原爆の図丸木美術館 HOME
利用案内 原爆の図 企画展 共同制作 丸木スマ イベント 美術館クラブ パネル貸出 アートスペース
Shop 友の会 FOR PEACE 略歴 美術館の四季 おもなあゆみ 美術館ニュース Links  美術館データ





美術館ニュース一覧に戻る


2004.7.23.発行 第80号

役員・評議員改選

私たちの「原爆の図」 小沢節子

リレーエッセイ・12/菅原憲義


役員・評議員改選
6月に行われた理事会・評議員会において、任期満了に伴う役員及び評議員の改選が行われました。また7月3日に行われた 理事会で、水原孝理事長と針生一郎館長の再任が決まり、常務理事には片岡健理事、万年山えつ子理事が就任しました。 また長い間に渡り地元の理事として活躍してくださった田口弘さんが勇退され、顧問に就任しました。
退任された方々にはこれまでのご尽力に深く感謝しますとともに、今後とも丸木美術館を応援してくださいますよう、お願い いたします。
7月3日に行われました理事・監事・評議員懇親会には8名の新任の方を含め、約30人の役員・評議員が集いました。 出席者でもある鈴木倫子さんを中心に準備がされ、心地よい午後の風に吹かれての手作りの会になりました。 その席で今後の丸木美術館を支えていく決意を皆さんにお話しいただきましたので、その中から抜粋して紹介いたします。

理事長挨拶 水原孝
新しく役員になられたみなさんと初心に返って美術館を今のような混迷した状況の下で意味のある、意義のあるものにしたい。 これはみなさん、志は同じだと思います。
私は「真実を貫き通せばあの戦争(十五年戦争)のような馬鹿なまねをしないですんだ」という考えで朝日新聞社に 入りました。後に筆を執らせてもらえなくなって、会社を辞めようかと思いましたが、非常に影響力のある、プログレッシブ だという錯覚をもたれている会社、その罪の多いことを自覚しない会社の中にあって、読者に対して償いをしなければ いけない。それが原爆展だというふうに思い、位里・俊先生にお会いして出品を依頼した、それが始まりでした。それから 30年がたちました。
みなさんのように志ある方に今日ここに来ていただいて一緒に仕事ができる。こんな幸せなことはないと思います。それぞれ 経験や知恵を出し合っていただいて、この美術館に一人でも多くの人に来てもらえるような企画をする、あるいは外に 向かって展示会等をやっていくということで、何とかしてこの状況の中から我々が生きている誇りを持てるような世の中を つくるために力を合わせていきたいと思っております。
館長には針生先生がおられて、様々な反戦平和の美術展企画をしていただいている。役員もそれに協力しているわけです けれども、さらにそれを発展させていきたいと思っていますのでよろしくお願いいたします。

館長挨拶 針生一郎
(「Oh No! 報復戦争詩画展」の時に)350名ほどの画家と詩人に呼びかけ、180人くらい出してくれました。その時に事務局 からは通信費で(企画の)予算を使い果たしてしまったと言われ、これは美術館という名に値しないものすごい低予算で やっているところなんだとわかりました。それで何とか私の在任中に東松山市立というような公立美術館に持っていけないか と思いました。
ただ今は地方自治体も赤字で苦しいものですから(公立館に)購入予算も企画予算もない。(芦屋市立美術館の例などを 考えると)公立美術館には理念も何もなく持て余して、できれば手放したい潰したいと考えている時期ですから、公立に 持っていくのにいい時期ではない。そうすると大変困難だけれどもボランティアで何とか知恵をしぼってこのまま運営している 方がいいかな、公立になればそれだけ制約が多いという面もありますから。そう私自身も考えるようになりました。
これは私一人の中の独り相撲でありまして、みなさんにお話しするようなことではないかもしれないのだけれど、どうも 周囲の状況が経済的にあまりいい状況ではありませんから、何とかみんなで持ちこたえていくほかないというふうに思います。 ぜひお力を貸していただきたい。

近内篤雄(理事)
某社団法人の事務局におりまして29年間やっております。新しい別な視野からの考えをできるだけ生かしてこの美術館の発展 に力一杯がんばっていきたいと思います。

関谷興仁(評議員)
ものづくりをやっておりまして去年こちらで展覧会をやらせていただきました。美術館の経営はすごく大変です。その辺を これから一緒に考えていきたいと思っています。

菅原憲義(評議員)
朝日新聞北埼玉支局時代に戦後50年企画で丸木夫妻を取り上げ、2年ぐらい、85回連載して『遺言』という本にまとめました。 どんなお手伝いができるかわかりませんがよろしくお願いします。

