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蒼伝


 

 それは、ただ一つのものの為に闘うただ一つのものの物語。

 即ち、愛の為に戦う勇気。

 

 何時とも知れぬ時代。何処とも知れぬ国の話である。

 蒼(ソウ)と言う男の事が街の人々の話題になる時、必ず口にされる事がある。
 悪である、と。
 曰く、物心つく前より天涯孤独である。曰く、言葉よりも先に殺す事を覚えた等々。
 根も葉もない噂でありながら、事実であった。そういう男である。憐憫の対象になるには人を殺しすぎた。
 名前の通り蒼い眼をした男は、ふらりと山から降りて来ては奪い、犯し、殺した。この街を治める豪族は、先代が殺されて以来、恐れて手を出せない。
 只々、悪であった。

 そして今日も蒼は山を降りて行く。奪い、犯し、殺す為に。
 特に罪悪感は無かった。それが悪であると教えてくれる者もいなかったし、それ以外の方法を何も知らなかった。
 ふと、人の気配を感じる。この山は蒼の棲家であり、人は恐れて近寄らない。珍しい事だ。
 見れば、少女が一人。
 薄汚い少女であった。細い体は泥まみれで、靴も履いていない足は傷だらけである。普段は蒼しか通っていない獣道を、躓きながら歩いていた。
 まぁ、いいか。蒼はそう思う。薄汚いとはいえ、女は女。普段通りに犯して殺す事にした。
 己の気配を殺し、道から外れ、森の中を少女の背後に回り、襲い掛かる。
 否、襲い掛かる寸前に少女に気付かれた。
「何をしてるの?」
 あまりに場違いな、のんびりとした言葉に一瞬動きを止めたが、する事に変わりは無い。その場に押し倒す。鋭い葉を持つ下草が己と少女にかすり傷をつけたが、気にする程の事もない。
 この期に及んでも尚、少女は叫び声一つ上げなかった。深い深い色の瞳で蒼を見上げるばかりである。視線が定まっていない。この少女は盲目なのだと蒼は気付いた。
「恐ろしくは無いのか?」
 その光を写さない瞳に気圧されてか、蒼は問うた。しばらくの沈黙の後、少女が洩らす。
「あなたは、真直ぐだから」
 意味がわからない。頭がおかしいのかと思う。であるから自分を恐れないのかと納得しかけたが、それにしてはその少女の瞳は強かった。
「あなたは誰?」
「俺は……蒼だ」
 一瞬の躊躇。何をためらったのか。
「蒼……ああ、ここは貴方の山だったのね」
 街では殺人鬼として恐れられる蒼の名を聞いても、少女は驚きすらしなかった。
「この蒼を恐れないのか」
「色々噂は聞いていたけれど、会ってみたらそんなに恐い人ではないし」
「お前は頭がおかしいのか」
「よく言われる」
 若干の怒りをもって、少女の薄い胸を強く握る。少女は軽く身じろぎしただけで、それ以上の反応はない。
「いいか、これからお前を犯して殺す」
「やめて」
 ようやく蒼の聞きなれた言葉が少女の口から出る。だが、それは恐怖から来るものではなく、明らかに命令口調であった。
 つくづく調子の狂う女である。
「必要もないのに犯す事も殺す事もないわ」
「何故、俺がお前の言う事を聞かなければならない」
「貴方にとって、その方がいいからよ。そこをどいて」
 その言葉に従う理由は無い。無かったがしかし、蒼は立ち上がった。自分の事を恐れない人間というのは蒼にとってほとんど初めてであり、どう対応していいのか解らなかった。
 蒼に続いて少女も立ち上がる。が、慣れぬ山道によろけた。無意識に伸ばした蒼の手が、少女の身体を支える。
「ああ、ありがとう」
「ありがとう?」
 聴いた事のない言葉に首をかしげる蒼。その気配を察した少女が盛大なため息をつく。
「お礼の言葉よ。私にとって嬉しい事をしてくれたから、ありがとう」
「支えただけだ」
「でも、私は嬉しかったわ」
 笑顔。
「……そうか」
蒼の心の中で、何かが折れる。犯す気も殺す気も失せた。街へ降りるのも億劫になった。今日奪わずとも食料の蓄えが底を尽きる事はないだろう。
「待って」
 帰ろうとする蒼を少女が呼び止める。
「蒼は独りでこの山に住んでいるの?」
「それがどうかしたのか」
「だったら、私を匿ってくれない? 悪いようにはしないから」
 固まった。咄嗟にどう返事をしていいものか迷う。だが、この少女に興味があるのは確かだった。
「……お前は頭がおかしいのか」
「よく言われる。あ、私の名前は碧(ヘキ)」
 そう言って、少女はまた笑った。

