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2004.12.25.発行 第81号

企画展報告/丸木位里・丸木俊作品展《原爆の図》をめぐる絵画表現

企画展報告/丸木スマ展 不思議な色彩と表現の世界

位里・俊・スマ三氏の絵は世界を正気にする/水原 孝

ヨシダ・ヨシエ『原爆の図』を語る

リレーエッセイ・12/菅原憲義


企画展報告
丸木位里・丸木俊作品展 《原爆の図》をめぐる絵画表現
5月18日〜9月3日
この企画展は、共同制作《原爆の図》の生成過程を、丸木夫妻の出会いまでさかのぼって個人作品を比較しながら検証する 展覧会でした。
展示作品は二人の代表作を中心に七五点。
位里の前衛的な水墨画や俊の色彩豊かな油画からは、それぞれ 独立した画家としての確かな力量が共同制作の基盤となって いたことが感じられました。
《原爆の図》に結実し、そして 《原爆の図》から派生していった二人の画業を見つめ直すことで、共同制作についての新たな 視点を得ることができたと思います。

会期中に朝日新聞の田中三蔵記者が取材に訪れ、八月九日付夕刊文化欄に「『戦争画』見直す二展」として「横山大観 『海山十題』展」と共に紹介して下さいました。
この記事では、戦争中の国威発揚を目的とした横山大観の作品群と、 戦争の悲惨を告発する丸木夫妻の対照的な 「戦争画」が比較され、「『原爆の図』を描いたことがよかったか悪かったか、ちっとばかり気がかりだ。恥を末代まで 残したかもしれない」という位里の言葉が引用されて、自分の代表作まで疑う大きなスケールの自省が今こそ必要とされる だろう、と結ばれています。
(岡村幸宣)

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企画展報告
丸木スマ展 不思議な色彩と表現の世界
9月7日〜11月26日
この企画展は丸木スマの初期の小品デッサンから代表的な大作まで80点を展示した展覧会でした。身近な主題の小品、 色彩豊かな植物画、人生体験が描かれた風景画、そして集大成となる曼荼羅図というそれぞれの分野に展示を分け、 丸木スマの内に形成された豊穣な世界観を紹介しました。
会期中、詩人のアーサー・ビナードさんが来館し、11月18日付朝日新聞夕刊で連載中のコラム「日々の非常口」に紹介して 下さいました。
「ゴッホの『ひまわり』の絵は一度見たら忘れられない。が、あえていうとすれば、ぼくは丸木スマの『ひまわり』の印象 のほうが強烈だ」という書き出しで始まるその文章は、スマ作品を大胆な色彩の「輝かしい絵」として紹介。
風景画『村の夕暮れ』の前でロングフェローの「いまわの挨拶」という詩を思い出すことから高齢社会の問題にも触れて います。
「スマさんの老年は、統計に現れない形で、ぼくの今を支えている」というビナードさんの言葉には、現在の社会における スマ作品への一つの視座を示唆されたように思いました。
(岡村幸宣)

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位里・俊・スマ三氏の絵は世界を正気にする
水原 孝(丸木美術館理事長)
2005年8月6日は、広島に原子爆弾が落とされてから60周年になります。私は親族、友人、 知人に声をかけ、丸木美術館に足を運んでもらおうと思っています。
位里・俊両先生の『原爆の図』、スマさん『「花と人と生きものたち』の作品を見てもらえれば、狂った世の中を正気に かえすため立ち上がる勇気を与えられる、と思うからです。
俊先生はスマさんの画集の中で、「年老いてから描くおばあちゃんの絵は、面白くてこっけいで、子供のようでいてそうで なく、人をはげまし、なぐさめてくれる(中略)再びこのような女と作品がこの世に生まれるだろうか、とわたしはひとりで 考えています」と述べています。
また画集『原爆の図』の中で、両先生は152頁の『地獄の図』でこう書いてしめくくっています。

