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2001.1.8.発行 第69号

美術館から平和の声を/理事長・水原孝 館長・関屋綾子

いざ旅だとう 「原爆の図」以下の共同制作へ/針生一郎

追悼 高木仁三郎さんを偲ぶ/万年山えつ子

リレーエッセイ・1/小寺隆幸

来館者の声〜2000年感想ノートから


新年の挨拶/美術館から平和の声を
丸木美術館理事長 水原 孝

21世紀を核も基地もない、われわれが安心して暮らせる平和な世の中にしたい。
新春を迎えて誰もが抱く希望である。亡くなった丸木位里・俊両先生の悲願だった。
お二人は1980(昭和55)年7月に出版した『原爆の図』のあとがきで、こういっている。

原爆やめて下さい。戦争やめて下さい、と、描きつづけて30数年。原爆はやまるどころか増えるばかりです。たくさんの国が原爆を持つようになりました。大きいのや小さいのや、核弾頭ミサイルとか、原子力潜水艦とか、という言葉が毎日耳に入って来ます。
いつ又戦争が起きるかわかりません。どうしたらよいのでしょう。玉つきゲームのように忽ちにひろがって、原爆で人々は傷つき死んでいくのでしょう。
どうしたらよいのでしょう。

この問いかけは、核廃絶への見通しがどんなに暗くなろうとも、それにめげず戦争のない平和な世界の実現に向かって、粘り強く、一緒に力を合わせて立ち上がろう、というわれわれに対する訴えなのである。
その回答は、お二人の画業と行動に示されている。
米空軍の広島、長崎原爆投下による惨害を「原爆の図」15部で明らかにし、さらに75年に「南京大虐殺の図」、77年「アウシュビッツの図」、79年「三国同盟から三里塚まで」、80年「水俣の図」を描いた。
ヒットラーの下でドイツのファシストが、天皇制軍国主義の下で皇軍が何をしたのか。反省をこめて、われわれがあのアジア太平洋戦争で、ピカの被害者であっただけでなく、中国をはじめとするアジアの人民に惨害を与えた加害者であったことを描き、国民の目を開かせたのである。

『原爆の図』は図版「原爆の図」(全14部)をのせた小冊子で、講談社文庫に収められたが、俊先生は「幽霊に憑かれて」という文章の中で、「からす」を描くきっかけとなった石牟礼道子さんと会った日にかわした話を書いている。
「毒ガス変じて農薬となる。農薬変じてベトナム枯葉作戦の毒薬となる。平和な村へくるときは除草剤に化ける。原爆もヘドロも水銀もひとつ穴のむじなですものね」
といって「手におえぬ大化けものを退治しなくっちゃならないのです。息の根を止めるまで、わたしたちは死んではならないのです、と話しあいました。というより、わたしのほうがしゃべって……」。
1970年7月には「原爆の図」アメリカ巡回展を、さらに78年にはフランス巡回展を開いている。
むろんそれに平行して国内各地で「原爆の図」展を開催している。
「5分」の時間も無駄にせず、平和のために献身し、精力的に描き、行動し、大化けものの息の根を止める前に、亡くなってしまった。

位里・俊両先生の志を受けつぎ、丸木美術館の活動をしなやかで、活き活きとしたものにしなければならないと思っている。
開館記念日の5月5日、8月6日には、被爆者が描いた被爆の絵、被爆した作家の林京子さんや竹西寛子さんの講演、映画「原爆の子」「明日」「黒い雨」の上映。
故香月泰男さんの「黒い太陽」「朕」などシベリアシリーズや、無言館の戦没画学生の遺品との交換展。
蘆溝橋の近くにある中国人民抗日戦争記念館、南京や柳条湖にある記念館に「南京大虐殺の図」「原爆の図」を展示し、犠牲となった中国の人々の鎮魂を祈る展覧会の実現。
友の会や役員の皆さんの意見をおききして、「狂気」から「正気」に世の中を引き戻すために、しなければならないことは山ほどある。皆さんのご協力をえて美術館を平和のよりどころにしたい。

丸木美術館館長 関屋 綾子

さまざまな出来事を抱えた20世紀を送り、新しく21世紀を迎える。地球を囲む大自然そのものは、ただ無言で時を刻んでいるに過ぎないのに、踵を接して我々を襲ってきた出来事は、あまりにも大きく、又恐るべきものであった。
今ふり返る過去の事件の中で、その最たるものは核の脅威の出現であった。
しかも人類史上はじめて経験された恐るべき出来事は、地球広しと言えども、その中の小さき国日本のみに限り起こった原子爆弾投下の大惨事であった。