 そうして、蒼は人を殺さなくなった。

 碧は蒼に様々な事を教えた。それは、人を殺さなくてもいい方法であったり、人から奪わなくてもいい方法であった。
 蒼にとっては産まれて初めての穏やかな日々であった。元々生きる為に殺していたのだから、危険が少ない方がいい。そして、腕の中で眠る碧の温もりは蒼の中にある棘を削ぎ落としていくようであった。
  ただ碧は、自分の事だけは何も話さなかった。蒼もそれ程興味は無かったので、深くは聞かなかった。今、自分の傍らに碧がいれば満足であった。それは、蒼が今まで感じたことのない感情であり、どう表現していいのか解らなかった。

 山の木々が紅く染まってきた頃。
 碧が小さなくしゃみをした。二人が住む小屋は、蒼がろくな知識も無く自作したもので、夏は暑く、冬は寒い。蒼は気にしなかったが、碧には少々こたえるようだった。
「服を取ってくる」
 蒼が立ち上がる。取ってくるとはつまり、街に降りて奪ってくるという事であった。碧と会って以来、街には降りていないが、勘は鈍っていないだろう。
「人から奪うのはだめ」
 鼻をすすりながら碧に止められる。
「普通に……は無理だろうけれど、せめてお金を払って」
「そうか」
 案外素直に応じて、蒼は小屋の隅に無造作に転がっている宝石を手に取った。それも元々は人から略奪したものだったが、碧は苦笑して黙認する。

