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甘い生活



 久しぶりに凪の家にいくと、綺が住んでいた。
 びっくりした。なんとか住むところを見つけた、と電話で聞いてはいたが、それがまさか凪の家とは。
「親切な人に助けてもらった」と言われた瞬間に凪のことなどすっぱりと可能性から外していた。
――そういうわけで現在、谷口正樹は凪の家に入り浸っている。
 正確には住み着いていた。
 なにしろ身の回りのものはすべてこちらに持ってきていて、谷口家に帰る必要などないのだ。
 ここから学校に通い、学校からここに帰る。
 綺は深陽を退学してしまったが、そんなことはもうどうでもいい。
 なにしろ、家に帰ればそこに綺がいるのだ。
 世間ではこういうのを同棲というのではないか(注:正樹君の頭の中には凪のことなど微塵も残っていません)。
 その上綺は、今は料理学校に通っているという。それは、つまり花嫁修行というやつではないか。
 正樹は顔がゆるむのを抑えられない。
 学校帰りはいつもそんなふうににやにやしている。
 帰宅途中のOLがまるで変質者でも見るかのような目で彼を避けて通るが、そんなものは眼中にない。何回か警官に職務質問されたりもしたが、安い代償だ。
 家に帰れば綺がいる。
「おかえりなさい、あ・な・たっ」
(妄想中)
「うん、ただいま、綺」
「先におふろにする?それとも夕食?」
「綺がいいかな?」
「もうっ、エッチなんだからぁ」
 なんちゃってなんちゃってなんちゃって。そんな妄想に浸っていると、気が付けば家についている。
 いつのまにか靴が片方無くなっていた、なんてこともあった。
 危険な兆候ではあるが、本人に自覚はない。
「ただいま、綺
」家の持ち主をまったく無視した挨拶に答えたのは、綺ではなかった。
「……今日も来たのか、正樹」
 あからさまにがっかりしている正樹に、それに負けない位疲れた表情で言った凪の言葉など耳に入らず、
「綺は?」
「……。飯作ってる」
 言われるなり凪の目にも止まらないスピードで台所に走っていく正樹。
 せめて靴を脱げ、という台詞は四回目であきらめた。似合わないため息をつきながら、凪ははやくも二人の笑い声が聞こえる台所を見る。
 綺の料理は確かにうまい。だが、調味料が甘すぎるのだ。
 霧間家の食卓はだいたいいつもこの三人だ。
 時々羽原健太郎が加わることもあるが、今日はいない。凪の前に綺が座り、綺の横に正樹が陣取っている。
 いつもこのポジションで、いつも凪はおいてけぼりだった。
 正樹が、まるでそれを食わなければ死ぬ、というような勢いで目の前にある肉じゃがを貪り、「うまい」を連発している。
 もっとも凪は、綺の料理に対するそれ以外の正樹の評価を聞いたことがなかったが。
「そうだ」
 綺が思い出したようにほどよく煮えたじゃがいもを箸にとり、ふー、ふー、と息を吹きかける。
「はい正樹、あーん」
 ぼふ、と音がして(確かに凪には聞こえた)、正樹の顔がみるみる紅潮する。
 そのまま硬直する正樹をみて、綺がたちまち泣きそうな顔になった。
「こうすれば喜んでくれるって、羽原さんが言ってたけど、迷惑だった?」
 改造を失敗した扇風機のように、がっくんがっくん首を振る正樹。
 ありがとう、羽原さん。おめでとう、俺。
 涙を目に貯めたりしつつ、じゃがいもを頬張る。
「……その辺にしとけ、綺」
 幸せそうな綺に悪いと思いつつ(正樹はどうでもいい)、こめかみをぴくぴく痙攣させながら忠告する凪。
「そーゆーのは、二人っきりの時にするもんだ」
 寸前のところで自分を抑えている凪に、綺はにこやかに致命的なことを言ってしまった。
「凪も羽原さんにやってあげればいいのに。きっと喜びますよ」
「お・お・き・な・お・せ・わ・じゃーっ!!」
 必殺の気合いとともに放たれた正拳突きは正樹を壁まで吹き飛ばし、殺気を巻き散らしつつ凪は自室にこもってしまった。
「照れちゃって、凪ったらかわいい」
「……綺、言うことはそれだけかい?」
 凪の部屋からは、パソコンのキーボード叩く音が夜中まで絶えなかったという。正樹の寮生活が決まったのはその次の日のことだった。



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