過ぎ去った20世紀の最大出来事としてこれ以上のものは、全世界のどこにも無い。
1945年の8月6日の広島、そして8月9日の長崎の2回に亘る核爆撃。
人類にとって核兵器による攻撃とは如何なるものであるのか、それを本当に知る者は広島、長崎でこれを受けた人々以外には、世界のどこにもいない。
これは攻撃を与えた人々にも本当には分かるはずがない。
新しき21世紀の世界の歴史は進んでいく。これを如何なる日々にしていくのか。
それは私達の手の中に託された来るべき新世紀への責任であろう。
広島を故郷とされた、今は亡き丸木位里、俊両先生の激しくきびしい、しかし深く広い静けさを湛えたお心を思う。
あの慄然とする原爆の画を描きながら、同じ年代に、限りなく静かな風景を描かれている、先生方の画業を思う時、今、新しき世紀を迎え、私達は限りなく深く広い、しかし平和への燃えさかる想いを心に湛えつつ、同じ想いの世界の友らと、一日一日を手をたずさえて共に歩みたいと思う。その想いこそが丸木美術館の心であろう。

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いざ旅立とう 「原爆の図」以下の共同制作へ
〜『普及版・完本 原爆の図』より(小峰書店刊)
針生一郎
アラン・レネエの映画『ヒロシマ、わが愛』で、対独協力の傷痕を抱いて広島を訪れたフランス女性が日本青年と愛しあい、 「君は広島で何を見たの?」「原爆ドーム、原爆資料館を見たわ」「いや、君は何も見なかった、何も」と問答をくり返す。
いま、その青年の言葉が、丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」について何度か書き、また語ってきたわたしにも、 いや、丸木美術館や国内外の巡回展でこの連作を見た人びとにも、そのままあてはまるだろう。
少なくとも「原爆の図」全十五部は、反戦・平和の砦として短絡的に語られることはあったが、 そこに何がどう描かれているかすら正確にみきわめられ、論じられてこなかった。
夫妻の数年をへだてた死後、とりわけこの画集の出版を機に、わたしたちはあらためて「原爆の図」をみつめ直し、 とことん味わい、読み解く遠い旅へと出発しなければならない。

また、丸木位里が「水俣の図」を巡る公開シンポジウムで、「わしはもともと共同制作がいやなんじゃ。 わしの方が俊より十歳上だから早く死ぬじゃろうが、万一、俊の方が早く死んだら、 わしは共同制作を全部焼きすてるつもりじゃ」と語ったことは知られている。
2000年5月、丸木俊追悼のシンポジウムで、位里の晩年「全部焼きすてるのは本気か」とたずねると、 「あれは冗談だよ」との返答だったことが報告された。
だが、わたしは「水俣の図」シンポジウムのパネラーで、位里が「これは冗談じゃない、本気だよ」とくり返すのを聞いた。
だから、「全部焼きすてる」決意も本気なら、波紋が大きく何より俊が悲しむので、おいそれと焼却できず、 「冗談さ」といったのも本音。
位里はそういう多面的人間だったとわたしは思う。

じっさい、土本典昭の映画『水俣の図物語』をみると、丸木俊が画面の一画に人物群像を描いてやや説明的になると、 位里が床にひろげた紙にバケツで墨をぶちまける。
わたしは何と乱暴なと思い、俊も「ひどいですよね」と回想したことがあるが、乾くと墨の濃淡のうちに 人物をとりまく状況=空間が現出するのにおどろいた。
制作過程にもはげしい葛藤をはらみながら、夫妻が絶妙のコンビとして半世紀つづけた共同制作の意義も、 まだ十分つきとめられてはいない。

発端は原爆投下4日後の広島に、位里が両親の安否をたずねて赴き、10日後に俊も着いて半壊した家の修理と、 被爆者救援に1カ月ほど滞在したことにある。
その2年後に夫妻は原爆惨禍の共同制作を決意して、デッサンをはじめたが、占領軍検閲で発表できず、 検閲廃止後の1950年、ようやく赤松俊子著の絵本『ピカドン』と「原爆の図」初期3部作が発表された。