 街は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。
 何しろ、ここしばらく姿を見せなかった蒼が白昼堂々現れたのである。警護の兵も逃げ失せ、大通りを独りで歩く蒼。姿を消している間に、噂に尾ひれがついているようであった。皆、物陰から息を殺して蒼の一挙手一投足を見守っていた。
 服を商う店を見つけ、中に入る。当然店の者は逃げており、蒼は適当に女物の服をいくつか漁って、代わりに持ってきた宝石を置いて置く。服の価値も宝石の価値も蒼にはわからなかったが、服を買う代金くらいにはなるだろう。
 店を出ようとして、周囲の変化に気付く。蒼が最も慣れ親しんだ感覚の一つ、殺気である。見れば、店の外に一人の男が見える。殺気はこの男のものだけではない。姿が見えないという事は、影からこちらを弓ででも狙っているのか。
「お前が蒼か」
 男が口を開く。実に非友好的な口調であった。
「そうだ」
 いつでも動けるように身体の緊張を解き、応える。
「何故女物の服を奪う」
「お前の知った事か」
「碧という少女、まだ生きているのか」
「……何?」
 唐突に碧の名前を聞いて、蒼の眼が鋭くなった。
「生きているが、どうした」
「殺せ。そうすれば金をくれてやる」
 瞬間。蒼の形相を見て男が一歩後ろに下がった。額に汗が浮かぶ。それは、蒼が人を殺す時にも見せなかった、彼の怒りであった。
「あれは……あの女は生きていてはならぬ女なのだ。やんごとなきお方が戯れに下賎の女に孕ませた娘だ。そのお方は今病に倒れ、事もあろうにその娘に自分の財を全て譲ると言っている」
 恐怖からか、男の口が回る。もう一歩下がった。それに比例するように周囲の殺気の密度が増す。蒼が動けば四方から攻撃が来るであろう。だが、蒼の恐怖や危機感は怒りが打ち消していた。
「聞けばその娘、目も見えぬというではないか。ロクな教育も受けていない、そのような娘が財を継いだとしても、皆が不幸になるだけだ」
「誰が不幸になろうと知った事か」
 殺気も構わず店の外に出る。風の唸る音。蒼は、僅かに頭を後ろにそらす。その空間を矢が通り抜けて行った。驚愕と恐怖に男の顔が歪む。逃げ出す男に追いすがろうとした蒼に、矢の雨が降る。
「ちッ」
 舌打ちをしながら大きく跳んでその雨を避け、男とは別の方向に走り出す。好機と見たか、追撃の矢が飛んでくるが、良くて掠るだけだった。そんなものは気にも止めない。一刻でも早く、碧の顔が見たいと思った。
 街を出て、山を駆け登る。小屋では、碧がうずくまって蒼の帰りを待っていた。寂しそうな表情。蒼の帰りに笑顔を見せたが、蒼のその気配を感じて顔をこわばらせる。
「おかえりなさい。……どうしたの?」
「お前を狙っている連中がいた」
 碧の泣きそうな顔というものを、蒼は初めて見た。
「私の事、聞いた?」
「ああ」
 それだけで、碧の意思は固まったようだった。
「逃げて」
「何故だ」
 碧は蒼の顔に触れ、優しく諭す。細い指が、蒼を記憶に焼き付けるように、ゆっくりと顔を撫でていった。
「ここが蒼の山だって誰でも知ってるから、今度はここに襲いに来るわ」
「だからどうした」
「きっと大勢で私を殺しに来るの」
「だからどうした」
「……蒼まで死んでしまう」
「だからどうした」
「私は!」
 蒼の頭を自分の胸にかき抱く。蒼の顔を、零れ落ちた碧の涙が濡らした。
「私は……蒼に死んでほしくない」
「ならば死なない」
 碧が今まで見た事の無いくらい、それは、とてもとても優しい顔だった。
 一度だけ、細い碧の身体にぎこちなく腕を回す。
「お前が死ぬなと言うならば、俺は死なない。隠れていろ。お前の身を案じていては、全力で戦えない」
 そうして、傍らの山刀を手に取ると、小屋を出て行く。
「蒼っ」
 碧の声にも振り向く事は無かった。何故だか蒼は、今の顔を碧に見られたくなかったのである。
 その表情は、怒りに燃える鬼の形相であった。
 
 

 空が朱に染まる頃。いつもは静かなこの山に、何十人もの人の気配があった。手に手に武器を持ったその集団の殺気に、山の獣達も騒いでいる。

 故に、気付くのが遅れた。

 一人。
 十人程度の組になって周囲を捜索していた集団の、その殿を務めていた男は、自分が何をされたのかも認識できずに、背後から心臓を一突きされて絶命した。

二人。
 後ろにいた男の気配が無くなった事に気付いて振り向く。振り向いただけだった。
 最後に見えたのは迫る血まみれの白刃。

三人。
 声をあげようとして、それは叶わなかった。其処に居たのは悪鬼羅刹の如く。逃げる間もなく首を落とされる。

四人、五人、六人。
 自分達は地獄に迷い込んだのかと錯覚する程の血臭。恐慌に駆られながらも自らの得物を構える。だが、遅い。
 強烈な踏み込みと共に、肘が顔面にめり込む。顔が砕けた。勢いは衰えず、その手に持った刃が別の男に振り下ろされる。袈裟斬りにされた男から吹き上がる血潮。その死角から突き出される攻撃が、もう一人の胸を串刺しにする。

七人、八人、九人、十人。
 一瞬の出来事であった。一瞬で仲間の半数が死体に変わっていた。娘一人を殺すだけの、楽な仕事ではなかったのか。
 誰かが恐怖を叫び声で誤魔化しながらその男に向って斬りつける。否、斬りつけようとした。間合いの内に踏み込んだ男は、刀を振り上げた手を掴み、無防備になった顔に拳を沈めた。力を失った体を、恐るべき腕力でもって振り回し、投げつける。固まっていた二人が仲間の体をぶつけられ、倒れた。その間に一人が斬り捨てられる。起き上がろうとした二人は、絶望と後悔を胸に抱きながら自分達の上で山刀を振り上げる男を見た。

