時と風の果てる場所 〜本編〜


次第に家の外から聞こえてくるようになった街の喧騒と、階下からの話し声に、彼は目を覚ました。億劫なのかベッドの中から手を伸ばし、枕下にある腕時計を探し当てる。

明るいとは感じていたが、事実普段よりも起きるのが遅い。

(全く…春眠暁を覚えずと言うけど、この時期でも暁は拝めそうにないな…)

ぼんやりとした頭でそんなことを考えながら、彼───甲斐裕也は緩慢な動作で起き上がった。降り立った先の、ひんやりと冷たいフローリングの床が心地よい。

薄く青味がかった部屋の壁は、朝の光を受けて黄色く滲んで見える。

歩み寄って窓を開けると、朝露の匂いが鼻孔をくすぐった。その朝の香りを部屋の中に入れ、カイは大きく深呼吸をする。

白く乾いた空気で肺を満たし、彼は知らず知らずのうちに小さく呟いていた。誰に語り掛けるでも、自分に言い聞かせるでもなく。

「戻ってきた…か」

永遠に続くかのようなあの闇は姿を散らし、今は跡形もありはしない。命の息吹だけが今という時間を感じさせてくれる…そんな朝。

──やがて闇は晴れ、朝が訪れる──そう信じていた。

 

* * *

 

「ありがとうございました〜♪」

背中に店員の声を聞いて、カイはキャラウェイ通りに出た。

「さてと…」

パンの袋を持ちなおすと、

「どこで暇を潰そうかな」

トルキア半島南の玄関口は、夏の光の鮮やかさに酔いしれていた。

旧トルキア帝国領内、ドルファン王国。

かつてカイが傭兵として雇われ、英雄と呼ばれても差し支えないほどの働きをした彼を、最終的に放逐した国家である。

外国人排斥令が撤廃されたのはごく最近のことだ。その事態の裏には、保守派と改革派の激しい応酬があったとのことだが、カイは詳しいことを良く知らなかった。正直なところ興味がない。

あの後、カイは傭兵稼業を続けながら各国を転々とした。

生きていれば必ずドルファンに戻ってこられるはず───その想いを糧に死地を生き抜いてきた。金銭を目的とした今までとは違い、生きる事を目的として。

彼の名声を聞きつけ、例外的に騎士の地位を用意してくれた国もあったが、カイはそれらの申し出を全て断ってきた。

そして今ここにいる。自虐的な感傷に浸りたくなるような平穏の中に。

街は活気盛んに笑声で溢れかえっていた。

にこやかに談笑しながら街道を下りて行く親子連れ。ベンチで本を読む学生。買い物篭を二人で抱え持っている男女。景気の良い声をあげて客寄せに努める商人たち。

少女たちは、店の前に並ぶ宝石に目を奪われ、その値段を見て落胆する。

何とも平和な風景だ。

木々の奏でるざわめきに身を委ねながら、カイはベンチに腰掛けた。

初夏特有の、心地良い風が吹いてくる。太陽は真っ白い輝きを強め、木の葉をすり抜けた光が大地を明るく染めた。

彼はその強い光に眉根を寄せるが、それでも馬鹿みたいに澄み渡った空を見上げる。

(平凡な日常…か)

どうしようもないくらい空は青かった。何もない空、変哲のない空。

(非日常が日常にとって代わる…それがどんなに苦痛なのか、この人たちに知る由もないんだろうな)

脳裏に閃くあの瞬間の映像が、静かに疼く胸の痛みを蘇らせる。

アンが『消えた』と同時に失った真実は、未だに心の迷宮の中を漂っていた。

それまでの彼は自らの価値観を信じ、それだけを拠り所に生き抜いてきた。己の義のために苦渋の選択を強いられたことも少なくはない。信念があったからこそ傭兵などという穢れた職に身をつやすことも出来たのだ。

しかし今、目に見えるものすらも曖昧なこの世界で、何を信じて生きていけば良いのか。

あの時から三年と言う月日が流れた。それでも答えは依然として闇の中である。

澄んだ蒼天もこの胸の苦しみを消してくれはしない──分かっていることだったが。

(ん?)

と、カイの肩に誰かよりかかる感触があった。

ふと横を見遣ると、買い物帰りとおぼしき母子が隣に座っている。その女の子がカイにもたれかかって寝息を立てていた。

「あら、済みません!」

母親が慌てて娘を起こそうとしたが、

「いいえ、構いませんよ。寝かせてあげてください」

カイは優しくそう言って止めた。彼女はほっと安堵の息をつくと軽くお辞儀をする。

「本当に…済みません」

「多分、買い物で疲れてしまったんでしょうね。可愛い寝顔だ」

なるほど…身の回りにこの年頃の子供はいなかったが、この少女を見れば子煩悩という言葉の意味にも頷ける。小さな身体に抑え切れないほどの命の息吹を抱えるその姿は、確かに人を惹きつけるものがあるのだろう。

ふと視線を感じて顔を上げると、母親がきょとんとした表情でこちらを見ていた。

「意外ですか?」

カイは口許を微かに歪めて苦笑する。

「東洋人でも、西洋の方の子供を可愛らしいと思いますよ。なんて言っても、未来を担う、大きな可能性ですから」

「いえ!違うんです」

その言葉を受けて、彼女は大きく首を振った。

「ただ外国の、特に東洋出身の方は珍しいもので。気分を害されたのでしたら謝りますわ」

「ああ!そうですね…この国は最近まで外国人の受け入れを拒みつづけていましたものね。あと、どうぞ気になさらずに。西欧を旅していれば日常茶飯事ですので」

外国人に対して嫌な顔をする国は決してドルファンだけではない。むしろ、歓迎の意を示している国のほうが稀である。

排他的──その一言で片付けてしまいがちだが、思想云々より『利害』と『事情』が閉鎖的な国家を作っているケースのほうが多い。外国人が及ぼす影響は、決してプラスとは言えないのだ。そこの所は理解しているつもりだ。