 『ピカドン』にくらべて初期「原爆の図」では、町や村の生活情景が消えて被爆者群像だけに集中する。
「原爆の図」第1部は「幽霊」と題されたように、衣服を一瞬に焼きはらわれたまる裸の男女が、 くずれおちる皮膚をボロのようにぶらさげ、瀕死の瀬戸際でうごめく姿を描く。
それでも、戦前裸体を描きたくてミクロネシアやパラオ島に滞在し、戦争中裸体描写を禁圧されてきた俊にとって、 被爆者の惨禍を描くことは目撃者の使命感とともに、裸体を描く解放感にみちていたことがわかる。
まして、敗戦直後には人間の回復が合い言葉で、戦前の抽象画家もねじ曲げられ、物体のように積みあげられた人体を 描いたが、原爆に関しては占領軍の検閲がきびしく、きのこ雲の表現は許されても人体におよぶ惨禍は 発表できなかった背景がある。
だからこそ、ケロイドをおびて死につつある裸体群像は、大きな勇気と解放感をもってタブーをふみこえなければ、 描きとめられなかっただろう。

第2部「火」は炎に焼かれて死に、あるいは逃げまどう人びと、第3部「水」は争って川に入る群像や水底に 折りかさなる死体を描く。
わたしは「原爆の図」初期3部作が発表されたとき、裸体讃美とむごたらしい死の影の短絡を感じて、 被害者意識の通俗的情緒におおわれた地獄図絵などと批判した。
だが、今にして思えば、日本の南京大虐殺やドイツ空軍のスペイン内戦に干渉するゲルニカ爆撃が、 女性や子どもを含む多くの非戦闘民を殺した点で、世界の非難の的になったのをはるかにこえて、 一発で20万人を殺傷する原爆は最初から都市全体の壊滅をねらっており、だれでも直接には被害者意識で対応するほかない。
しかも、いずれも死んだ子、母子像、無惨な変貌におどろく女同士、女を救い出そうとする男など、 いくつものエピソードを絵巻物のように異時同図法で並列しており、丸木俊も原爆の被爆は西洋の遠近法のような 一元的視点では描けないと語っている。
わたし自身今ではアジアのポスト・モダン美術は、マンダラ的、ポリフォニー的な重層構造をもつべきだと考えており、 その点で初期「原爆の図」が位里の主導によるのか、仏教的地獄図絵の伝統に近づいたのも当然だと思われる。

「原爆の図」はさらに第4部「虹」で、被爆した生者と死者にそそぐ放射能を含む黒い雨と美しい虹、 第6部「原子野」で、骸骨の山と亡霊のあいだをさまよう裸の生き残りの群れ、第8部「救出」で、いつまでも燃える 火のなかから大八車やモッコで生き残りを運び出す作業を描く。
そして第9部「焼津」では、ビキニ水爆実験の死の灰を浴びた第五福竜丸の帰港を迎える漁民たちの怒り、 第10部「署名」では、杉並区の主婦たちからはじまった原水爆禁止の署名運動、第13部「米兵捕虜の死」では 広島被爆死者のなかにいた23人の米兵、第14部「からす」では、死体のひきとり手がないため、 烏がついばむまで放置された朝鮮人の死後差別を主題とした。
個々の絵のできばえはともかく、丸木夫妻が制作を通して思想的に深化していったことは疑いない。

したがってその延長で、広島・長崎への原爆投下は日本軍の南京・マニラ大虐殺など、加害殺戮に対する当然の報復だ、 という主として外国からの批判を受けとめ、夫妻が「南京大虐殺の図」や日本と同盟関係にあったナチス・ドイツによる ユダヤ人虐殺の象徴としての「アウシュビッツ」、さらに戦後にもつづく戦争ともいうべき「三里塚」や「水俣の図」に 進んだのも当然である。
「南京大虐殺の図」はほとんど俊ひとりの手に成るといわれるだけに、中央で軍刀をふるって捕虜を惨殺する日本将校に 服装の誤謬や無理な姿勢がみられる。
だが、戦後日本人の回避できないこの主題に、まっこうからとりくんだ絵はほかになく、多くの日本人美術家にはみえず、 描けない主題だったのだ。
三里塚、水俣などの戦後史の重要なトピックも、丸木夫妻だけによって絵画化されたことはみのがせない。

丸木夫妻の共同制作の最後は、太平洋戦争最後に唯一国で戦闘がおこなわれ、米軍上陸後、日本軍によって住民が殺され、 あるいは自決を求められた点で、加害と被害の両面がまじりあう「沖縄戦の図」である。
わたしは沖縄でこのシリーズを常陳する佐喜眞美術館を訪れ、高校生の修学旅行の立ち寄り先となって館長みずから 連日作品を解説したうえ、沖縄戦について語りあう姿に感心した。
そういえば、小沢節子が「原爆の図」の絵本『ピカドン』との関連を指摘したように、丸木夫妻の共同制作は いずれもつよいメッセージ性をもって人びとに語りかけ、人びとと対話するための手がかりとしての性質をもっている。
この点でも、受け手不在のひとりよがりな表現におちいりがちな日本の現代美術のなかで、きわだって異質な作品群と いわざるをえない。
夫妻とも亡き現在、どうしたらそういう制作をうけつぐことができるかが、わたしたちに残された課題だろう。

