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2002.4.19.発行 第73号

初期「原爆の図」の特質と日本巡回展の意味(1)/小沢節子

リレーエッセイ・5/栗原克丸


初期「原爆の図」の特質と日本巡回展の意味(1)
小沢節子(丸木美術館評議員・早稲田大学講師)
美術運動史研究会ニュース52(2001.12.13.発行)より、日本巡回展に関わる箇所を抜粋し、紹介します。 この発表は同研究会第46回例会で行われました。
 なお、小沢節子さんの『「原爆の図」の発見(仮題)』が、今夏出版予定です。
(2)はこちら

占領下の巡回展
観客とのレスポンスによって「原爆の図」が連作化していく、そのレスポンスの現場が全国巡回展だったのですが、 巡回展の実態はほとんど解明されていません。
「原爆の図」にはいま詞書きがつけられています。
一部「幽霊」ならばその状況説明があって、丸木美術館では説明文が絵の前に置かれています。
この説明文の元は巡回展での俊の語りです。最初は俊が、後にはヨシダヨシエをはじめとする多くの人が全国巡回展で 「原爆の図」の前に立ってこういう話をしてきました。
そのことの意味を考えたいと思います。

巡回展に至るまでの経緯は、わかっている限りでは、1950年2月に日本アンデパンダン展で「原爆の図」第一部となる 「幽霊」が発表されます。
日本美術会内部での必ずしも好意的なものばかりとはいえない批評とは別に、観客の反応はひじょうにあった といわれています。
「幽霊」は2月の時点では「8月6日」というタイトルでしたが、3月に個展を開いたときには「原爆の図」という題になります。
さらに8月には3部作が完成して鉄道会館(資料によっては交通会館ともあります)で完成記念集会が開かれ、 そこでこれをもって全国を回ろうというという巡回展の「決議」がされたという記事があります。
「決議」とはどういうものだったのか不明ですが、そこから巡回展が始まったといわれています。
それは「原爆の図」オリジナル、「原爆の図」コピー版、「原爆の図」写真版、原爆被害の写真パネルなどの資料を展示して、 占領下で統制されていた原爆被害をいち早く広範に国民に伝えるものでした。

当時丸木夫妻は初期3部作の実物大のコピー(再制作)を作りました。
実際にはお弟子さんたちが作りそれに手を入れたものらしく、いま広島市現代美術館にありますが、 その展示会も開かれたらしいです。
写真版の展示会も各地で開かれました。
これについては青木文庫の『画集・普及版「原爆の図」』という1952年にでた一番早い画集があり、 それに大山郁夫の「1950年から51年にかけて64万9千人の観客を動員した」との記載のあとに、 「さらに1951年8月からは『原爆の図』写真版の展覧会が開かれている。現在(1952年8月)、 10班が各地でこうした展覧会を開いている。写真版展覧会はすでに140万人以上の入場者に深い感銘を与えている」 と書かれています。
まだ公民館など十分整備されていなかった時代であって、展覧会場は百貨店、大学の講堂、お寺、旅館、 天理教のお堂という例もあります。
鶴見の造船所や清瀬の結核療養所でも開かれています。写真版の展覧会にいたっては職場単位で開かれたようにも 書かれています。
さらに「原爆の図」とは別に、各地で原爆被害の実態を伝える原爆展が学生などによって全国で開かれました。
有名なのは京都大学の原爆展です。
原爆展は必ずしも「原爆の図」が出ているわけではないですが、写真版の「原爆の図」や再制作版が出たことはあった。
そういうものと重複しながら「原爆の図」巡回展も全国各地で同時分散的にやられていたようです。
京都大学の原爆展では、原爆展の方が先にあって丸木夫妻の「原爆の図」も出してもらうことになり、 このときに「虹」と「少年少女」が初展示されたのでした。

「原爆の図」展は、最初は夫妻中心に51年の暮れぐらいまでやって、その間にパネルだったものを軸仕立てにしています。
夫妻が第4部、5部の制作に戻ると、美術評論家のヨシダヨシエが友人の画家野々下徹と二人で51年12月から 53年10月くらいにかけて全国を回ったと、これはヨシダの記録として残っています。
その記録によるとその間に96回以上80万近い人が見たといいます。ヨシダは自分がもって回ったのは本物の 「原爆の図」だったといいます。
彼らの巡回展が終了したあとも各地で巡回展は56年まで続いていて、そこになると誰がやっていたのかまったく今は わかりません。
この間53年6月には3部作が俊と一緒に海外に出ます。
それから64年まで3部作は日本にありません。
56年になると残りの7部も合流して、10部作が世界巡回展にまわります。なおその間52年には今井正の映画「原爆の図」が 製作されていて、そこには「原爆の図」を描く夫妻の姿と友に巡回展のようすも記録されています。

全国巡回展の位置づけ
全国巡回展なるものの位置づけをしてみると。
まず第一に、そこでは、「原爆の図」は原爆被害の悲惨さを伝達するメディアとしての役割を果たしていたということが いえます。
写真版巡回展が堂々と語られていることが示唆するように、作者の意図はどうあれ、「原爆の図」は悲惨さを訴える記録性の あるリアリズムの絵画として展示されたのでしょう。
写真版であれ複製版であれ、写真の役割を代行するようなイメージの伝達がされれば良かったのだとさえ言えるかもしれません。
しかしそれがそのまま記録として観客に受容されたかというとそうでもなかったようです。
第二には、政治運動として側面があります。
「原爆の図」巡回展は必ず署名運動とセットになっていました。
絵をみて、俊やヨシダの話を聞いて、最後に署名をお願いします、あるいは募金をお願いしますと声を掛けられる というようなものだったようです。
その際の署名運動は占領下ではストックホルム・アピールへの署名や全面講和を求める署名で、独立後は再軍備反対、 米軍基地撤廃、徴兵反対、原水爆禁止などその時期に即した署名運動がされていたようです。
ヨシダの記録や話によると、「原爆の図」とともに原爆被害を伝えるパネルを展示する、そして「原爆の図」の絵解きと ともに例えば冷戦体制の始まりとしてのヤルタ会談・ソ連参戦・原爆投下の話から始めて、最後は、ソ連を中心とする 平和勢力と力を合わせ、私たちも弾圧に屈せず戦争のない平和な世界を目指しましょう、と結ばれるいわば占領下・ 講和前後の反米文化運動でもあったといいます。

