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第63号 1999.4.25.発行

●丸木俊の軌跡

●実習生の卒論から

●広報委員会より


企画展報告
丸木俊の軌跡
この企画展に合わせるかたちで『丸木俊のことば』が近日中に美術館より発行されます。
『俊のことば』は幼少時代の思い出を記した「石狩平野」に始まります。
上京。モスクワ、南洋への洋行。
そして位里先生と出会い、結婚。
目まぐるしく変わる状況の中で、赤松俊子は実に生命力に溢れ、絵を描いています。

「南洋処々」に書かれているように、俊先生が滞在したパラオは、当時日本の委任統治領でした。
現地の文化協会の人は、「南洋といえば猛獣毒蛇が横行し、人喰い人種がいる」という認識を 多くの内地人が持っていることを嘆き、外国領南洋と日本の委任統治領南洋とは違うこと、 「要所要所の都と言ってもよい所では、完全に内地の生活ができる」のだと誇らしげに言います。

しかし赤松俊子はその「都」の 「デパートもあり、学校もあり、ホテルもある南洋」の風景を 「誠に美しく活き活きとした殖民地の文化的な風景である」としながらも、そうして「文化南洋を宣伝」 すると言いながらも、実際には茶褐色の女の黒光りする長いたくましい足に惹かれ、都からは遠い、 内地人のいない島へと入り込んでいくのでした。

人間の作り出す「文化」、地球上にすでに存在している「自然」。
この二つの要素が対立する場面に出会ったとき、赤松俊子が選んだのは後者であったのです。
後にアメリカ・インディアンと出会ったときに、俊先生はその美しさに触れるとともに、彼らの歴史、 現在置かれている現状を悲しみますが、パラオの島々でも、アメリカでも、あるいは三里塚や沖縄でもそうでしょう、 常に「すでに在る美しいもの」への尊敬を絶やさないのです。

ありのままの、自然体の人間や世界を愛すると言うこと。
のちに戦争、原発などの諸問題に触れる際にも現れる俊先生の姿勢は、この時すでに明確なかたちを持っていたのでした。
そうしてそこには強靱な意志と澄んだ情熱が見て取れるのです。
それこそが俊先生の柔らかさの素地。
確固たる精神の土台があるからこそ、しなやかにやさしく生きることができるのでしょう。

1999年正月、丸木俊先生は米寿を迎えられました。
丸木美術館では「赤松俊子・女絵描きの誕生」と、「丸木俊・義母スマの死に接して」という連続企画で、 半年に渡って、丸木俊の軌跡を追います。
そこで展示される作品は、そのまま世界が移り変わってきた軌跡でもあります。

そこから私たちが受け取るメッセージはどんなものなのでしょう。
人間という種の作り出した哀しみ。それを乗り越えて平和を愛する清冽な精神。美しいことごと。
そんな言葉になるようなことだけではないはずです。
そうしてその言葉にならないものを、自らで言葉に置き換えていく、あるいは言葉以外のもので表現することは、 これからの私たちに課せられた命題である、そんなふうにも思うのです。
(事務局・鈴木陽子)

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実習生の卒論から
大学の卒論が二つ届けられた。
『丸木俊 女としての視線の形成』 杉森繭子(女子美大藝術学科)
『「原爆の図」をめぐる社会的評価の変遷』 勝亦晴子(立正大社会学科)

二人は昨年丸木美術館で学芸員実習を行った。  

杉森さんは、女子美のなかでも十分な資料や俊論が存在しないことに疑問を感じ、実習が終わってからも、 丸木美術館の資料の整理やビデオの編集などを手伝ってくれた。
勝亦さんはかねてより準備してきた「女性と就労」の卒論テーマを急遽変更して、今回のテーマに取り組んだ。

この二人の他にも『丸木美術館の歴史』『丸木俊の絵本』などを卒論のテーマにした人達がいた。
この様なことは今までになく、丸木美術館に携わる者として、とても嬉しいことであり、 若い世代の間で丸木夫妻の画業や生き方、丸木美術館の存在意義などが、語られ、 卒論のテーマになったことは大変興味深いことであった。