「ひろしま、アウシュビッツ、南京、沖縄。人々を苦しめ、虐殺を命令したもの、実行したものは地獄行き。炎に包まれる 英雄を描きました。ヒットラー、トルーマン、そして天皇が地獄に行くのは最初から、はっきりしています。
さて私たちはどうなるだろう。天国や極楽へ行くはずがない。やっぱり地獄。位里は裸にされて落ちて行く。俊もさかさまに なって落ちて行くところを描きました。
私たちは原爆を落としはしなかった。人を殺しもしなかった。私たちが地獄に行くのは、戦争を食い止めることが できなかったからです。
核戦争で、原発で、地球上の生命が亡びたら、助かる人は誰もいないのです。」

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ヨシダ・ヨシエ『原爆の図』を語る
2004年11月3日 丸木美術館にて講演 抄録 
1950年代初頭に『原爆の図』を背負って全国を巡回展示したヨシダ・ヨシエさんの講演会が行われました。
その抄録をお届けします。

59年前の敗戦の日、私は16歳で湘南中学にいました。私の友人に画家の池田龍雄がいます。彼は一歳年上で 特攻隊員でした。特攻隊がテロかどうかの定義は難しいですが、私にはアメリカが「ならず者」と呼ぶ国のテロから「助けて くれ」という声が聞こえます。これは最終的な手段です。
当時私は工場で特攻機の部品を作っていました。そこに校長が乗り込んできて「日本が最後の戦争に賭けている時に、この クラスからは特攻隊員が一人も出ていない」と、級長の僕を睨みつけて叱りました。私は「特攻隊になります」と言い、 近眼を治すために毎日星を見ました。もし目が良ければ特攻隊に行っていたでしょう。
その頃は配属将校が中学にいて、毎日のように殺人の訓練を受けました。彼は戦争が終わると、頭を七三に分けポマードを 塗りたくって現れました。「今に米軍が来る。俺が軍人だったことは言うなよ」。そして「裏山に穴を掘って、銃を折って 埋めろ」と言ったのです。昨日まで天皇陛下から戴いた銃だと言い、僕らを殴り蹴飛ばして立派な軍人になれと言っていた 男がです。大人の裏切りに、どんなに少年の僕は傷ついたか。「天皇陛下から戴いた銃を折るんですか」と泣きながら 言いました。彼は「とにかく埋めろ。銃が学校になかったことにしろ」と言いました。今でも埋めた場所に立ち会えます。 それは、僕らが憎しみをこめ、敗戦を呪いながら埋めた銃です。