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追悼 高木仁三郎さんを偲ぶ
市民科学者として原子力利用に反対し続けた高木仁三郎さんを偲ぶ会が、 2000年12月10日、東京・日比谷公会堂で開かれました。
国内・海外から約2500人が集まりました。
会場では「高木仁三郎市民科学基金」への入会申し込み・カンパの受付があり、1664万1308円が集まりました。
高木さんが遺した約2000万円と、偲ぶ会当日までに寄せられた約820万円と合わせ、基金が運営されることになるそうです。
これにより高木さんの活動と遺志は、原子力資料情報室と、市民科学者の育成を目指す「高木学校」、 高木基金の三本柱で実践されることになります。
偲ぶ会では、高木さんと交際があった多くの人びとが高木さんの足跡と思い出を語りました。
高木さんには今年の5月、「丸木俊さんを偲ぶ会」でお別れの言葉をいただいたばかりでした (「丸木美術館ブックレット3」参照・通販中)。
高木さんと懇意にしていた方は丸木美術館関係者の中にも多くいらっしゃいますが、 今回は「高木さんを偲ぶ会実行委員会」の一員でもある万年山えつ子さんに追悼文を寄せていただきました。

私は高木さんとの出会いを想い出すと、いつも赤面します。 日本の反原発運動が初めて全国的に結集した、 あの2万人行動の頃でした。
『脱原発法署名』は略さずに脱原子力発電法……とすれば、12才位の子どもでも分かるのでは?  『核燃輸送反対』も核燃料……とすべきだと、まだ40代の私は高木さんに食ってかかったのでした。

新しい運動のあり方を考えるプロジェクトのパフォーマンスで、私は苦手な脚本書きをやらされていました。
文才のない脚本に文句もつけずに楽しそうに演じられた高木さん。
ある日、高木さんが1970年代に社会思想社から出された文庫本『見る月・見られる月』と 『閉じたせかい開いたせかい』という科学童話風の本を私にくださいました。
私は、又、又、赤面することとなるのでした。
何をかくそう、それはアルマジロを愛してやまない高木さんが、有馬次郎というペンネームで出版した本だったのです。
そんな高木さんに平気で色々な役をお願いしていたからこその赤面でした。

ガンを知られてからの高木さんは、初期の頃こそ迷われておいででしたが、次第にまわりの人々への心遣いを広げられ、 ご自身の最期を素晴らしくデザインされたのでした。
アトリエの仲間と、高木宅へワークショップの出前に行きました。
毎回楽しく話し、絵を描きました。昨年の丸木支援芸術祭にも描いて下さいました。
高木さんは丸木夫妻がお好きでした。
高木さんとパフォーマンスを演じた仲間が、俊さんを偲ぶ会で朗読をしたのを感激しておいででした。
その折に猪風来さんが描いた黒地に白ヌキの横断幕がお気に召し、自分の時もと頼まれましたので、 高木さんを偲ぶ会では私が看板を描き約束を守りました。
もう一つのノーベル賞といわれるライト・ライブリフッド賞を受賞された高木さんと、 ノーベル平和賞にノミネートされた丸木夫妻は、きっと天国で平和談義に花を咲かせておいでのことでしょう。
万年山えつ子(丸木美術館評議員)

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リレーエッセイ//1
小寺隆幸(丸木美術館理事、中学校教員)

20世紀が終わりました。 「子どもの世紀」(エレン・ケイ)と謳われ大きな進歩もありましたが、今もパレスティナの子らは銃で撃たれ、 チェルノブイリの子らは病におびえています。
日本の子らも自由ではありません。先の見えない社会の中で根無し草にさせられ、それなのに「子どもをたたき直す」 (教育改革国民会議の議論)というのです。
この答申で最も腹立たしいのは「単純な正義感」を否定している点です。批判精神をそぐ教育を目指しているのでしょうか。
現に新教科書から従軍慰安婦の記述が消えました。君が代への子供の素朴な疑問も煽動の結果とされ、 教師の処分が乱発されています。暗澹たる思いです。