田島和子(評議員)
針生館長には長い間お世話になっており、私は銀林理事の教え子なんです。インドのラマチャンドランさんという絵描きと 知り合いなんですが、その方が丸木さんとも知り合いで、そんなこともつながりがあるのかなと思いお引き受けしました。

小川佳江(評議員)
大学時代に朝日新聞社主催のキャンプのボランティアをしておりましてそのご縁で参りました。一般の感覚で何かお役に 立てれば、好奇心の旺盛な仲間もいますので、そういった面で美術館のことを広めていけたらなと思います。

森田睦子(評議員)
丸木先生は世界中回って、この東松山の唐子の都幾川が一番いいとおっしゃいました。私は唐子に住んでおりますのでとても 気に入りました。仲間に入れていただいて良かったなと思います。

上田海南子(評議員)
比企教祖から塚越さんに代わって出ております。私たちの組合旗は位里さん俊さんの絵です。埼玉の先生たちに会員になって もらう窓口になりたいと思っています。いい方法を教えてください。

斉藤喜子(評議員)
YWCAで長く活動しておりまして、毎年夏に中高生と一緒に「ヒロシマを考える旅」をしております。若い人たちに伝えて いきたいと思っております。

ページトップへ


私たちの「原爆の図」 小沢節子
2004年5月5日 丸木美術館開館記念日講演抄録 
私は10年程前に池田20世紀美術館をはじめ戦後50年の回顧展などで 「原爆の図」を見て、そしてこの美術館を訪れました。
それから少しずつ「原爆の図」や丸木夫妻について調べるようになり、一昨年に本を出しました。
本を書きはじめる前に、基本的な文献や文章を読み始めた頃のことです。1972年朝日新聞社『幽霊 原爆の図世界巡礼』 (丸木俊著・絶版)という本に、石牟礼道子さんの序文が寄せられており、これが私にはとても不思議な文章に思われました。
「埼玉県東松山の林の上の空は、そらごとのようにうつくしく、そこは丸木夫妻のあの、妣たちの国です」―ここでは 美術館が都幾川のほとりの桃源郷的たたずまいとして描かれ、位里さんと俊さんが仙人か翁媼のように描かれています。

ご存知のように石牟礼さんは、水俣の公害の実相を伝える際に、椿の国の浄土の風景と二重写しにして語ることのできる、 そうした言語世界を構築することのできる人です。しかしその後、一層不思議な文章が続きます。
「わたくしは東松山の、『原爆の図・丸木美術館』の、あの暗く無限に広い部屋を出たり入ったり、屋根裏にもぐりこんで、 制作室を探検したりいたします。心の中はいつもひとりで、あのやさしい幽霊たちの前に、足を投げ出し、膝を組んで 座っているのです。ここはどこの広野かしらん…。なんとまあ、ひとりひとり、やさしい幽霊さんたちだろう、ひょっと すると丸木俊さんは、幽霊さんたちの悲母さまかもしれないな、と。するとわたくしは、逆さになって垂れ下がっていたり、 赤んぼを抱いていたり、そのような母子を運んでいる男の幽霊たちが、もう好きで好きで、親しくてならなくなってくる。 そこでいろいろと、幽霊たちと話をし、許されない筈のにんげんたちが許されて、自分もつい、許されたような気になって、 外に出ると、景色がまたもやぱあっと陽転し、丸木さんたちの国の、陽の当る歴史の野原がそこにあり、お地蔵さんがいるか と思うと、埴輪や羅漢さまが長々とのびて寝ていらっしゃる。」
この序文には「本書によせて 妣たちの国のこと」という題がついています。妣(はは)という字には、特に、亡き母という 意味があるということです。ですから、この題は「亡き母たちの国のこと」と読むのかもしれません。石牟礼さんは、 1972年の丸木美術館を、桃源郷というよりも、浄土、あの世そのものとみていたという気もします。
あるいは幽霊として描かれた被災者の姿を「亡き母」という言葉で表現したのだとしたら、その言葉の響きに漂う懐かしさ、 いとおしさと先の文章も呼応してくるのかもしれません。
死んだものたちへのいとおしさや共感、時には生きている人間より死んだ者たちに親しみを感じる心の働きがあるという ことを私が分かってきたのは、この何年か、「原爆の図」にはじまり、原爆や戦争で死に、あるいは身近なものを失う体験を した一般の人たちの遺した絵や文章に触れることが多かったということがあると思います。