「今、お幾つですか?」

「この子ですか?娘は今年で三歳になります」

愛しげに少女の顔を見つめる母親につられ、カイも視線を移す。

風に揺れる栗色の髪がを母親は優しく撫でる──そんな穏やかな風景。

その一方、出来たてのパン生地のような頬っぺたを「引っ張ってみたい〜!」──そんな衝動に駆られているカイの姿があった。

「さ、三歳ですか。ちょうど可愛い頃ですね」

「だんだん憎らしくなって困っていますわ。それでも勿論、目に入れても痛くないほど…と言ったら大袈裟ですけど」

「自慢の愛娘」

「ふふっ、そうなるでしょうか」

「羨ましいですね。まったく、私も子供が欲しいですよ」

カイは小さく微笑んだ(衝動を振り切ることには成功したらしい)

「早いものです。娘が生まれてから、もう三度目の春を迎えるなんて」

「三年と言うと、ちょうどヴァルファとの戦いが終わった頃ですね」

「もう、そんなになるのですか。つい昨日のことのようで、余り実感は無いのだけれども」

「三年なんていう時間は短い、ですか?」

「ええ」母親は頷くと、

「この子が日々成長していくのを見ては、一喜一憂する毎日。楽しくて時が経つのも忘れてしまうほどですわ」

カイには子を持った経験がないので、子供の成長を見守る親の気持ちはよく分からないが、彼女にこれだけの輝きを与えるものがそこにはあるのだろう。

「貴方にとってはどうでしたか?」

「私には───」途端にカイの表情が暗くなる。

ひどく虚ろで、底の見えない洞窟に響いたかのような声色で、

「気が遠くなるような長い時間でした。それこそ永遠に続くかと思われるほどに…」

そこには歳相応の若さはなく、人生に疲れた老人のように疲弊した雰囲気があった。その様子に少女の母親は言葉を失う。

「…この国も暫く見ないうちに変わりましたね」

カイは視線を巡らせてそう呟いた。

「昔、この国にいらしたことがあるのですか?」

「三年前までは私もドルファンに住んでいたんですよ。もっとも、戦争のために雇われた傭兵として、ですが」

「まぁ…!」

よほど親しくもないのなら分からないほど微かに表情を歪めて、続ける。

「外国人排斥令で放逐されるまでの三年間です。ここで暮らしていたのと同じだけの月日が、あれから流れたんですね」

先程まで辺りを支配していた人の流れが、駒送りのように…ゆっくりと動いていくのをカイは感じた。街のざわめきが、その光景からかけ離れたかのように浮いて聞こえる。

映画を見ているような錯覚と言うのが適切だろうか。

その場にいて、その場にいない。第三者の視点から日常を眺めている自分。(目前の平穏な日常の中に自分はいないんだ)ということを感じる瞬間である。

気付くと、彼の肩に凭れかかっていた少女が呻き声を漏らしていた。

「あら」

「どうやら起こしてしまったようです」

母親は、寝ぼけ眼でふらふらと揺れる少女を抱きとめた。

「起きちゃった?ククル」

「うん…」そう答えながらも、しきりに眼を擦っている。

「でも、まだ眠い〜」

「もう少しで買い物が終わるから、それまで我慢してね」

「まだあるの?疲れた〜、それにお腹空いた〜」

「もう少し買い揃えてなくちゃならものもあるのよ。家に帰ったら、お昼ご飯にしましょう」

「え〜っ」

「お嬢ちゃん、食べるかい?」カイは持っていたパンを袋ごと差し出した。

「止めてください、悪いですわ」

「良いんですよ。少し買いすぎたかなと思っていましたから」

しかし、少女は差し出された餌に食いつくでもなく、感謝の言葉を言うでもなく、ただじっとカイの顔を見つめる。一生懸命何かを探ろうとしているようにも見えた。

しばしの沈黙のあと、

「お母さん…このお兄ちゃん、誰?」

彼女の母親は目を瞬かせると、カイと顔を見合わせて失笑した。

それはそうだ。目を覚ましてみたら、見知らぬ青年が会話に参加している──そんな状況なら当然の反応である。

カイは何と説明していいやらと頭を掻いていたが、そこは母親が代わってくれた。

「お兄ちゃんはね、この国を守ってくれた人なのよ」

「ふ〜ん」

しばらく思案顔でカイを見つめていたが、ぱっと表情を明るくすると、

「ねぇ!じゃあ偉い人なんだ!」

きらきらした瞳をカイに向けて来る。

「ね、偉い人なんでしょ?」

カイは複雑な心境───驚きと喜びの混ざった表情で母親を見遣った。この国での傭兵の立場を配慮したからこそ、彼は助け舟を出して欲しかった。

しかし彼女は、半ば苦笑するような形でその遣り取りを見ているだけ。

カイはいも言われぬ不安な感覚に襲われた。

「お兄ちゃんも困っているでしょ、いいかげんになさい」

ようやく母親が少女をたしなめると、彼女は少し頬を膨れさせた。が、すぐに笑顔になってベンチから飛び降りる。

「それでは失礼しますわ。行きましょう、ククル」

「うん!ばいば〜い!」

無邪気に手を振って遠ざかって行く少女に、こちらも手を振って応える…表面上は。

忘れてしまったのだろうか?

この国で傭兵の犯した幾多の犯罪を。強盗、恐喝、婦女暴行──外国人傭兵の起こす、ありとあらゆる類の犯罪がかつて国民の生活を脅かした。

傭兵といっても、その大半がゴロツキである。カイのように礼儀正しく、分別をわきまえている人間のほうが珍しい。

当時ドルファンの人々は、外国人傭兵というだけでよく毛嫌いしたものだった。しかし時間が経って、今となってしまえば何も一般人と変わることのない扱いをしている。

元来、あの母親が傭兵に対して偏見を持っていなかったということも考えられたが、かつての『恐怖』が彼女からぽっかりと欠如しているのを、カイは肌で感じ取っていた。

何かに流されてしまった…そんな感じの欠落の仕方。

その正体をカイはよく知っている、だからこそ堪え難かった。

肌の裏が粟立つような感覚を振り払い、立ち上がる。『それ』が絶対的なものではないと祈るような気持ちで。

 

* * *

 