でも何が出来るのかと落ち込む時、僕はあの「少年少女」(原爆の図第五部)を思い出すのです。
累々と重なる屍の中で絶望に打ちひしがれてもなおしっかり抱き合う二人の姿。 そこに世界中の様々な子ども達の姿を重ねながら、めげてはいけないと思うのです。
そして中学生と共に訪ねた時にこの絵の前でひょうひょうと語って下さった位里・俊先生の姿に今も励まされるのです。

さて昨年5月、俊先生を偲ぶ会でナターシャ・グジーさんがチェルノブイリの子どもとしての悲しみと願いを 切なく美しく歌ってくれました。
俊先生もほら貝を吹いて応援して下さったでしょう。
僕も甲状腺を手術したベラルーシの子をサポートしていますが、一生薬を飲み続けねばならないのに薬が足りないのです。
今年は事故から15年。「チェルノブイリ子ども基金」は病の不安と闘いながら希望を歌い続ける避難民の子らの合唱団 「チェルボナカリーナ」をこの4月に招き,全国で救援コンサートを行います。
ご協力を切にお願いします。
(東京講演:4月24日九段会館、地方公演問い合わせ「基金」03-5376-7897)

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来館者の声〜2000年の感想ノートから
◆Tさん( 8/16)◆
戦争をおこすきっかけになった国の政治を司る人たちも、きっと小学校の友だちにいわせれば「いいやつ」 だったに違いない。親の愛の中、友の親しみの中に生きてきたんだろうな。
しかしなんで人の幸をうばうことを考えはじめたんだろう? 
某国のトップは母国を神の国と言った。 あなたの神は人の幸いをうばうことをどう思っているのか?
大国の多くは、愛の神を信じている。「あなたと同じように隣人を愛せ」これは最も重要なおきてであると書いてある。
それぞれのトップが子どもの時と同じ気持ちで神様を見ていたとするなら、なぜ戦争をおこすのだろう? 
なぜ自分の豊かさのために原発を作るのだろう、なぜ環境を破壊するのだろう?
それは、自分が自分や家族や友だちだけしか見ていない姿の裏返しなのかもしれない。

◆無記名(8/19)◆
長崎の原爆資料館で絵を見て、あわててここへ来ました。
母がそういうことに熱心で、小学校の先生もとても熱心で、 自分で考えたりする前から、戦争のこと、原爆のことをつめこまれ、怖くて、おそろしくて、 「ひろしまのピカ」のあの赤を見るのもいやでした。考えたくなかった。
そうして自分で絵を描きはじめ、20才になって長崎の原爆資料館で丸木夫妻の絵を見て、絵として、 伝えるものとして、こんなに強い絵だったんだと驚きました。
それでもまだ受けとめきれていないような気がするのです。今日はとりあえず、帰ります。

◆M・Aさん(8/26)◆
大学に入ってから、日本全国色々な場所出身の人と友達になった。
仲の良い友達の中に広島出身、沖縄出身の子もいる。
友達の先祖やおばあちゃん、おじいちゃんが、こんな戦争を乗りこえた(潜り抜けてきた)のかと思うと、 なんてすごいことだ。命のつながりのもろくもあり強くもあるような不思議な気持ちを抱きつつ絵を観ていた。
今生きている人間の命のつながりにこれまでどれだけの危険、悲しみ、苦しみ……さまざまな感情が含まれていて、 それを私はすごいと思った。
命の重みを考えた。

◆無記名(9/19)◆
祖父が被爆しています。手帳はもらっていません。子や孫の結婚や、色々なことに差しつかえては、 という考えがあったらしい。
私が二才の時に亡くなりました。50過ぎでまだ若かったはずですが、体がボロボロで老人の状態であった、と。 診断書の病名は15もついたと聞いた。
祖父は戦争のことをまったく語らなかったらしい。おばあちゃんが聞くと怒ったりした。
やさしい祖父、 2才だったので記憶は二つしか残ってない。たんぽぽ畑を手を引かれて二人で散歩したこと、そして 「おじいちゃんにお薬ぬる」と祖父の足の傷跡に薬をぬってあげた気がする。
子どもにはショッキングな鮮明さで今も記憶に残る。祖父は怒るはずもなく「ありがとう」と言った。 原爆の傷だった。
父は健康だったが、両親は私を生むのを迷った。心配だった。私は生んでもらい、健康に20になっています。
原爆は他人のことと思えず、いつか広島にとうろう流しに行こうと思う。
放射能に……たまに怯えます(おそらく全然、大丈夫)。
平和を願う人びとと生きてゆきたい。死ぬまでに、 何かのため、誰かのために……。

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