20世紀という時代は、こうした体験者を人類史上かつてない規模で生み出した時代だった訳です。 広島・長崎に限っても、被爆して死んだ人の数は数十万ともいわれます。数字が漠然としているのは、いまだに正確な人数が わからないからです。軍関係者や朝鮮人労働者、連合国軍の捕虜も含めてどれだけの人間がいたのか、彼らの被爆の実態も 十分には解明されていません。さらに放射能の影響はその後も被爆した人々を蝕み続けています。
こうして、何十万という人が様々な形で原爆を体験しました。その体験の中心にいるのは瞬間的に溶解・蒸発し、自身に何が 起きたのかを知るまでもなく死んでいった人たちです。「原爆の図」第一部「幽霊」はそうした人を描いた作品です。 その周囲には何十万という様々な生と死の体験が積み重なり、うち広がっています。
正確に言うならば、被爆した人の数だけ、異なる被爆体験があります。また、後に救援活動などのために残留放射能を浴びた 入市被爆者は、広島だけで8万人とも10万人とも言われています。さらには、身近な肉親が被爆した人たちにとっても、 人生に深くかかわるものとしての原爆体験があるでしょう。
ところが、生き残って体験を語る側の問題として考えたとき、これは容易なことではありません。 もちろん語り部の体験談など何十万件という証言や記録が残されていることも事実です。けれども、少しでも広島・長崎を 知る人であれば、そうした体験を語り始めることがいかに精神的な労苦を要することかはもちろん、語られてきたことと同じ か、それ以上に、語られない記憶が存在すること、語ることを拒否してきた体験者の存在があることをご存知でしょう。
同時に、沈黙してきた人々が半世紀以上心に秘めてきた記憶を語り始めるという出来事にも私たちはめぐりあいます。 最近でも80、90歳という年齢になった人たちが自らの原爆体験を初めて絵画で表現する「被爆市民の絵画」の募集が行われ、 TV番組や本になりました。イメージとして体験を伝え残そうという試みは興味深いものです。言葉で伝えるのとは全く 異なるものがそこから見えてくる、あるいは画面の中に描かれないことが描かれないことによってかえって深く伝わる ということがしばしば起こります。
こうした人たちは時には絵の中に文字を書き入れ、身振り手振りで絵の解説をしながら、あらゆる表現手段を使って伝えよう とします。その際、彼らは自分の絵を作品として評価されたいとは望まないという、逆説的な事態が生じます。

今日はそうした作品については多くは触れませんが、丸木夫妻に関係した直接体験者の絵として位里の母・スマさんの 「ピカの時」という絵と、位里の妹・大道あやさんの爆心地風景の絵をご覧になってもらおうと思います。
あやさんの絵は2000年に描かれた連作中の一作の爆心地の絵です。制作の過程はTV番組や本にもなりました。彼女は見事な 草花や生き物を描く画家ですが、爆心地の風景を描く段になって、ついに描けなくなり、一旦は描いた作品を鉛筆で 書きなぐるようにしてぐちゃぐちゃにしています。TV番組ではその時の、甦って来る記憶に動揺する様がよく捉えられて いました。
彼女にしてみれば失敗作なのですが、何とも迫力のある絵だと私は思います。本来であれば巧みに花や生き物を描くあやさん が技術を発揮できなくなってしまう。彼女の心の中の爆心地の風景はいまだに荒涼として、容易に足を踏み入れることが できないと思わされます。
一方、スマさんの絵は1950年頃、丸木夫妻が「原爆の図」を描き始めた様子をそばで見ながら、自分も絵筆をとった頃の 作品です。これは直接体験者の描いた原爆の絵として時期的にかなり早い作品といえます。
スマさんの絵の特徴として、絵の中を色面で区切るという構造の作品が多いのですが、この作品でも右隅に描かれた毛布を 被った兵隊らしき被爆者たちが、色面で区切られた道を山へ逃げていくように見えるし、黒い色面の部分で死んでいく 人々を、水色の色面のなかの生き残った人々が眺めているようにもみえます。そこにはスマさん自身かもしれない老女らしき 人物も描かれています。しかも夢の中の出来事のようなこの画面の左上には「からす」らしき巨大な黒い鳥が人々を見下ろし ているという、「原爆の図」のその後の展開を先取りしたような不思議な作品となっています。
あやさん、スマさんに代表される被爆市民の絵は、彼らの固有の体験、心の世界であって、私たちは容易には感情移入 できないし、「私たちの絵」として他人が安易に精神的に所有してはいけない、そういう種類の表現だと思います。 少なくとも私は体験者の作品を前にしたときは、傍観者に過ぎない自分の立場を強く自覚しながら、それでも彼らが 伝えようとすることに耳を傾け表現を受け止めたいと思うのです。

