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2002.7.19.発行 第74号

初期「原爆の図」の特質と日本巡回展の意味(2)/小沢節子

リレーエッセイ・6/市川一郎


初期「原爆の図」の特質と日本巡回展の意味(2)
小沢節子(丸木美術館評議員・早稲田大学講師)
前号に続いて美術運動史研究会ニュース52(2001.12.13.発行)より、日本巡回展に関わる箇所を抜粋し、紹介します。
この発表は同研究会第46回例会で行われました。
なお、小沢節子さんの『「原爆の図」描かれた〈記憶〉、語られた〈絵画〉』が、七月に出版されます。
(1)はこちら

俊の語りの定型化
こうして初期「原爆の図」巡回展はともかくも大きな反響を呼び、多くの人が集まった事実があり、 その観客動員力が運動に利用されたということも事実です。
ただ、なぜ数十万から百万という単位の人が、それも一時の現象にとどまらず数年間にもわたって絵の前に集まってきたのか と考えると、恐らく現在では想像できない形で学生や労働組合などさまざまな草の根的な組織の働きが活発に機能していた であろうという要素もありますし、初期「原爆の図」自体の持つイメージの力抜きには答えはでないでしょう。
さらにそのイメージの力を巡回展で十二分に引き出したのが、俊の、後にはヨシダヨシエをはじめとする多くの人によって 担われた絵解き・語りの力だったのではないか。
正確にいえば絵と語りの合体によって巡回展における初期「原爆の図」は成り立っていたのではないかと思われるわけです。
俊の語りがどのようなものであったかは、説明文にもなっている彼女が書き残した文章から推測するしかないのですが、 ひじょうに面白いものです。
例えば、彼女の話し言葉をそのまま書き留めたものとは厳密にはいえないまでも、一九五二年の『画集・普及版』の説明文は かなり初期の形を残していると思われます。
第一部「幽霊」では、「幽霊」に描かれたのはほとんど女の人ですが、あれは誰かということを彼女は一人一人具体的に 状況説明するわけです。
それは、第三者の語りで始まったはずがいつの間にか死んでいく当事者に主語が入れ替わったり、男になったり女になったり と、主語は定まらないし、何人もの声で語られるものでした。
そうした複数の主観性で語り、語りながら涙を流したりしたのではないかとも推察されます。
身体全体を駆使して語られる独特のパフォーマンスであったに違いないと思います。
声に出して読んでみるとひじょうに調子のいい語りで、そのリズム感まで考えると浪花節や講談、紙芝居、あるいは 無声映画の弁士といった大衆的口承芸能の表現を想起します。
私は最近、これは彼女が浄土真宗の寺に育ったことに関係があるのではないかと考えるようになっています。
浄土真宗のお坊さんはみんな話が上手です。彼女の語りは、僧侶の講和とか地獄絵の絵解きを連想させます。(中略)

こうした宗教的な追悼と巡礼としての側面をもった巡回展の語りについては、河田明久も触れています。
河田はそれが政治的な言説と結びついていくありさまを次のように述べています。
「『原爆の図』について語ることは過去の戦争を呪うこと、呪うことによって犠牲者を悼み、悼むことで非戦の誓いを 新たにするという、あまりにも”正しい”努力の同義語となる。発表の年から全国を巡回し始め『民衆からあれ程の共感と 支持を与えられ』た〈原爆の図〉のことを『美術ジャーナリズムが黙して語ら』ず、『画壇も亦「原爆の図」について敢えて 語ろうとしな』かった、という批評家・徳大寺公英の一九五三年の指摘は、発表後わずか三年にして〈原爆の図〉が絵画から 政治的言説へと変貌していたことを教えてくれる。……巡回展は、ひとつひとつが祈りの場であると同時に誓いの場、 言葉の本来の意味でいう”出開帳”であって、そこに享受・観賞といった不謹慎な態度がおおっぴらに入りこむ余地は ほとんど無かったに違いない。」(丹尾安典・河田明久『イメージのなかの戦争』岩波書店一九九六)。
私は”出開帳”であったという河田見解に、もしかしたらそうかもしれないと最近は同意しつつあるのですが、もう少し、 どういう祈りの場でありその祈りの意味するところは、と考えてみます。
こうした語りは何より、最初に述べたような集積された体験の断片が、歴史的社会的なコンテクストを持ったものとして 再構成されることを意味するだろう。そしてこれらの断片が、言語化され物語となることで体験者たちのこうむった苦難に 意味が与えられ、そうしたときに観客は彼らの個人的な体験を分かち合う手がかりを見出すことができる、と考えるわけです。
巡回展の会場で観客が体験したのは、まさにそうした絵の中に描かれた者たちの苦難を分かち合う体験だったのではないか。 初期「原爆の図」が巡回展で人々の心をとらえた秘密の一端は、そういうところにあるのではないかと考えるわけです。
こうした俊の語りが繰り返され定型化し説明文ができて、彼女以外の人が説明文を読んで絵解きの役割を担うことが可能に なっていく、そうしたときに、小さな絵本の『ピカドン』に対比していえば、大きな絵本としての「原爆の図」が成立した といえます。(中略)

