原爆の図丸木美術館 HOME
利用案内 原爆の図 企画展 共同制作 丸木スマ イベント 美術館クラブ パネル貸出 アートスペース
Shop 友の会 FOR PEACE 略歴 美術館の四季 おもなあゆみ 美術館ニュース Links  美術館データ





美術館ニュース一覧に戻る


第62号 1999.1.1.発行 

●新年の挨拶/理事長 水原孝

●第3回平和博物館会議報告/館長 関屋綾子

●企画報告 大逆事件といのちの絵画展

●企画報告 岩崎巴人展−摩訶不思議のリアリズム−

●追悼 佐多稲子さん


●追悼 木村亨さん


新年の挨拶 平和への力
丸木美術館理事長 水原孝
明けましておめでとうございます。友の会の皆さんも、お元気で新春を迎えられたことと思います。

21世紀を前にして、美術館の運営に当たっている理事、評議員、事務局の職員は、心を開いて話し合い、 美術館をより充実したものにしたい、と努力しています。

先日も理事の一人が「理事会に出席すると、元気が出てくる」といわれるので「何故ですか」と愚問を発すると、 「私より年輩の理事が元気で、美術館のことに心をくだいている姿を目のあたりにすることができるからですよ」 という答えが返ってきました。
年輩の一人である私も美術館の会合に出ると、元気になって帰ってくる一人なのです。

出席者の皆さんが純粋で、位里・俊両先生の絵を大切にして、一人でも多くの人に見てもらい、 核も基地もない平和な日本をわれわれ自身のものにしたい、という気持ちが、発言の中に秘められている、と思うからです。

ささくれだったこの世の中で、言葉が通じるほどうれしいことはありません。
それというのも、亡くなった位里先生と俊先生の大きくて、あたたかい人柄と、平和を求めてやまない心を、 原爆の図、南京大虐殺の図、水俣の図、アウシュビッツの図に示した画業を敬慕している人々の集まりなのだからだ、 と思うのです。

美術館にかかわりをもってから三十年余りになりますが、一番ショッキングだったのは十数年前の八月六日の集まりに、 ベトナムの留学生が「皆さんは、あの戦争の加害者だった日本軍について語っていない。凶作だった時に、 日本軍は米を徴発し七十万人以上のベトナム人が餓死した。だから日本が原爆を落とされ降伏したときは、 ベトナム人は罰が当たったと喜んだという話を祖父や父から聞いている」と発言したその発言でした。

位里・俊両先生が残された仕事は、「アジア太平洋戦争で、日本軍が何をしたのか。 われわれが何をされたのか」を二十一世紀に伝える偉大な文化、歴史遺産だと思います。
美術館にきて、じっとこれらの絵を見つめるたびに、平和に生きる力と勇気がわいてくるのです。 ありがたいことだと思っています。

ページトップへ


報告
第三回世界平和博物館会議
丸木美術館館長 関屋綾子
1999年の初春を迎え、心から新年のおよろこびを申し上げます。
都幾川のほとりの丸木美術館も、新春を迎え、新しい年への希望と期待に静かなたたずまいを見せています。
新しい年がよりよき年でありますように、心から願っています。

昨年末に近い11月7日から4日間、第三回世界平和博物館会議(日本大会)が、大阪及び京都で開催され、 丸木美術館も招かれました。
主催の中心の役をとったのは、英国ブラッドフォード大学のピーター・ヴァンデン・ダンゲン博士で、 この方は3年ほど前に日本に来られた時、丸木美術館を見学し、非常に深い感銘を受けられた方です。

昨年第二回のオーストリーで開かれた世界会議には、当美術館も招かれ、袖井林二郎先生が代表として出席されました。 今回は館長の私と、袖井理事及び鈴木事務局長の3名が出席しました。

日本の中での平和博物館として35の館の参加があり、外国からの参加者も多数あって、 ノーベル平和賞の委員会からの参加もありました。
参加者は実に200人を超え、このように歴史をふまえて世界の平和を願う人々が、 かくも多数一堂に会して志を語り合う場があることに深く感動しました。  

袖井先生が「戦争を体験した我らそれぞれの持てる経験を持ちより、記憶のダムを造ろう」と語られましたが、 世界に唯一の核兵器の経験を持つ日本こそ、そして丸木先生方の原爆を描いた絵を持つこの美術館こそ、 その役割を果たし得る立場にあるものと信じ、私達の美術館の重要な役割を改めて深く感じました。  

前半の会場は大阪国際平和センター(ピースおおさか)、後半は京都立命館大学国際平和ミューゼアムでした。
なお外国参加者を主として、多くの人々が、さらに広島、長崎、沖縄へ足をのばし、佐喜眞美術館では 丸木先生方の書かれた沖縄戦の図に深い感銘を受けました。

記憶のダムの中から、世界のすべての人々に共通する、真の平和を求めて共に前進するために、 この丸木美術館の役割がいかに大きいかを痛感した次第です。

ページトップへ


企画展報告
大逆事件といのちの絵画展
『大逆事件といのちの絵画展』が終了しました。会期中7765名の入館者がありました。 貴重な絵画・資料協力していただいた多くの方々にお礼申し上げます。

多くの感想、アンケートも集約できましたので、その一部を紹介致します。 (本文下)

また会期中に行われた公開講座も、好評でした。講師の山泉進さん、野本三吉さんありがとうございました。

アンケートでは、年齢で半数以上を占める「10代」には小中学生が多く、非常に低い年齢層が多く回答しています。
また多くの方が死刑の存続と廃止を巡って率直な意見を書いてくださいました。以下、いくつかの意見を紹介します。