それではどのような視点で取り上げているのだろうか。

杉森さんは、戦争を知らない世代としての戦争にかかわる二つの体験を、六歳のころに『ひろしまのピカ』に 出会ったことと絵本から広島への強烈な印象を受けたことをあげている。
そして広島に住む祖父母のこと、彼らは戦争中のことを話したがらない、また自分も聞くことができない。
だからといって戦争に無関心というのでもない。

杉森さんは、丸木俊が戦争をテーマに描きつづけ、さらに社会的弱者としての女や子どもを主題にしていることに、 強く興味を持つ。
その表現にひそむ思想がどのような俊の体験から生まれてきたのか注目し、丸木俊の自伝的ことばを読み進めていく。
そして、俊が「女の苦悩」から自分が解放されることに限界を感じているのではないかという。
それはあまりにも多くの虐げられた女たちを見てきたからであり、またそのテーマを描くうえで絶対必要であった 位里の存在があったからではないか。

共同制作の限界、それは女としての思いは制作の源でもあったが同時に弱さにもなったのではないかと 杉森さんはいうのである。
共同制作の限界については、八〇年代の山下菊二と丸木位里の対談が有名だが、簡単に限界と言えるのかどうかは 疑問が残る。
むしろテーマの共通認識のずれがどのように表現されているのかが興味深いのではないかと思う。

勝亦さんの方は『原爆の図』と社会の関わりあいに注目し、『原爆の図』に対する評価が時代の中でどのように 変化していったのかを、評論・感想文・新聞記事・雑誌などから、調べあげていった。

政治(政党)の思惑との関係、国内・世界巡回展の反響、ノーベル平和賞候補とそれ以後と、時代と共に移り変わる 『原爆の図』の評価を追っている。

美術評論家の批評としては、織田達郎、針生一郎、ヨシダ・ヨシエ三名の評論を紹介。
また、発表当時からの大衆の『原爆の図』に対する視点を感想ノートから分析している。
そのうえで、 どのような社会情勢下であっても変化しなかったのは『平和への想い』であったという。
しかし、『原爆の図』は特殊なテーマを持つがゆえに時代のうねりに翻弄されてきた。
そのため、たとえ今、社会的に認知されていたとしても、明日の社会のありようによっては全く分からない 不透明さを持っているという。

人々の脳裏から戦争の記憶が薄れる中、作者を失った後、『原爆の図』の存在意義が大きく変化していくかもしれないと 述べ、そのことが今、私たち次世代の課題であるとしている。

この卒論から感じることは、時代への危機意識であるように想う。
誕生からそうであったように、さまざまな政治的思惑の中で揺れ動いてきた原爆の図は、 これからもまた揺れ動いていくのか、または過去の芸術的遺産として封印されて行くのか。
勝亦さんの危惧が、最近の政治状況の中でいやに真実味を帯びてきているように見えるのは思い過ごしだろうか。
(事務局長・鈴木茂美)

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広報委員会より
戦後半世紀が過ぎましたが、先の侵略戦争への反省から軍隊を放棄した日本ですのに、戦争協力法などを作って、 確実に危険な方向につきすすんでいる昨今です。
こういう時代だからこそ、「原爆の図」をはじめとする、 丸木夫妻の名画を一人でも多くの方々に御覧いただきたいと願って、広報委員会も活動しています。

丸木夫妻のことは多くの人がご存じなのに、美術館についてその所在や道順がわからないのではということで、 同封の手軽な美術館紹介のパンフを作りました。最小限必要な情報をばらまくためのチラシです。

これまで、学校の先生、生協関係、労働組合などで、美術館とかかわりのあった方々には郵送し、お願いしました。
全国の「友の会」の方々にもご協力を呼びかけます。

お近くの美術館、平和資料館などにパンフを置いていただくとか、何かの集会で配っていただける時などご連絡下さい。
必要枚数をお送りします。なお、増しずりして広げていただければ嬉しいです。

ポスター作りの検討も進んでいます。どこに貼っても恥ずかしくないような優れたものを夏までには作りたいと 知恵をしぼっているところです。

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