始めてこのときのことを記したノートにはこう書かれている.「うっかり口をすべらせて語った言葉は,人を麻痺させる蛇のような眼つきで,子供達を一種の精神的無能力,悪の王国へと至らしめる機会を与える働きをする.」(「日誌」)

 彼の父は神の呪いから自分もその家族も逃れ得ないと考えていた.(この父の秘密を知ったことが,キルケゴールの内面の闇を底知れぬものにしている.父の事業における成功によってもたらされた莫大な富は,それ自体神の呪いに他ならなかった.)

 宗教的なある段階,つまり高次に地上から乖離した段階にあっては,倫理的なものはもはや場所を持たない.そのことの証明を彼は「おそれとおののき」の中でアブラハムの逸話を借りて執拗に追求している.キルケゴールは確かに恐るべき地点に立っていた.何人もかつてこのような場所に,このように長く踏みとどまったことはなかった.

 彼は神の直前にいた.そして,無限に隔たっていた.そこには白いスベスベした巨大な壁が垂直に立ち塞がっていた.これがキルケゴールの見出した神への入り口―絶対的背理<神の背中>である.彼はそれに触れた.あるいは押したかもしれない.あるいは熱烈に叩いたことすらあっただろう.だが,入り口は現れなかった.

 ここが私達の始めた探求のほぼ終点である.キルケゴールはこの場所にもう一度自分の生身の身体をたずさえて自分の足で来ることはないことを知っている.ここは,春や秋の遠足で来られるようなところではなく,年老いてからもう一度行ってみることのできるような場所でもない.ここに来るための鉄道に乗るためには,何処へ向かっているのかということも,何を燃料として走っているかも,何を見るのかということさえも――何1つ,この鉄道に関する知識を持っていないことが必要なのだ.

「ひとは2度と同じ流れを渡ることはできない.」

 キルケゴールは「おそれとおののき」の末尾にこのヘラクレイトスのコトバを引いて,そのことを確認する.

 

 

  いつまでも――あなたの――もとにいさせて――くだされば――たとえ――小さな戸棚の中に――住まねば――ならないのであっても――わたくしは――たとえ――小さな――戸棚の中に――戸棚の中――戸棚の――いつまでも――

 

 

 さて,私達は再び私達の安楽な寝床に戻って夢のつづきを始めよう.女が私の箱から煙草を1本抜き取るところであったか?それとも私の指先からすばやく吸いさしを奪ったのであったか――?

1983.5. Age Baba

参考文献