風が泣いている

静かに風がわたしの上を、海の上を滑っていく

引いては寄せる藍色のうねりは、無限に続く海原を彩り上げていた

全てを包み込む海…全ての原初である海

…全てを奪い去っていく海─――わたしが漂う場所…

わたしにとって、海は回帰すべき故郷だった

いつからだろう…わたしがそれ以外の安らぎを求め始めたのは

何もかも波が流してくれればいいというのに

心の痛みは離れずに

わたしは海で、海は私の一部だった

その二つに境界はなくて

わたしにはもう何もなくて

ただあの人への想いを歌っていたけれど

わたしの声は届かない…あの人の元には届かない…

 

* * *

 

太陽は大地を焼き、陽炎が視界を妨げ、屈折し、歪んだ世界が展開していた。

暑くなってきやがった…と胸中で毒づきながらカイは歩く。

向かう先はかつての住まいであった、傭兵に宛がわれる兵舎である。

兵舎はドルファン港と同じシーエアー地区にあるため、前日入国した際に見ておけばよかったのだが、船が着いたときにはもう既に日が暮れていて、のんびりと眺めに行く時間はなかった。

そこにも様々な思い出がある。破裂してしまうほどチョコが突っ込まれた郵便受け、硬くて寝心地の悪いベッド、友人と語り合ったあのテーブル、彼女が訪れるたびに叩かれた木製の扉───全てが懐かしい。が、

「…済みません、ここにあった兵舎は…」

「兵舎?ああ!」

訊ねられた青年はそういうものもあったな〜、程度のリアクションをする。

「外国人排斥例が施行された直後に取り壊されてね、その後にこの建物が出来たんだ」

何故だか妙に打ちのめされたかのような感覚が、カイの胸のうちに広がった。

「そう、か…どうも有り難う」

見上げて見れば、全く見知らぬ建物がそびえたっていた。古臭い木製の兵舎ではなく、近代的な煉瓦造りの建造物である。

不必要な物をすぐさま撤去していく。これほど理に適った行動もない。だが、理屈通りに事を理解できるほど彼は割り切れていなかった。

カイは小さく溜め息をつくと踵を返す。

想い出の場所は何処もかしこも様変わりを見せていた。余りに昔と違いすぎて、別の国に迷い込んだのではないかという錯覚に陥る。

だが仕方のないことなのかもしれない。空白の時間がそれだけ長かったと言うことだろう。

二度目の溜め息をついたとき、

(おや?)

向こうから二人の人影が歩いてくる。一人は金髪の長身の女性、もう一人はピンク色の頭髪をリボンで結った、少女らしさの抜けない女性だ。

カイはその女たちに見覚えがあった。

(レズリー・ロピカーナとロリィ・コールウェル…)

傭兵時代、ちょっとした事で知り合いになった少女たちである。親しい間柄──というほどではなかったが、道で出会えば立ち話を交わすぐらいの関係ではあった。

とにかく懐かしい見知った顔が現れたので、カイはほっと胸を撫で下ろした。正直なところ、気が滅入っていたのだ。

声を掛けようと手を挙げかけたところで、レズリーの視線がカイに止まり───そして、そのまま滑った。

「…!」

何も言うことも出来ず、カイは思わず立ち止まる。

カイを見据えた眼…それは他人を見る眼だった。風景の中に紛れ込んでしまう、空気と同じような存在を見る眼。

そのまま二人とすれ違う。その間には塞ぐことのできない大きな溝があった。

カイはゆっくりと歩き出す。レズリーとロリィとの距離も次第次第に離れて行く。もう決して振りかえることがないことは分かり切っていた。だからひたすらに歩く。

海岸のほうへ歩き去るカイの漆黒の瞳が、何を映していたのか。それは神すら及ぶ所ではなかったのかもしれない。

 

* * *

 

「時は動き始めた」

朗々とした声が鼓膜を叩く。

「判っています…」

「あの青年はじきにここを訪れる。始まりはいつだって唐突で、それでいて緩やかだ」

私と同じように岬から海を臨む彼を、横目で見遣る。

「果たして君の思い通りになるか?」

「さぁ、どうでしょうか?」彼は多少拍子抜けしたように眉をひそめる。

「随分とあっさりしているな」

「冷淡な奴…そう思いました?」

「いいや」おどけるように肩を竦めた。

「君は正しいんだろうさ、余計な情が混じると判断を誤るからな。それに」

「それに?」

「三年もの間、ここで待ち続けている女性に言う台詞ではない」

私を『女性』と表現したことは、彼なりのユーモアだったのだろうか。まぁそんなことはどうでも良い。

例えそうだとしても無視を決め込んでいる。

ただ、その時間の重さを再確認するように私は反芻する。

「三年…」

「必然とは言いたくないが、又これも運命だったのだろうな」

(運命…嫌いな言葉)

胸中で呟くと、私は目を瞑った。運命の紡ぎ手である私たちが、運命を嫌っているなどと知ったなら、『人』はどう思うのだろうか。

蔑むだろうか?それとも笑うだろうか?

(それでもあの二人には怒って欲しい…この運命に、私たちに対して)

ロングコートをはためかせて踵を返すのが気配で分かる。目を開けると、

「もう行くのですか?」

「ああ、準備は早いに越したことはない」

靴が硬い音を立てて地面を叩き、彼は紺碧の空に身を滑り込ませる。

「君はどうする?」

「…私はもう少しここに居るつもりです」

彼は暫く私に視線を巡らしていたが、溜め息をつくと首を小さく振った。

「そうかい」

去り際に小さな呟きを残してその姿は宙に消えた。風が吹いて、言葉の余韻は海の彼方へと運び去られていく。

大きく息をつくと、私は岬の先から漠々と続く海原を眺める。

目に映るものは延々と繰り返される海の営み、他には何もない。

(昔あったもの)

以前ここで遥かな空を見上げた青年…胸を打つ、人魚(ローレライ)の歌声を持つ少女───すべて失われてしまった。

(今はそれが存在したことすら確かめられなくなってしまった)

しかし聞こえるはずのない──それでいて聞こえる彼女の歌が、静かに悲恋の顛末を語る。

私の心を苛む。

(いつか届くのだろうか?彼女の慟哭は…絶望と悲哀に彩られた、この歌声は…)

青年は気付くだろうか?すべてが自分へ向けられた祈りであるということを…。

 

* * *

 