『幽霊』
1945年8月6日、エノラ・ゲイという飛行機が広島上空に現れ、高度千メートルで小型爆弾を落としました。それは産業奨励館 の方に向かって落ちていき、地上560メートルでピカッと光りました。直径100から200メートルの大火球が生まれました。 表面熱度は六千度、太陽と同じです。
太陽が地上560メートルにあったらどうなるか。一瞬にして鉄は曲がり、人の髪は燃えて、着物は燃え落ちます。全身に火傷 をして皮膚が剥けます。痛いですから手を前に出します。それで「痛い、痛い」と言いながら、大集団が回りだしたんです。 これを大田洋子は「人間襤褸」と呼びました。人がぼろきれのようになって歩き回っているのが『幽霊』です。
幽霊には様々な解釈があります。赤松俊子は「幽霊って女が多いのね」と言いました。封建社会の中での女性の地位の低さ、 それが皿屋敷のお菊です。お菊はなぜ皿一枚割っただけで殺されねばならなかったか。
幽霊の手は象徴的です。人は怒る時には手を上げます。ごめんなさいという時には下げます。上げる事も下げる事もできない 時に、幽霊の手が出るんです。
原爆に対して、手を上げる事も下げる事もできなかった広島の人は幽霊になったんです。
この絵は、今は屏風ですが、当時は画室に和紙を敷き、その上に赤松が座って筆で巧みなデッサンを描いていました。隣で 位里さんが焼酎を飲みながら「わしにもやらせんかいのう」と言って墨をぶっかけました。大変な闘いが始まったんです。 一つやるごとに夫がそれを壊す。これは共同制作ではなく、共闘制作だったんです。
軸装された『原爆の図』を木箱に入れ、藤沢駅前で映画の看板を描いていた友人の野々下徹と二人で、僕が三部を、野々下は 二部と絵具を持って、列車に乗りました。最初に行ったのは、六日町、十日町、小千谷、加茂、柏崎、三条、高田。六日町は 人口が四、五千しかなかったと思います。
もっぱら僕の勘で決めて、「降りちゃおう、野々さん」と言うんです。僕は駅前の屋台で酒を飲み、親父と仲良くなります。 公民館や教育委員会、労働組合の情報を収集します。利用したのは共産党です。平和運動だからやってくれと交渉に 行きました。
大量に紙を買い、野々下がすごい速度で「原爆の図展」と描きます。人手を借りて糊をつけ、雪の中を何百枚とポスターを 貼ります。それだけです。何も宣伝メディアの無かった時代です。後はトラックに乗って「原爆の図が来ました。みなさん 来て下さい」と僕がもっぱら怒鳴ります。
その六日町で一万五千を超える客が入ったんです。小さな町ですから噂を聞いて一人が何回も来る。そうすれば人口四千 だって一万を超える訳です。
最初は皆「私も空襲を経験している。裸で人が歩くなんてありえない」と言いました。それは原爆を知らない方です。 焼夷弾だとこんな事はありえない。もし丸木夫妻が『火』を最初に描いていたら、これは大火だと納得がいきます。 『幽霊』は納得がいかない。納得がいかないから『原爆の図』なんです。原爆は納得がいくものじゃないんです。『幽霊』を 第一部にしたことは正しかったと思います。それによって心理的な違和感を作ったのです。
米軍はこういうものの発表を徹底的に禁じました。「原子爆弾」という文字は、日本の新聞に戦後数年ないはずです。最初に 日本アンデパンダン展に並べた時には『原爆の図』ではなく『八月六日』と言ったんです。そうしないと米軍が乗り込んで 壊してしまう。それほど言論を封殺していたのです。我々も何度警察に呼ばれたか。米兵がいるから怖いですよ。拳銃を 持って、背は高いし強そうですから、相当な恐怖感がありました。

『火』
広島のあちこちでは火が燃えはじめました。火は爆風に煽られて町を舐め回します。
ここで気づくのは火の描き方です。地獄草子等に現れる日本の画家が描く火です。日本人が受けた被害は日本の材料で 描きたいと言った赤松の言葉と一致しています。
位里は焼酎を飲みながら「ヨシダさん、この絵をどう思う」と言いました。そこで僕は生まれて初めて美術批評をやったん です。
僕も空襲では火の中を逃げ回りました。この絵を見ると、皆「絶望だ」と天を仰いでいます。僕が見た人間はそうじゃ なかった。皆必死になって、親しい人でも置いて逃げる、そんな人間の残酷さを見ました。だから、何としても俺だけでも 生き残ってやるという姿勢が全体に見えないと、生意気なことを言ったんです。「面白いこと言うな、じゃあ裸になりん しゃい」と来たんですね。すぐ素裸です。右下で押し潰されながら地面を引っかいて立ち上がろうとする若い男、これは僕が モデルです。

『水』
広島は水の都です。太田川が市内に七つの川を形成しています。その水の都が災いしました。
この群集の流れは、時間の経過を表しています。人々は火から逃げて喉が渇くと川に来ます。そして水を飲みながら崩れ 落ちるように死を迎えます。川には死体が浮きました。それを軍人たちが、死者も生者もなく片端から積み上げて燃やす んです。よく見ると目を開けている人があちこちにいます。火の中から悲鳴が聞こえたという話も残っています。
群衆の顔は歪んでいます。僕は幾度このケロイドを見たことか。長崎では女学生が僕の前でセーラー服を脱ぎました。 「見て」と言うんです。僕は慌てました。すると背中には表皮の質が変わって亀甲のようになった大きなケロイドがあった んです。僕は着ていたセーターを彼女に着せました。
あの少女はどうしただろう。僕に「生きているのって寒いことね」と言ったんです。この「寒い」という言葉は僕を刺激 しました。あれ以来寒さが止まらない。心の底から来る震え、人が今まで体験したことのない恐怖の中にいた震え。その人の 一生を支配するでしょう。大田洋子は、寒い、寒いと言いながら、風呂の中で死にました。