では丸木夫妻の「原爆の図」はどうなのか。
「原爆の図」は、体験と非体験、語られたことと語られなかった沈黙のはざま、体験者の共感と拒絶のはざまで生まれ、 多くの人のまなざしにさらされてきた絵画です。そして丸木夫妻は厳密な意味での原爆の直接体験者ではありません。 かといって、まったくの非体験者というわけでもない、自らもまた広島で残留放射能を浴びた入市被爆者であり、焼け跡と 死臭の中で、被爆した親戚や知人の介護や救援活動に当たった体験も持つ訳です。
つまり「原爆の図」は、たまたま原爆を垣間見てしまったプロの画家である丸木夫妻が、親族や知人から聞いた当日の 体験談や様々な伝聞、松重美人や山端庸介が撮影した被害写真等の資料をもとに、原爆投下直後の惨状を再構成した 絵画作品なのです。いいかえればこうした微妙な距離があってはじめて丸木夫妻は1950年の時点で表象が可能になったとも いえるでしょうし、そうした対象からの距離がなければ人は必ずしも過酷な体験の記憶を表象・表現することはできないの です。
そしてこのことが、実は、あやさんやスマさんをはじめとする多くの体験者たちが遺した被爆市民の絵画や体験談と 「原爆の図」の決定的に違うところかもしれません。つまり、こうした「原爆の図」の構造自体が、半世紀にわたって多くの 人が「原爆の図」に物語を見出してきたことを可能にしたのであり、今でも私たちは「原爆の図」のなかにいくつもの物語を 見つけ出すことができるのです。
直接体験者たちの表現、記憶の表象の作業は大きな意味を持つものですし、これから研究や評価も深められていくと 思います。ただ、それが正面から評価されるには、あるいは当事者が表現できるようになるには、時間や精神的な距離が 必要なのです。そう考えると、戦後いち早く表現された「原爆の図」の新たな意義も、また改めて考え直すことができるかも しれません。
私たち非体験者と直接体験者との間に、容易に超えることのできない、超えてはならない深いギャップがあるとすれば、 丸木夫妻と「原爆の図」は、その裂け目に橋を架ける役割を果たしているのではないでしょうか。そしてそのような役割を、 芸術の、そして芸術家の役割と言わずして、何と呼ぶことができるのでしょうか。
私たち生者が死者を弔うとき、実は私たちが死者たちに生かされている、あるいは実は死者たちに弔われているのかも しれない。そんな風に考えると、果たして「原爆の図」の幽霊たちが、この21世紀の現在の世界に生きる私たちを許して くれるかどうか、そんなことさえ、今の私には考えられてなりません。

こざわ・せつこ 評論家・丸木美術館評議員
著書『「原爆の図」描かれた〈記憶〉、語られた〈絵画〉』(岩波書店)

ページトップへ


リレーエッセイ//12
菅原憲義(丸木美術館評議員)
日光市の小杉放庵記念日光美術館で、03年8月29日、「平和を願う朗読の夕べ」が開かれた。5年前に市民で結成した朗読 グループ「山ならし」が演じた。
第1部は「わたしたちは忘れない広島、長崎 夏のあの日を」。私のルポ『遺言―丸木位里・俊の50年』を題材に、 峠三吉や原民喜の詩、大田洋子の小説など、被爆を表現した文学も取り上げた。
第2部で、私も丸木夫妻を取材した思い出を話した。宇都宮市のギター演奏家西村弘氏第1部で演奏し朗読を盛り上げ、 第3部でも独奏した。
構成・演出を担当したのは、市民劇団を指導している脚本家江藤寛さん。入場料700円にもかかわらず、大勢の市民が 来てくれた。
日光では、02年3月、米国のイラク攻撃に反対して、市民が古代ギリシャ喜劇「女の平和」の朗読会をカトリック教会で 開いた。米国の市民運動家が「3月3日、世界で一斉に上演しよう」と呼びかけていることに賛同した。「女の平和」は、 戦争に明け暮れる男たちに、女たちがセックス拒否を“武器”に立ち上がり、戦争を止めさせる物語。
続いて3月29日、カトリック、プロテスタント、輪王寺(天台宗)、日光修験道、立正佼成会が協同で「平和のために祈る つどい」を開いた。
9月からは毎月1回祈りコンサートを開いてきた。キリスト教、仏教など宗教、宗派、信条を超えて市民が参加。教会音楽の 専門家のほかに、僧侶や山伏が、オルガンを弾き、ほら貝を吹いて演奏、市民劇団が宮沢賢治作品を上演した。今年5月で 続いたコンサートの世話役をしてきた主婦(56)は「仏教が圧倒的に強い日光でこのような企画ができたことは、今の世界に 象徴的な意味がある。祈って平和が来るわけではないが、互いに他を尊敬しながら、各自が具体的な行動をやることで、 平和へ近づけるのではないか」と。

ページトップへ