終りなく繰り返されていく人々の営みが、街頭の明りとなって夜空を照らす。人の鎖によって絡めとられた暗闇の蠢きが頬を凪いでいき、見上げる者の心を粟立たせた。

しかし、ここに住む人間にとってはどうでもいい些細なことだ。

夜空を見上げることを忘れた彼らに、そのことがどう関係してくるというのだろうか。止むことを知らない都会の喧騒が、ここから静寂と星の輝きを奪っていったとしても、人々は何も感じることはないだろう───それが当然のことのように。

カイは海岸で佇む。既にこうしてから四刻ほどの時間が流れている。

「この海も随分変わったんだな」抑揚のない声で呟いた。

強く風が吹き付け、乾いた音を立てて紙屑が砂浜を滑っていくが、彼が耳を傾けていることはないだろう。

風はいつでも吹いている。そんな約束事に彼は興味が無いのだろう、ただ繰り返すだけでいい習慣に余計な感慨は必要ないと、瞳が語っていた。

(俺はこの国に何をしに来たんだろう…)

カイは、ドルファンに来れば自分の中で何かが変わると思っていた。『失ったもの』を取り戻せると思っていた。

だが、今ではどうだろう。かつての故郷(?)に抱くのはもはや懐古の念ではない。胸のうちに残っているのはやるせない虚しさだけだった。

アンと一緒に時を過ごしたドルファンは、既に死んでしまったのかもしれない───そんな考えが脳裏を過る。

「三年ぶり、だね」

と、唐突に男の声が背後からかけられた。

はっとして振り向くと、そこには一人の男が立っている。焦点が合っていない、どこか茫とした瞳がカイに向けられていた。

「…誰だ?」

「そう構えないでくれないか、甲斐裕也君」

若干の間の後、カイは半身を反らして構える。潮風に混じって、鉄───血の臭いがあたりにたち込めたのは気のせいか。

「なぜ俺の名前を知っている…」

「君の名を知らない者はこの国にはいなかったはずだが。違うかい?私は知っているよ…君のことも、この海岸で行方不明になったアンと呼ばれる少女のことも」

一瞬剣の柄に手をかけたが、何故かそのまま踏みとどまった。

別にあの日の光景を見ていた人間がいたとしても不思議はない、カイの名前は一時期国中に広まった、そしてその人間が今日彼の姿を見止めた。そんな偶然がたまたま重なっただけだろう…そう思い込むことにした。

だが、それだけではない。この男の持つ独特の雰囲気───そこに秘められた何か強い力に、カイは抗いがたい何物かを感じ取ってしまったのだ。

「どうだい?このドルファンの大地を再び踏んだ感想は」

一言一言選ぶようにゆっくりと口を開く。

「…変わってしまったな、というのが率直な感想だな」

「確かに。ドルファン城の改築もあったし、港周辺もかなり変わった」

無表情で答えるカイ。男はそれに鼻白むことなく、

「君にとっては意外だったかい」

「いいや、三年という月日が流れた。色々なことが様変わりしていて当然だ」

「そうだな」彼は鷹揚に頷く。

「その三年という歳月を経て、君はこの海辺に立っているわけだ。ここで消えてしまった彼女のことを想って」

カイは視線を海原の上に滑らせた。波のうねりは、馬鹿の一つ覚えのように淡々と繰り返される。普段なら別に気にもならない風景が、妙に癪に障った。

この海が二人の出会いを、それと同じく別れをもたらしたからであろうか。三年前から続く苛立ちがカイの心を縛り付ける。

その姿を見て、

「実に無意味なことだとは思わないか?」

男は口調をがらりと変えると、彼を正面に見据えた。優しげだった双眸は挑戦的な色をたたえ、茫洋とした雰囲気は身を潜め、今は張り詰めた空気をまとう。

カイはその変貌振りに内心戦慄しながら、視線を鋭くして向き直った。

「…何だと?」

「『失われた』ものが以前本当に存在していたかなんて、誰が断言できるんだろうね」

重大な判決を言い渡すかのように彼は言う。

その言葉に触発されて、カイの心臓が大きく跳ねた。呼吸するのが困難になるほど血管が脈打つ。

「何かを失うということは、今まで存在していたものが消えてしまうのではなく──ただ元からそんなものが無かったことに気付くだけではないのか?君が想いを寄せた彼女など本当は存在せず、君自身が生み出していた幻想にすぎなかったのではないのか?」

「ち、違う!」

「何故違うと言い切れるんだい?」嘲笑うかのように唇を歪める。

「存在が『失われた』今となって、一体どれだけの人間が彼女のことを覚えているというのだろうね。証明できるというのだろうね」

それは『自分は狂っているのではないか』という可能性。

カイは分かっていた。アンの存在を今繋ぎ止めているのは自分の記憶でしかないことに。そして、それは『可能性』によって脆くも崩れ去ってしまうということに。

だが肯定することは本能も理性も許さなかった。

「彼女は…アンは幻なんかじゃない!アンは現実に存在して、現実に俺と同じ時を過ごした!それは絶対に覆らない!」

「現実とは、画一化された次元において多人数に共有される妄想のことだよ。現実ほど当てにならないものはない」

ようやく搾り出した彼の悲鳴──そう、それは殆ど悲鳴だった──を軽く受け流し、男はロングコートを翻す。黒い布に押さえ込まれていた闇が解き放たれたかのように、海辺は漆黒の『無』へと姿を変えた。

「君はこの三年間、何を見てきた?」その闇の中に溶け込んで、男は囁く。

「所詮何かを大切に想う気持ちや愛情という概念は、すべて一過性のものでしかない。それらは蓄積もされず、時が流れて朽ち果てるのを待つだけの運命だ」言って、男はカイの眉間に指を当てた。

「君は恐れている。想いを貫き通そうとしながらも、拠り所をなくした感情がいつか霧散してしまうのではないか…と」

そして静かに付け加える。

「──それこそ、君の目の前で掻き消えた彼女のように」

「…!」

脳裏で何かが灼熱して、カイは無意識のうちに剣で斬りつけた。激昂した彼の剣戟を紙一重で回避すると、男は少し離れた闇に飛びのく。

「なら君は、絶対普遍的なものがこの世界にあるとでも思っているのか?君は幾多の場所で見てきたはずだ。時の前では全てが移ろい易く、儚く、脆い。人の気持ちとて例外ではない」

声が闇の中に波紋を落とす。

「実際、このドルファンの地でも、君はそれを嫌と言うほど思い知らされたではないか」

「この…っ」

もう一度斬りかかろうと、剣を構え直したところで───視界が暗転した。

男の声しか聞こえてこなくなるような感覚が襲ってくる。

世界が歪む?