『虹』
この作品で重要なのはアメリカの捕虜です。広島には時々アメリカの偵察飛行機が飛んできました。日本の高射砲部隊が撃ち 落として捕虜になった米兵が女性を含めて二十数人いたと言います。街で米兵にリンチを行ったことも記録されています。 彼らは祖国の原爆でこんな状態になりました。
これを描いて丸木夫妻の想像力は広がったのです。今までは被害者意識、原爆で自分たちが酷い目にあった事を描いてきた んです。しかし、アメリカ人もいた。敵と味方とは一体何だろう。誰が被害者で誰が加害者か、という難問に出会った最初の 作品です。
戦争の背後にある何かを突き詰めなければ『原爆の図』はただの写生になってしまう。そうでなく、想像力の世界に入るため の一つのきっかけとして『虹』は評価されるべきでしょう。

『少年少女』
この絵は人情に訴えやすい、厳しく言えば一種のセンチメンタリズムです。抱き合った少女二人を使ったポスターを幾つ見た か知りません。
この絵には赤松の優しい気持ちが表れています。赤松は言いました「少女たちを滅茶苦茶に描く訳にはいかない。美しく 描いてやりたい」。僕は彼女を非難したことがあります。「真実は醜くても、そのまま描かなくてはいけないのではないか」。 後で心に恥じました。少女たちはこんな美しくはなかった。ぼろぼろだったはずです。
広島は軍事都市ではない。広島の南には呉があります。長崎の傍には佐世保があります。アメリカ人は軍港を襲っていません。 原爆は一般市民が犠牲になったという事だけは、忘れられません。

『原子野』
私が最も心を惹かれる絵です。先日、友人の画家が亡くなり、骨を拾うまで付き合いました。人間は呆気ないほど「物」 なんですね。ここには物の世界が広がっています。
『原爆の図』をヒューマニズムだけで考えるのは間違いです。物としても捉えている画家がここにいます。これは骸骨だけで す。この絵は、ものすごく恐ろしい絵です。虚無しかない。何の音もない。歩けば骨が砕ける音しか聞こえない。何の救い もない。虹もかからない。ただ原子野です。この原子野が地球上を覆う日が来ないように願うだけです。

『南京大虐殺の図』
日本軍が行った最大の犯罪の一つが南京大虐殺です。昭和12年、日本軍は中国に侵攻しました。その勢いは当時の日本人の心を沸き立たせました。翌年12月には南京を攻略します。松井大将が馬に乗り南京に入城するニュース映画を僕は何度も見ました。花電車や提灯行列も出ました。
そしてその軍隊は南京で、子どもを殺し、女たちをレイプし、機関銃で一般市民を殺しました。被害者は中国側の発表で三十万人。この数字は大袈裟だという説もありますが、客観的にそれに近い虐殺があったのは事実です。
アウシュビッツに匹敵する日本の大虐殺です。丸木夫妻はそれを描きました。右翼が時々ここに来て取り外せと言い、ぼくも脅された事があります。

『水俣の図』
経済成長する日本が垂れ流した公害で多くの人が犠牲になりました。それが水俣病です。
夫妻は水俣を何度も訪れ犠牲者たちと会いました。ですからこれは写実です。
日本人は敗戦からよくここまで豊かになったと言えますが、そのために人がどうなってもいいという風習を生んでしまいました。そして、この歴史は、根をたどれば皆同じ、水俣と原爆は違うと言うかもしれないが、結果的には同じである、そう丸木夫妻は考えたんです。

