第八話 【ロムロ坂】心の痛み


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……。…ふぅ」

久しぶりに、走った。

運動が得意な方じゃないソフィアだけど、運動が嫌いなわけじゃない。

勝負事、一番二番びりっけつがある競争は嫌いだけど。

春の日差しの中や、心地よい空間の下で、“駆け出したくなる気持ち”には、正直でありたいと思う。

でも、人目があるところで走るのはやっぱり恥ずかしい。

活動的な服でも着ていればまだしも、一目で貴族とわかる服装で走り続ければ好奇の視線もやってくる。

久しぶりの全力疾走で、止まるタイミングを逃してかなり走ってしまっていた。

ようやく止まれたのは、人通りがいくらか見えたからだった。

──少しだけど、“走ることが大好き”って人の気持ちがわかるような気がした。

人目がなかったら、まだ&もっと、走っていたかもしれない。

ゆっくりと歩きながら、呼吸を整える。

「ふぅ…」

深呼吸をする。

ジョアンは追ってこない。

玄関を出てから猛ダッシュした。

ジョアンの性格からしてやっぱり一緒に行こうと思うはず…。

たぶん、走ったのは正解だと思う。

「ジョアン、怒ったかな…」

一応、スジは通せたと思うのだ。

 

──ぶんぶんっ

 

「考えないっ」

小さな声で、でも強く、ソフィアは自分に言い聞かせる。

──遠慮しがちで、相手の気持ちばかり気遣って、そんな自分、イヤなんだから…。

今日は快晴で、涼しくて、空はとても高くて、空気が透き通っていて…

どくんどくんと弾む鼓動と、荒い呼吸はおさまっていなかったけれど。

雲一つない青空が、すがすがしい。

柔らかい日差しが、心地よい。

この前より、気持ち良く受け入れられる空のめぐみ。

「もう少しっ!」

逃げ出すような全力疾走から、残ったジョアンのことから、考えることをうち消すように、ソフィアはまた走り始めた。

──舞台の緊張に比べたらっ!!

好奇の視線なんてものは、そうソフィアが感じればそうなるだけで。

走ることが、体を動かすことが、今のソフィアには心地良かった。

向かうは、ゴールは、ロムロ坂。

 

 

久しぶりの長距離走。

ソフィアがロムロ坂へついた頃には、走り疲れてへとへとになっていた。

ゆっくりと歩きながら呼吸を整えていく。

 

──とくん

 

走り続けて高鳴った鼓動と違う、ちくりとする痛い胸の鼓動がした。

学園時代の3年間、何度あの人とここで待ち合わせただろうか。

「あ、ダメ、来ないで…」

誰にも聞こえないような小さな声でソフィアは言う。

それは、ソフィアの胸の中にあるもの。

 

あの人と待ち合わせた場所、そんなところに立つから…。

ここで、あの人を待っていた。

ここで、あの人が待っていた。

ちょうど時間通りに、二人で待ち合わせたこともあった。

走って走って、イヤな気持ちからは抜け出せていたのに。

 

──ぶんぶんっ

 

締め付けられそうな胸の痛みが始まりそうなのを振り払う。

「…情けないな」

声に出して言ってみる。

 

──とくん

 

止まらない。

ちょっぴり泣きそうな顔で、ソフィアは胸を押さえた。

もう、心地良い痛みではない。

辛い気持ちの方が大きくて。

もういない人への想いが、こんなにも、痛い。

 

「ロベリンゲ…さん? あの、大丈夫ですか?」

しゃがみこんでしまいそうになったソフィアに、心配そうな声がかけられた。

昔の、姓で。

「どうなさいました? どこか、痛むのですか?」

気遣う、聞き覚えのある、声…。

あの時、返事が出来ない私に一生懸命に話しかけてくれた、声…。

「あ…」

ゆっくりと顔をあげると、少し安堵したような私服の看護婦さんの姿があった。

優しい顔でソフィアの顔をのぞき込む。。

「大丈夫ですか?」

「あ、はい…」

「どこが痛みますか? 胸ですか…?」

瞳孔を見ているのだろうか、彼女はソフィアの目を見て、手を取って脈に人差し指を押し当てて。

「あ、あの、大丈夫、です。さっきいきなり走ったから、ちょっと…」

医学の心得がある人とはいえ、ロムロ坂で若い女性二人がこんな風に近寄っていれば、どう見られるかわからない。

それともそう思うのは失礼だろうか?