「目を背けるな、流れに従え。そうすれば…叶わぬ願いにも、切ない想いにも焦がれることのない安息はすぐにでも手に入る…」

既に外界を認識するだけの感覚は残っていない。

カイは遠のく意識の中、必死で手を伸ばした。掴もうとしたのは現実?だったのかもしれない。しかしそれが掌からするりと抜けて行った瞬間、全ては混濁した闇に消えた。

 

 

「…カイ、カイってば!」

耳朶を叩く声に、カイの意識は暗黒の淵から引きずり戻された。

緩慢な動作で顔を上げる。

まず瞳に映ったのは心配そうにこちらを見据える女性の顔。

整った顔立ちの綺麗な女性だと、カイは客観的に考えた。だが彼の視線がとっさに探したのは、こんな美女ではなかったような────そうだ、確かそれは…

「どうしたの?ぼーっとして」

「ん…?ああ…」

カイは頭を振って、意識を確かにしようとする。どうやらそれまで椅子に座ったまま意識を失っていたらしく、羊皮紙にあてたペン先が無様な曲線を描いていた。

顔を顰めてそれをごみ箱に捨てると、彼は目の前の女性に向き直った。

「なぁ、俺と話していた男はどうした?」

「男?」

女性は───リースは眉根を寄せる。

「何を言っているの?貴方はずっと私と一緒にいるじゃない」

「そんなわけがない。俺はそいつと海辺で」

と、そこで言葉を中断させて、辺りを見回してみる。

飾り気のない部屋。住み始めてから壁紙の張替えなどしたことのない天井と壁、ざっくばらんに散らかった室内、実用性重視といった椅子とテーブルがさりげなく置いてある。

「???」

「白昼夢でも見ていたんじゃないの?」

「あれが、白昼夢?」カイは首を傾げる。

「それにしちゃあ、随分はっきりしていたような…」

「相当お疲れみたいね」リースは彼の顔を覗き込んで言った。

「また会議だったんでしょ?」

カイは腑に落ちない面持ちで頷く。まったく反論材料が見当たらない。

そうだ。いつもの部屋でいつものように生活している自分が、見知らぬ海岸で男と対面しているなど、よく考えてみれば可笑しな話である。

そうに決まっている。

「コーヒーでも煎れよっか?」

「…うん、サンキュー」

リースはポットにフィルターをのせて、コーヒーメーカーをセットする。カイはブラック派だが、彼女は砂糖やミルクを大目に入れたコーヒーの方が好きなようだ。それでも、リースが一人でいる時にコーヒーを飲んでいる姿は見掛けた事はなかった。恐らく付き合いのようなものなのだろう。

カイは彼女の後ろ姿を少しの間見ていた。

「騎士団も大変ね」リースはこちらと反対側を向いたまま言った。

「そうだよ…伊達に国民の税金で食っていない」カイは嘆息混じりにそう答える。

目眩のせいか、双眸は半分程しか開かれていない。

暫くしてリースが持ってきたコーヒーを少し飲むと、彼は自分の額に掌を擦り付けた。これは幼少の頃から引き摺っている彼の癖である。

カフェインが効いたのか、もしくはその癖が効を成したのか、カイの瞳には多少輝きが戻ってきていた。まだ半分程残ったコーヒーカップの縁をなぞりながら、リースに視線を向ける。彼女はまだ黒い液体に口を付けずに、スプーンで掻き混ぜていた。砂糖が残っているわけではなく、猫舌なので幾分か冷ましているのだろう。

カップを包むように片手で持ち上げ、カイは口を開いた。

「今日は確か…洋服を買うんだっけ」

リースは首を斜めにして軽く髪を撫で付けると、嬉しそうに頷く。

「そっ」

カイはカップの残りを喉に流し込んだ。彼女もそれに倣って少しだけコーヒーを飲む。それまで騙し騙し熱いコーヒーを飲んでいるリースだったが、小悪魔的な───突飛な悪戯を秘めるような───笑みを浮かべていた。

 

「次はあそこのお店ね♪」

「おいおい!まだ買うのか!」

既にカイの両手は買い物袋で塞がっている。これ以上の物を抱え切る自信は正直なところ、ない。悲鳴を上げるカイを余所に、リースはにこやかに笑う。

「当然でしょ、今まで付き合ってもらっていない分だけ取り戻さなくちゃ!」

「限度って言うものがあるだろうが、限度!」

「ないわよ〜♪」

「が〜っ!待ちやがれ〜!」

手を精一杯に振りまわしてリースを捕まえようとするが、手にぶら下がった物が邪魔でひらりと回避されてしまった。

肩で息をして、次の店に走って行く彼女を視線で追っていると、

「お、カイじゃないか」

後ろから声を掛けられた。よく聞き慣れた声だ。

「よう…ヘキサ。相変わらず暇そうだな」

「言ってろよ」ヘキサが苦笑を張り付ける。

長身の大柄な男で、熊という表現がぴったりの風貌の男だった。胸板も厚く、角張った体つきをしているのに、顔だけはその印象とは対照的に穏やかなものとなっている。額は広く、その下に山嵐のような眉毛が二筋きりっと引かれていた。カイの騎士団の同僚である。