最後に言いたいのは広島に原爆がなぜ落ちたかです。これだけは正確に知って頂きたいと思います。
1945年2月、ヤルタ島にチャーチル、ルーズベルト、スターリンが現れました。終戦も近づき、スターリンは「数ヵ月でベルリンを落とせる」と自信を持っています。ルーズベルトは「我々は日本に手間取っている。ベルリンが落ちたら、すぐ北中国から南下してくれ」と言いました。スターリンは「三ヵ月欲しい」と言いました。それがヤルタ会談です。
しかし、アインシュタインらの力を借りて原爆ができました。なぜ彼ほどの人が力を貸したのかというと、ドイツが作っているという情報が入ったんです。ドイツより早く作らなければ世界が滅茶苦茶になる。それが当時の学者の良心だった。
原爆ができてアメリカの考えは変わりました。ベルリンが陥落したのが5月6日、三ヵ月でソ連軍はこちらへ来る。その前にアメリカは日本を制圧する必要がある。
なぜなら戦争が終わると社会主義国と資本主義国の対立、冷戦構造がクローズアップされます。アメリカは社会主義国との戦争の準備のために原爆を落としたんです。それ以外に理由はない。原爆が落ちたから戦争が終わったと言う人がいますが、とんでもない話です。これだけは明確に捉え直さなければなりません。
アインシュタインは戦後、ここまで力を持つとは思わなかった、このままだと地球は滅びる、と言っています。彼ほどの天才が原爆に手を貸した。すべて政治です。国家という暴力装置が作った仕組です。
それをあののんびりした農民作家の丸木位里と赤松俊子が気づいたんです。
最後に描いた『地獄の図』では、二人が地獄に落ちていく絵を自分たちで描いています。私たちは戦争を止める力もなかった、それでこんなことになった、と自分を責めている。それが二人の最大の良心です。
戦争責任というより、僕たちは戦後責任の中を生きています。しかし我々はいまだにそれを果たしていません。事態は悪い方へ向かっている。これから多くの子どもたちの命が失われていく、その前兆が毎日伝えられているのが現状です。
こういう事を、『原爆の図』の前でこそ皆さんと話し合いたくて、今日は参りました。

ヨシダ・ヨシエ
1929年生。美術評論家、丸木美術館元理事。
『丸木位里・俊の時空』(青木書店)他著書多数。

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リレーエッセイ//12
菅原憲義(丸木美術館評議員)
日光市の小杉放庵記念日光美術館で、03年8月29日、「平和を願う朗読の夕べ」が開かれた。5年前に市民で結成した朗読 グループ「山ならし」が演じた。
第1部は「わたしたちは忘れない広島、長崎 夏のあの日を」。私のルポ『遺言―丸木位里・俊の50年』を題材に、 峠三吉や原民喜の詩、大田洋子の小説など、被爆を表現した文学も取り上げた。
第2部で、私も丸木夫妻を取材した思い出を話した。宇都宮市のギター演奏家西村弘氏第1部で演奏し朗読を盛り上げ、 第3部でも独奏した。
構成・演出を担当したのは、市民劇団を指導している脚本家江藤寛さん。入場料700円にもかかわらず、大勢の市民が 来てくれた。
日光では、02年3月、米国のイラク攻撃に反対して、市民が古代ギリシャ喜劇「女の平和」の朗読会をカトリック教会で 開いた。米国の市民運動家が「3月3日、世界で一斉に上演しよう」と呼びかけていることに賛同した。「女の平和」は、 戦争に明け暮れる男たちに、女たちがセックス拒否を“武器”に立ち上がり、戦争を止めさせる物語。
続いて3月29日、カトリック、プロテスタント、輪王寺(天台宗)、日光修験道、立正佼成会が協同で「平和のために祈る つどい」を開いた。
9月からは毎月1回祈りコンサートを開いてきた。キリスト教、仏教など宗教、宗派、信条を超えて市民が参加。教会音楽の 専門家のほかに、僧侶や山伏が、オルガンを弾き、ほら貝を吹いて演奏、市民劇団が宮沢賢治作品を上演した。今年5月で 続いたコンサートの世話役をしてきた主婦(56)は「仏教が圧倒的に強い日光でこのような企画ができたことは、今の世界に 象徴的な意味がある。祈って平和が来るわけではないが、互いに他を尊敬しながら、各自が具体的な行動をやることで、 平和へ近づけるのではないか」と。

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