真剣に心配しているこの女性に…。

彼女は“本当に大丈夫?”という顔をしてから、ソフィアからはなれた。

「急に胸を押さえてしゃがみ込んでしまわれたから、驚きました」

「す、すみません…、驚かせてしまって…」

「ダメですよ、きちんと準備運動しないと」

彼女はソフィアの言を信じることにしたようだ。

すっと彼女は立ち上がると、しゃがんだままのソフィアに手を伸ばす。

「あ…」

「──やっぱりまだどこか痛むのですか?」

一瞬躊躇したソフィアに、彼女はまた心配そうな顔をした。

「い、いえ…」

ソフィアは彼女の手を借りて立ち上がった。

「すみません、看護婦さん」

「本当に、大丈夫ですね?」

確認するように、彼女は言う。

「本当に、大丈夫です」

「絶対に、大丈夫ですね?」

念には念をという感じに彼女が念を押す。

「絶対に、大丈夫です。もう、しっかり」

ソフィアは、彼女を安心させるように、笑顔を作った。

「なら…、良いのですが…」

「ご心配かけました。あと、心配してくれて、ありがとうございました」

素直に、ソフィアは彼女にお礼をした。

ちょこんと、お辞儀もする。

しかし、彼女はまだ心配そうだった…。

「そうだ、一緒に喫茶店でお茶にしませんか?」

「え…?」

「お姉さんがご馳走しちゃう♪」

──断る理由はないのよ、ソフィア。

ソフィアの中で、そんな声が即答した。

断ったら、この人はまた心配そうな顔をする。

“この人の優しさは、嘘じゃない”

それは、入院していた時の介護で十分わかってる。

お世話になった看護婦さんがそうしたいと望んでいることを、自分もイヤじゃないと思うことを拒む必要なんか、ない。

今まで、いろんなことに遠慮してしまっていた。

ご馳走してもらったり、誰かに助けて貰ったり、それを、相手に悪いと思っちゃいけない。

相手に感謝を、送らないと…。

──そうよ、わかっているじゃない。

差し伸べられた手を、温かい手は、もう拒まないで…。

「あの、私なんかが…、お茶の相手でよろしいのでしたら」

それでも、遠慮がちに言ってしまう。

ジョアンとの玄関でのやりとりで、今日の精神力は使い果たしてしまったのかもしれない。

でも彼女は、ぱぁっと嬉しそうな顔をしてくれた。

「それじゃ、行きましょう」

「は、はい」

この前、すっと手を取られたことを思い出して、ソフィアはぼっと顔が赤くなった。

「? どうか、しましたか?」

「い、いえ、何でもないです」

レズリーみたく、いきなり手を取るようなフレンドシップなことはなかったけれど。

ちょっとソフィアの中で期待したものがあったのかもしれない。
 

──慣れてないから…
 

また、そんな自分の中の声を感じた。苦笑いが入ったような、声。

その通りだと、ソフィアは思う。

「コーヒーと紅茶、どちらが好きですか?」

隣を歩く彼女がそう聞いてきた。

「あ、紅茶の方が、好きです」

「気が合いますね、私も紅茶党です。でも、女の子だったらみんなそうでしょうか」

「あ、いいえ。私のお友達に、コーヒーをブラックで飲む人がいます♪」

「あら。今度、ミルクくらいは入れなさいって言ってあげて」

「あ、言ってみます」

そんな会話をしながら、二人は喫茶店に歩いていった。


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