この巡回展は誰が主催して担っていたのか、これが必ずしも明確ではないわけです。
京都大学原爆展の記録やヨシダの回想に見るように、ひとつには学生や労働組合員といった若い世代による草の根的、 自然発生的な運動という側面があり、また共産党、平和委員会による占領下の反米文化運動という側面もあり、 この両方があったようです。
巡回展は戦争体験に根ざす民衆意識と、冷戦体制確立期の共産党主導の運動が、「原爆の図」のイメージをめぐって せめぎあう場でもあったのではないかと私は考えています。
この共産党の主導については位里が、「平和運動を『原爆の図』でやろうということになった。共産党の運動としては もうできなくて」(つまりこのとき共産党は朝鮮戦争下で弾圧され中央委員会はばらばらになって地下にもぐったり 中国にいったりしているわけです)「平和運動という形で若い連中が『原爆の図』に集まってきた。 アメリカの占領政策でもその弾圧はできなかった」と回想しています。
これは彼の解釈ですが、それによれば、共産党が非合法化され分裂状態にあるなかで、平和委員会ができて「原爆の図」は その運動に使われた、あるいはその運動に乗って巡回展をしたということになります。
実際巡回展は共産党が提唱したストックホルム・アピール、ベルリン・アピールなどの署名運動の場としても機能していました。
先ほど挙げた青木文庫によれば、「このふたりの画家は日本におけるストックホルム・アピール700万、 ベルリン・アピール600万の署名獲得に大きな貢献をしたことは周知の事実であるほか、『原爆の図』写真による 小展覧会はいたるところの職場その他の地域に平和を守るアピールとともにおこなわれ、五大国平和条約署名 (ベルリン・アピール)を11万2千票、全面講和署名を8万8千票、その会場において獲得した」などの記述があります。
こうした功績が評価されて丸木夫妻は1953年に世界平和評議会から世界平和文化賞ゴールドメダルを受賞します。
俊は1953年にコペンハーゲンの世界婦人大会に出て、その後ブタペストにゴールドメダルをもらいにいくわけです。
これがその後の1950年代半ばからの世界巡回展の布石ともなります。
ちなみにこのとき大山郁夫夫妻が同行し、大山は一緒にブタペストへ、さらにそのあとソ連へいきスターリン平和賞を もらいます。
丸木夫妻は55年に世界平和評議会からの招待を受けて中国からソ連、東欧諸国など東西冷戦下で東側の諸国で原爆の図 巡回展を開催します。
その前に西ヨーロッパでも巡回展がおこなわれますが、こうして国際的な平和運動に組み込まれた世界巡回展が 始まるわけです。

一方でヨシダヨシエと野々下徹が二人で国内巡回展をしていた51年から53年の間の記憶・記録・回想を見ると、 ひじょうに草の根的・自然発生的側面をもっている。
彼らは共産党員ではなかったけれども平和委員会の指導の下で各地の共産党支部の協力によって巡回展を開催するのですが、 それから逸脱するような独自の展覧会もあちこちでやっています。
そこではおもに各地の大学生の協力が大きく、高校や大学のわだつみ会の活動などと一緒にやっていきます。
この時期は講和前後の逆コースの中で学園と警察との衝突が相次いだ時期で、巡回展もそういう警察の干渉にしばしば 巻き込まれたことも、当時の関係者によって回想されています。

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リレーエッセイ//5 痛恨の碑のことなど
栗原克丸(丸木美術館理事)
都幾川の崖上に建つ丸木美術館のあたりは自然が溢れていて、いつ来ても心地よい。
その駐車場の北隅に「痛恨の碑」はある。しかし、それを見ることもなく帰る人がいるのは残念である。
1923年、関東大震災の時、東京から逃れてきた韓国朝鮮の人達、240名を埼玉北部で虐殺した不幸な事件を忘れないために 痛恨の思いをこめて建てたという位里さんの文が記されている。
1986年5月5日の除幕式にあたっては「私たちの胸深く喰い入っている教育は差別思想であり、君に忠を、 上は尊く下は賎しい。民族主義、拝外思想、例えて言えば訓練されたシェパード犬のような人間に作り出されていた のではないでしょうか」とものべている。
「水俣の図」が完成して間もない頃、私は位里さんから、この虐殺事件について問われ参考資料がほしいといわれ、 たまたま私も会員だった日朝協会埼玉県連合会編の『かくされた歴史―関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件』を 差し上げたことがある。その節、足尾鉱毒事件と共にこの虐殺事件を描きたいともおっしゃっていたのであった。
しかし、それは絵には描かれず「痛恨の碑」となって建てられた。それはなぜかとお聞きすることもなかったが、 「原爆の図」第14部「からす」ですでに朝鮮人被爆を描いていること、あるいは官憲におどらされた住民たちによる 犯罪という二重の痛恨の深さに描き難かったのではないかとも思って来た。
関東各地での朝鮮人犠牲者は6千人を超えたのだ。

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