社会的な意味の獲得
被爆体験の分かち合いとでもいうような巡回展での営みによって、夫妻が集めた個別のストーリーは次第に人々の物語 となり、やがて50年代の国民の物語になります。
ただしそれが「焼津」とか「署名運動」といった作品にすぐに結びつくわけではありません。
観客は単純に「原爆の図」を受け入れて反戦平和を誓ったわけではないようなのです。
俊の回想を読んでも「語りを聞きながら観客は怒る人もいるし黙りこむ人もいる」といろいろな反応が書かれています。
彼女は一生懸命泣かそうとする、死んだ赤ん坊の話などをして話しながら彼女も泣き観客といっしょになって泣く、 泣くことによって理解しあうみたいな節もあるのですが、中にはこんなことはあり得ないとか、そんなはずはないという 反発も出る、そういうことも回想しています。
恐らく一般の観客にとって巡回展はイメージと語り解説によって絵の中の原爆体験を追体験する場でしたが、それだけでなく 50年代初めですから、観客のほとんどすべてはまだ生々しい戦争体験を抱えていたわけであり、ここでは観客一人一人の 戦争の記憶が喚起されたに違いないのです。
つまり「原爆の図」を受容した側の反応はそれぞれの戦争体験の記憶によって落差があったと思います。
そしてそれは必ずしも一方向への政治的言説化、反米文化運動やヒューマニズムに基づく平和運動といった方向のみでは とらえきれないものだったのではないでしょうか。
それについて、ヨシダヨシエの回想の文章があって、「原爆体験がどういうものなのかということを絵画という手段を 通して、その重大な手がかりをひらいてみせたことに、人びとは驚き、恥じ、苦痛をかくそうとしないで、このいつ果てる ともない移動展を守ってきたのであった。憎しみもさることながら、私はどれほど多くの観客の表現の中に恥じらいを みいだしてきたことか。それが私を辛うじて支え、そうしてそのあとに続く四、五十個所の旅をつづけさせてきた のであった」(『丸木位里・俊の時空』)。
ヨシダヨシエはどちらかといえば草の根的でありながら平和運動のシンボルとして「原爆の図」を掲げていこうという運動の 中に当初はいたわけですが、みずからの方向付けの中にすら容易には一元化され得ない観客の反応があったわけです。
河田のいう「『原爆の図』について語ることは過去の戦争を呪うこと、呪うことによって犠牲者を悼み、悼むことで非戦の 誓いを新たにするという、あまりにも”正しい”努力の同義語となる」という事態が最初から存在していたわけではない、 観客は苦痛や恥じらいさえ見せたわけです。
こうして初期「原爆の図」は同時代の美術批評家からは批判され、美術ジャーナリズムや画壇からは黙殺されながらも、 広く大衆の反響を呼び多くの観客を巡回展に集めました。
さらに描かれたイメージ、俊の語りにたいしてさまざまな反応を示す観客と作者の応答さえも組み込むようにしてこの図は 連作化していったのでした。