 静寂。

 十の死体の中心に立つ蒼。人を殺したのは何時振りか。
 刹那の回想。だが、ここは戦場だった。
 蒼の左腕を、飛来した矢が貫く。
「くっ」
 迂闊。森の中ならば矢は無いと判断したのが甘かった。男達が持っていた松明にはまだ火が燈っており、射線さえ通っていれば恰好の的である。
 追撃。顔を庇った手に一本。右の太腿に一本。激痛に顔を歪ませながらも森の中に逃げ込む。迫る怒号。先ほどは不意を突いたが、次はそうも行くまい。
 やはり無理か、と思う。もう自分は駄目なのだろうか。泣いていた碧の顔が胸に浮かぶ。
「ああ……駄目だ」
 もう駄目だった。

 その顔を思い浮かべてしまったら、もう駄目だ。
 体に突き刺さった矢をへし折り、強引に引き抜く。歯を食いしばって立ち上がる。動くたびに激痛が走るが、それだけだ。
 あの顔を思い浮かべてしまったら、もう諦める事などできなかった。諦めるには女が良すぎた。蒼は天国や地獄などと言うものは信じてはいなかったが、死んだらもう二度と碧と会えなくなるであろう事が、この男に恐怖を覚えさせた。

 ここで安易に死んで碧に会えなくなるくらいならば、手を失おうが足を失おうが、戦って、戦って、戦って、そして生きて碧を抱く方がましだった。

 咆哮!

 魂を振り絞るその声に向けて、追っ手の矢が放たれる。多くは森の木々に突き刺さったが、幾本かが蒼の腕を、脚を貫く。
 だが、だからどうした。
 敵の真っ只中に踊り出た蒼が。あらん限りの力で刀を振るう。たちまち吹き上がる血風。殺到する刃を腕で払う。致命傷ではない、それだけで充分。返す刃が命を散らす。恐るべき気迫に対する一瞬の躊躇。遅い。拳が敵を抉る。迫る刃。弾いた山刀が折れる。だからどうした。半分程の長さになった得物を敵に投げつけ、また一人。空いた右手が顔面を砕き、得物を奪った。恐慌。一歩引いた敵に二歩迫り、切り裂く。背後から斬りつけられる。浅い。俺はまだ生きている。斬る。突く。薙ぐ。払う。殴る。

 唯一つのものの為に。
 
 

「何が起きている……」
 山の麓に構えた陣で、男は報告を聞いて慄然とした。街で会った、あのただ一人の男に一体何人の者が殺されたのか。
 背後に人の気配。「まさか」と思った時には喉に刃が突きつけられていた。
「蒼……」
 泥にまみれ、血にまみれた男。左腕は動かないのか、だらりと下がったまま。
「お前が頭か。ならば、お前を殺してお終いにする」
 だが、その声には微塵の弱さも痛みも感じられない。
「な、何故そこまで、あの女の為に」
「俺には碧が必要だ」
「女など、幾らでも代わりが居よう。たかが女の為にお前のその姿は何だ」
「碧の代わりなど居ない。俺がどうなろうと構わぬ。終わりだ」
 刃を横に引く。夥しい血飛沫を上げて、それで本当にお終いだった。上官が殺されては、最早刃向かう者も居ない。逃げる者は逃げるに任せ、蒼はまた山を登る。
 気付けばもう朝だった。
 紫に染まる空。傷ついた体を労わるでもなく、黙々と山を登る。

 そして。

 そこに立っていた少女を見て。

 ただ一言、彼女の名前を呼んだ。

「蒼!」
 見えぬ目に涙をため、慣れたとはいえ山道を躓きながら、躓きながら走ってくる碧を、蒼は右腕で抱きしめた。
「蒼……蒼……」
「終わった。もう心配ない」

 ああ、これが幸せというものなのだろうか。

 腕の中の少女の温もりを感じながら、ぼんやりとそんな事を考える。
 まだ泣いている碧を安心させようと、何か声をかけようとするが、見つからない。

 そうだ。

 思い至ったそれは、少女がここに生きていてくれた事への感謝であり、碧が蒼に教えた、初めての言葉であった。

「ありがとう」 


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