「こんな所にいるとはな。俺はてっきり、年末の剣術大会へ向けて最終調整に入っているものだと思っていたよ」

「俺もそうしたいんだけど」

向こうのショーウィンドウに釘付けになっている彼女を顎でしゃくり、

「あいつが離してくれなくてね」

「なるほど、逢引き中だったか…これは失敬」

もっとも、言葉のように悪がっている様子は微塵も感じられなかったが。

「だが今年はテトラの野郎が張り切っているぜ?今年こそお前を倒す、ってな」

「それは楽しみだね。で、お前も出るんだろう?」

「いいや。敵わない奴には勝負を挑むな───祖母さんからそう教わったんでね」

食えない奴だぜ…と内心苦笑する。

恐らく、この国でカイとまともな戦いが出来るのは目の前の巨漢くらいであろう。それにも拘わらず、いつもヘキサは謙遜してばかりだ。能ある鷹は爪を隠す、ということか。

「カイ〜!ちょっと来て〜」

カイとヘキサは同時に───全く同時に肩を竦めた。

「それじゃあ俺は早々に退散するよ。野暮なことはしたくないんでね」

「言ってろよ」

冗談を交わし、ヘキサは軽く手を振って遠ざかっていく。だが、ふと振り向くと、口許の端をシニカルに吊り上げる。加虐的な笑みだ。

「…お約束通り、荷物持ちか」

「ああ、お約束過ぎて涙が出るよ」

カイは苦笑しているのか、呆れているのか良く分からない曖昧な表情を浮かべ(恐らく両方だろう)答えた。雑踏の中にヘキサの姿が消えるのを確認すると、やれやれといった風にリースの元に近づいて行く。

「どうした?」

「これ見て。綺麗だと思わない?」

「真珠のネックレス、ね」

――カイさん…わ、わたし、一生の宝物にします――

ピシッ!

鋭い音が耳の奥で鳴り響く。

「どうしたの?」

「いや…買わないからな」

「ぶ〜っ」

「むくれても、買わないものは買わないの」

騎士は貴族としての爵位を持っていたりもするが、傭兵から騎士団に転属?されたカイは称号などとは無縁の、戦うための騎士である。

誰もが中世時代に思い描いたような『支配する者』の立場とは全く違う。給料も危険な仕事が多いわりには安月給だったりした。

とは言っても特別現状に不満があるわけではない。今の地位も、それはそれで満足なのだ。

「あ、そう言えば今年のクリスマスは暇が出来そうなんだ」

まだ膨れっ面のリースをなだめようと、今日決定した事項を口にした。そのことは思いのほか効果覿面だったようで、彼女の口許に笑みが戻っている。

「本当?」

「多分ね。城で開かれるパーティーの警備も今年はないからな」

「よかった!」

去年は城の警備、一昨年は遠征が理由で、クリスマスを別々に過ごす羽目になってしまっていた。連続でデートのキャンセル。そのことを実の所カイは気に病んでいた。

だが今年はどうやら杞憂で済みそうだ。

「正直なところ心配だったのよ。また今年も、独りで寂しい聖夜を明かさなくちゃならないのかな〜って」

「三年連続で放っておくことはしないさ」

「そうよね〜、もしそうだったら別れてやるんだから」

くるっと、スカートの裾を翻して振り向く。

「ね!じゃあ何処かのレストランでも予約してくれたの?」

「う…っ」

「そんなことだろうと思った!でも平気、何とかなるよ。それに貴方といられれば私はそれで満足だしね」

───貴方と同じ時を過ごしたい!人として生きてみたい!───

ピシッ!ピシッ!

世界に亀裂が走る。

「今年の冬は寒いから、雪が降らないかしら?ホワイトクリスマスだったら素敵なのに」

───掌の中で溶けてしまう雪…まるでわたしの───

───このまま終わるなんて嫌…このまま消えるなんて、嫌───

ひびは亀裂に…亀裂は溝に発展し、ガラスが割れるような音と共に何かが崩れ落ちた。

意識が錯綜し、幾多もの映像がフラッシュバックする。目の前のもの全てが明滅し、ひしゃげる。そして───止まった。

(ここじゃない…)

モノクロの世界、静止した現実の中、カイは一人で呟く。

ここは自分のいるべき所じゃない。

(戻ろう…あの自分に、あの場所へ…)

白濁する世界は姿を変えて行く。いずれ跡形もなく消えて行くだろう虚構の世界──いや、もう一人の自分に向かって一瞥をくれる。

教科書で習ったような綺麗事によって創られた『幸せ』は欲しくなかった。誰かに与えられる──流されて得た結末に、何の意味があるというのだろうか。

だから…だから…

 

 

「時の流れに逆らうと言うのか?」

眼を開けると正面には男がいた。場所も、ドルファンの海辺に違いない。虚構ではない本来あるべき世界だ。

「無駄な足掻きは見苦しいな。幾らもがいた所で、いつか人は自分の気持ちを」

「違うね」

カイは短く言い放った。それは苦し紛れの言葉なんかではなく、確信に満ちた声である。

「時が人の気持ちを押し流すなんていうのは、言い訳に過ぎない。何もかも時間のせいにして、過去を忘れようとしているだけだ」

その双眸は強い光に満ち溢れていた。幾多の戦場を潜り抜けてきたカイが、その何処でも見せたことのないような強い煌き。

凛とした声で続ける。

「俺はアンを愛している」

アンのいない三年間は、とても辛く生き心地のしない毎日だった。

それでも、彼女に想いを馳せることこそが、間違いなく俺にとっての『幸せ』だったんだ。

「これからも彼女のことを愛せるだろうし、また愛したいと想う。それは誰の意思──例えあんたであっても、変えられはしない」

いくら理屈に反していてもいい。今はただ、君と一緒に時を過ごしたこの世界───そして自分にしがみついていよう。

これが俺の見つけた真理。三年と言う歳月は決して短いものではなかったけれど、こうして俺は帰ってきた。それは回り道であったけれど、辿り着く先は同じだった。

「あくまで、己が道を貫き通す…と」

「そうだ。時と共に想いを風化させることも、過ぎ去ったことだと割り切って生きていくことも、俺には似合わない。俺の生き方は…俺が決める」

 

* * *

 

夢は叶うと信じていた

努力は実ると信じていた

祈りは届くと信じていた

けれど嘘だった

知らなかった──そんなことさえ、わたしは知らなかった…

だけど…

 

* * *

 

瞳と瞳、視線と視線をぶつけ合う沈黙を先に破ったのは男のほうだった。

「───ならば抗いたまえ」

その一言だけで、緊迫した空気が砕け散る。

しかし沈黙は再び蘇り、ただ繰り返されるだけの潮騒が辺りを再び包み込んだ。

費やされ失われる時間の代わりに、焦燥と苛立ちがカイの胸の中に溜まっていく。

カイが堪えかねて何かを言おうとすると、

「彼女は死んだ…七十年前、この海で」ポツリと呟く。

「あの日を境に、彼女の時間は止まったままだ。いくら歳月が流れようとも、その束縛が解かれることはなかった。『終わり』を恐れるがあまり、『始まり』から逃げる無意味な輪舞」