初期「原爆の図」のこういう内実は、おそらく大衆性ということができると思いますが、この大衆に働きかける力については 1950年代の批評家がまさに批判したところです。
「原爆の図」の叙情性、被害者意識の強調、伝統的な地獄絵の型、ひじょうに類型的な描写は前近代的な精神を反映している と、針生一郎、織田達朗、花田清輝らからのたくさんの批判があるわけです。
そうした批判された要素が大衆に働きかけ支持を呼び起こしたともいえるし、巡回展会場で語りとともに披露された 「原爆の図」が大衆観客一人一人の戦争の記憶を喚起するようなストーリー性を色濃く持ち、同時に彼らの体験をはるかに 超える現実の被爆体験を想像させる力を持ったからこそ人々をひきつけたのでしょう。
初期「原爆の図」がそうした力を持ち得たのは、そこに多様な体験の断片が集積されているからです。
ただし観客の感情移入を呼び起こす叙情性であるとか、多くの人に働きかける大衆性こそが同時に「原爆の図」のその後の 軌跡を決定したともいえます。
そこに込められたさまざまな感情が一つの方向に設定されるとき、つまり特定の感情が言説化されるときにはそれが スローガンとなりプロパガンダとなります。
いちばん顕著なのは非戦闘員の女・子ども、被害者としての弱者のイメージで、戦後の日本人の多くが安心して感情移入し 加担できるシンボルへと容易に転化します。
被害者としての戦争体験の共有を核とする戦後日本人の平和意識があるとするなら、それが1950年代の広い意味での国民的な 平和運動を支える思想にもあって、そういうものと「原爆の図」の大衆性・叙情性が重なっていきます。
運動が「原爆の図」を必要とするし、「原爆の図」もそうした運動に働きかけていく、それが同時代のものをテーマに 書くことに反映されていきます。
「原爆の図」は平和運動の中でシンボル的な役割を果たし、原爆の悲惨を訴える社会的な存在として言説化し、この時代に 形成された日本人の平和観を表象するものとなっていきます。
やがて1970年代のアメリカ展を一つの契機に、作者自身が他者の存在を認識することによって「原爆の図」は新たな展開を 見せていきますが、その後もこうしたイメージの定型化のゆえに、初期「原爆の図」の可能性については十分に再評価されて はこなかったように思います。
今回私が初期「原爆の図」を取りあげたのも、そうした理由からです。

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リレーエッセイ//6 ねずみじょうど
市川一郎(丸木美術館理事)
何年か前、有楽町マリオンの朝日ギャラリーでの「臥竜美術展」のとき、はるばる北海道の僻地から出てきた 猪風来さんが同じ会員の金山明子さんに「位里先生の描いた絵本に『ねずみじょうど』っていうのがあってね、 絵はとってもへたくそなんだけどね、いいんだよこれが」と話していた。
『ねずみじょうど』は言ってみれば水墨画の巨匠による素朴派風の作品である。
これがあの水墨画の前衛にふさわしい雄渾・深遠な「臥龍梅」の作者と同じ作家の手になるものかと一瞬疑う人も いるかも知れない。
しかしそこに丸木位里という人物の大きさが示されていると同時に、芸術というものの不思議な一面が示されている ように思う。
『絵ハ誰デモ描ケル』の著者赤松(丸木)俊子も、自らは素朴派風の絵は描かなかったが、この芸術の秘密の もうひとつの面を知り尽くしていたからこそ、一級の素朴派絵描き丸木スマを発掘することが出来たのだろう。
小さい子供たちや、知恵遅れの子たちの絵の無類の楽しさを解ろうとしない人には、ピカソの絵の素晴らしさも、 竜安寺の枯山水の石庭の美しさも解らないのではないか。そうして、さまざまな芸術作品や非芸術作品の楽しさを 享受するということは、ちょうどおいしいと思って食べる果物がビタミンなどの大事な栄養素を摂ることになるように、 人生の大切な栄養素を摂取することになるのだと思う。

※『ねずみじょうど』福音館書店刊 780円 美術館で扱っています。

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