男はゆっくりと天を仰いだ。

「だが七十年前から続く、彼女を縛る時の悪夢…ようやくそれも終わる」

大きく溜め息をついて視線を元に戻すと、カイの双眸を見据える。

「君ならば終わらせることが出来る。時の流れを恐れぬ──それは愚行かもしれないが、愚行も時として正義であるのだろう。愛し続けるがいい、想い続けるがいい───いずれ彼女は君の元に帰ってくる」

───それが私たちに出来る唯一の贖罪だ。

最後にそう男の口が動いたことに、カイは気付かなかった。

運命の糸の紡ぎ手が犯したミステイク。彼らの手から離れて行ってしまった糸の切れ端は、残留思念という形でこの世界に留まることになる。

死んだはずのアンはかつての恋人を失った悲しみから『始まり』を恐れ、七十年前に固執した。

『始まり』はいつだって終わりへと向かっている───"ならば始まらなければいい"

この七十年間、彼女の深層意識を縛り付ける時間の鎖である。

時間に縛られ───縛り付けているが故に、彼らではアンを救うことが出来なかった。

アンには『始まり』の素晴らしさを教えてくれる人間が必要だった。『終わり』を恐れない人間が必要だった。そして…その人間は現れた。

男は既に鞘に収められたカイの剣に目を落とし、

「その剣は人を斬るためにあるのではなく…この瞬間、時の鎖から彼女を解放するためにこそあったのだと、私は思う」

「あんたは…」

カイの言葉は漠然とした予感に突き動かされた、感謝の言葉だったのかもしれない。それまでは怒りや憎しみすら覚えていたはずなのに。

しかし、男はその先を言わせなかった。拒むでも───分かっていると言うわけでもなく、ただ首を横に振る。そして踵を返して遠ざかって行く。

カイはただその姿を見送っていたが、唐突に男が立ち止まった。

「…最後に、一つだけ質問させてもらってもいいだろうか」

カイは眉だけを上げて先を促す、"言ってみろよ"と。後ろを向いている男にはその仕草を見ることができなかっただろうが、彼はそのまま続けてきた。

「君は、彼女が帰ってきたら…まず何と言うつもりだ?」

質問の真意がわからず、思わずきょとんとするカイ。が、すぐに口許を歪めて答える。

「そりゃあ…決まっているだろ?」

カイは一言告げる。

余りにもそれが単純過ぎて、男の思考がついていかなかった。数瞬の沈黙の後、男は声をあげて笑う。理解よりも先に笑いが込み上げてきた───そんな感じの快い笑い声だった。

そして彼らは全く別の方向へ歩き出す。男は『人ならざるもの』の立ち入る領域へと、そしてカイは───

 

* * *

 

声が聞こえる

誰かの声…誰かを呼ぶ声…

あの人の声?

幻聴なのだろうか?

そうに決まっている、そうに違いない

そのはずなのに不思議と涙が込み上げてきた

だからわたしは祈る…この幻想が永遠でありますように、と

たとえ祈りが届かないものであったとしても

この祈りが届きますように、と

 

* * *

 

幾千、幾億の星々が輝く夜空。幻想的を通り越して、神秘的にすら見えるこの瞬間。

「お疲れ様でした」

薄着をまとった女性は、唐突に空間に現れた男にそう声をかけた。彼は彼女の姿を一瞥し、

「…随分とご機嫌のようだな」

「そう見えますか?」

「ああ、君が微笑んでいるのを見るのは久方振りのような気がする」

そんなことを言いながら、地面に足を下ろした。夜の闇でよく分からなかったが、かなり疲弊している───と言うよりは思案に耽っていたのかもしれない。

互いを認識できるほどの距離になって、彼女が口を開いた。

「貴方のおかげで事が上手く運びました。本当にありがとう」

「全てが君の思い通り、というわけか」

「思い通り以上です」

軽く鼻を鳴らして、彼は海原に視線を投じる。

「ああは言ったものの、私には確信できないな。彼の言っていることが本当に正しいのか…」

「私にもそれは分かりません。多分誰にも分からないんでしょう」

素っ気なく彼女。

男は眉根を寄せてこちら──灯台の建つ岬で佇む女性──を見据えると、不機嫌そうに頭髪を跳ね上げた。口許を歪めて、

「だとすれば、私たちの決断は正しかったのか?もし間違えていたのなら───」

───また運命が繰り返されるだけ。

そう言おうとするのを、女性はかぶりを振って制する。

「大丈夫、あの人たちは幸せになりますよ」

「…何故?」

彼女の言葉は妙に確信的だった。それは母親が子供たちに対して抱く愛情のように、根拠もなく紡ぎ出されているのかもしれない。

そう訝しむ男に、自らの胸元を撫でるしぐさをした。そして笑みを浮かべる。

「貴方は言ったでしょう?運命の女神が微笑んでいる、って」

 

* * *

 

「おかあさ〜ん、このお皿持って行ってもい〜い?」

少女は、台所で炊事をする母親に向かって声を掛ける。淡い藍色の髪をした可愛らしい少女である。母親似のわりには、少々おてんばが過ぎる印象を与えた。

「ええ。落とさないように気をつけてね」

「は〜い!」

元気よく返事をすると、少女は料理が盛り付けられた皿を両手に抱えて運んで行く。その姿を横目で見る少年がいた。

穢れを知らないまっすぐな瞳は、父親の幼少を知っている者がいたならば、まさにうりふたつだと言ったことだろう。

「ねぇねぇ、ぼくは?」

「そうね…じゃあ、スプーンとフォークをテーブルに並べてくれる?」

「うんっ!」

大きく頷くと『とてとて』と駆けて行く。

時折、こうやって家族のために食事を作り、手伝いをしてくれる子供たちを見るのが、ついこの間始まったかのような錯覚に陥ることがある。

実際には五年の月日が流れていた。

五年───第三者から見れば、一見普通の平穏な時間。

しかし母親…アンは知っている。この年月の中にどれだけの変化と起伏が内在しているかということに。と、

「あ〜!」

この家の日常となりつつあるリリィの叫び声が、本日四度目として響いた。

「おかあさん、お兄ちゃんが摘み食いした〜!」

(あらら)と思いながら、彼女は包丁の手を止めて振りかえる。テーブルの上に並ぶ沢山の料理。そしてその前に叫び声を上げた張本人であるリリィと、気まずそうな顔のテイル。

「こらっ、ご飯はお父さんが帰ってきてからでしょ?」

「だって…おいしそうなんだもん」

アンは膝を屈めて、俯く息子の顔を覗きこむ。

「家に帰ってきて、もうご飯が食べられていたら、テイルだって悲しいでしょ?お父さんが帰ってくるまで待ってあげなきゃ」

ぽむ、とテイルの頭に手を置いた。

「そんな悪い子には、お父さん、誕生日プレゼント買ってきてくれないぞ?」

「や、やだ!」

「また一つお兄ちゃんになるんだから、我慢できなくちゃ…ね?」

「うん…ごめんなさい」

子供は素直が一番。

こういうところはあの人と少し違うかな?と少し思ってみたりもする。

「…お母さん、怒ってる?ぼくのこと嫌いになっちゃった?」

その質問の、余りの子供らしさと純粋さに理解がついていかなかった。ひたむきにこちらを見つめるテイルの瞳。自然と笑みが洩れた。

「ふふっ、嫌いになんてなるわけないでしょう」

「じゃあ好き?」

彼はまだ安心できないらしく、心許なげにもう一度尋ねた。

アンはそれに優しい微笑で応じると、ゆっくりと頷く。

「ええ、好きよ」

「おかあさん、リリィのことは?」

「勿論よ」

「じゃあお父さんは?」

テイルの言葉に彼女はにっこりと笑って、

「お父さんのことも大好きよ」

二人は歓声を上げるとアンに抱きついた。彼女の華奢な身体に身を埋め、上目遣いにリリィが言う。

「わたしね、おとうさんもおかあさんも大好きだよ!おリンゴよりも、ケーキよりも…えっと、お外で遊ぶのよりも好き!これからもずっとずっ〜と大好き!」

胸の奥が熱くなった。

そして、この幸せ…今ある絆に心から感謝する。アンは子供たちが気付かないほど僅かに、二人を抱く腕に力を込めた。

アンは手に入れて初めて知る。幸せというものの重さを。

その言葉の持っている不安、弱さ、そして醜さ。ただひたすら求めた彼といられる『幸せ』は、彼女が知らない様々な想いを抱えていた。

「あー!ずるい!ぼくだって、ずっとずっとずっと好きなんだい!」

「わたしのほうが、ずっとずっとずっとずっと好きなの!」

「ぼくだよ!」

「わたし!」

「ぼく!」

「わたし!」

彼女の腕の中で睨み合う二人。

こっそりと瞳に滲んだ涙を拭い、子供たちの頭をアンは優しく撫でつける。

「ほらほら、また喧嘩しないの。みんなで頑張って、お父さんが帰ってくるまでに準備を済ませちゃいましょうね」

「…は〜い」

「…ぶーう」

少し不満げな表情を浮かべていたが、二人ともすぐに笑顔になった。どうも頭を撫でるという行為には、無条件に人を幸せにする効果があるようだ。パタパタと音を立てて駆けて行くテイルとリリィの後姿を眺めて、アンは思う。

(自信を持って言える…私は今、幸せだと)

時間が経つのも忘れてしまうようなせわしない日常だ。けれど、こんな些細な幸せも今この瞬間に変わりつつあるのだろう。

「あ、お父さんだ!」

時間は止まることなんてない。その流れは常に穏やかで、時として絶対的だ。その前には人の力など本当は無力で、ただ跪くことしか出来ないかもしれない。

事実──それまでの彼女は怯えるだけで何も出来ない、矮小な存在だったのだろう。だが、今は掛け替えのない煌きがアンの心に宿っている。

「ただいま〜」

今という瞬間が始まったあの日、彼が言ってくれた言葉は終わりの始まりを意味していた。それすら、今なら畏れることなく口に出来る。

そう…二人の想いが、この幸せが果てる日は来ないと確信できるから。

時の流れに終わりがないように───風が吹く先に終わりがないように。

だから精一杯の笑顔で、今という幸せを噛み締めながら

その言葉をアンは言った。

───お帰りなさい───

 

劇終


後書きという名の懺悔

「お前の文章を読んでいると気が狂いそうになるぜ」(謎)

「恋愛SLGのSSか?これ?」

「なっ!人が殺されない内容をお前が書くなんて!」

こういった誹謗中傷に堪えて、製作期間三ヶ月という多大な時間を費やしたこの作品───欠点だらけの駄作ですが、少しでも楽しんで頂けたらと思います。

「慣れないことをするから駄作になるんだ。珍奇人が、無理して真人間を演じようとしてるというか…」

「猟奇ものフリークが愛を語るなんて、なぁ?」

「駄目人間なら駄目人間らしい結末を用意しろよ」

(無視)さて、今回このSSを創るにあたって、かなり色々と悩みました。

アンのストーリーは悲恋だからこそ意味がある!と仰る方もいることでしょう。私自身もあのような哀い結末だったからこそ感銘を受けたのだと思っています。

『哀しい終わり方のままのほうがいいのではないか?』という考えも、私の中から未だ完全には拭い切れていないのです。

ですが、やはり笑顔を求めるが故にこのような結末にしました。気に入らない方も、どうぞアナザーな話だと割り切ってやってください。

なお本文中にある論理や考え方は、必ずしも作者のそれとは一致していません(^^;

「そりゃそうだ。お前の思想は極右的だからな」

「むしろ極左的だろう?」

「いやいや、自己中心的とか独善的とかじゃないか?」

(無視)最後に────

素敵なHPに、こんな駄作掲載の機会を与えてくださったTWIさん、アドバイスなど様々な面でご指摘頂いたたのじさん、我侭に付き合ってくれた友人、掲示板で現在もお世話になっている皆様、そして私の作品を最後まで読んでくださった貴方!本っ当に有り難うございました!

『ああっ、やっぱり良い子振っていやがる!』


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