死刑廃止派
私は死刑は無い方がいいと思います。無期懲役も同じことだと思います。 でも、私がもし知り合いの人を殺されたりとかしたら、許せないし、難しいです。 でも生きる意味を考えることは必要だし、こういう絵画展はいいと思います。(10代・中学生)

悪いことをしても死刑はひどすぎると思う。 死んでしまえば罪の償いになる、といっているようなものだ。 あまりいいことだとは思わない。一日でも早く、地球が平和になることを願います。 (10代・小学生)

変な話。冤罪の判決を下した人達には、どんな刑が与えられるのだろう。 冤罪で死んだ人達の気持ちはどこへ行けばいいのか。 死刑はいらない。死刑は殺人ではないのか。 人は人を裁けない。そんなにおまえは偉いのか。 (20代・大学生)


死刑肯定派
昔はやりすぎって感じがするけど、今は甘すぎだと思う。 サリン事件とかだったら、そのために多くの人が死んでその後、残された人々のこととか考えると、 犯人は死刑にされるべきだと思う。死んだからって許されるものじゃないけど、罪の大きさをわかってほしいから。 (10代・高校生)

(死刑は)あってもよいと思う。自分でしたことの責任をとるということです。(60代・主婦)

その他の意見
その囚人の意見で、死刑か無期懲役かを決める。(10代・中学生)

難しい問題です。絵を見ると、その人が生きてきた反省や、自分の心のふるさとや現実を見ることができました。 でももし私が(私の家族が)被害者だったら、とても素直な気持ちでは見られない、恐ろしい絵と感じると思います。 (40代・主婦)

死刑者の絵は独特でとてもこれから自分たちが死ぬなんて思えないような、絵でした。 ボールペン、鉛筆でこんなに素晴らしい絵が描けるなんてすごいです。 (10代・高校生)

『大逆事件といのちの絵画展』 アンケート結果 回答96名
年齢
10代:56名 20代:11名 30代:6名 40代:9名 50代:3名 60代:5名 80代:2名 無記入:4名

企画展を何で知ったか
○丸木美術館に来て 17名
○学校・教師のすすめ 14名
○団体機関誌 9名
○家族のすすめ 9名
○情報誌 7名
○新聞 7名
○テレビ 4名
○ビラ 4名
○美術館ニュース 2名
○友人のすすめ 2名
○インターネット 2名
○その他 19名


死刑制度について(自由意見で回答)
○死刑廃止派 28名
○死刑存続派 6名

ページトップへ


企画展報告
岩崎巴人展−摩訶不思議のリアリズム−
水墨画26点からなる「摩訶不思議のリアリズム・岩崎巴人展」が終了しました。  

会期中の入館者は7110名。
10月1日付感想ノートには、「理解するのがむずかしく、でも私をゆかいにさせてくれました」とあり、 美術評論家の瀬木愼一氏は、「事物の真実を鋭く洞察した上で、ユーモアと愛情を込めて無碍に表現する人物像は、 類例のないもので、文字通り独自である」(岩崎巴人画集より)と記しています。  

10月10日野木庵では、僧侶姿の巴人さんによる公開講座が開かれました。
20名ほどの参加者を前に、位里さん、俊さんとの60年を越える親交、美術・世相・社会へのあくなき考察、 そして水墨画への想いを語ってくださいました。

『水墨画80年』  
水墨画には雲烟の境というのがある。「雲が深くて行くところがわからない」と白隠禅師は言ったが、それが無だ。 無に参入すること、これ以外ではない。
水墨画はそれに帰命する唯一なる日本及び東洋の道である。
                               (岩崎巴人画集より)

ページトップへ


追悼
佐多稲子さん 1998年10月12日死去 94歳
佐多さんにはたいへんお世話になってきました。とても寂しい気持ちです。  
ありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。

(丸木美術館名誉館長・丸木俊)

戦前のプロレタリア文学運動を代表する作家、佐多稲子さんの、短編「キャラメル工場から」 (1928年)をはじめとした、体験を元にした名作の数々は、世代を越えて人々の心に刻み込まれています。

1970年から85年には「婦人民主クラブ」の委員長を務められ、作家としての活動ばかりでなく、多方面に渡ってご活躍なさった、 心強い先輩でいらっしゃいます。
晩年、自ら書かないと決心し、宣言されたというエピソードは、佐多さんの凛とした生き方を象徴しているようです。

佐多さんには丸木美術館の評議員、後には顧問をお願いし、長きに渡って美術館を支えていただきました。 その間、有形無形を問わず、佐多さんにいただいた数々の志は、これからも丸木美術館の財産として大切にして いかなければなりません。

また、時代が移るにつれ、佐多さんの生、言葉は新たな相を見せ、たくさんのことを教えてくださることでしょう。

10月23日、渋谷区青山でお別れの会が催され、丸木美術館からも館長をはじめ、役員、事務局長が参加いたしました。
場所こそ葬儀場でしたが、祭壇が置かれる壇上には秋の森が再現され、一般の葬儀とはほど遠い、たいへん美しい会でした。

追悼
木村亨さん 1998年7月14日死去 82歳
木村さんの伴侶・まきさんよりお手紙をいただきましたので、抜粋して紹介させていただきます。 また「偲ぶ会」で上映されたビデオ「人権ひとすじ 木村亨さんを偲ぶ」をいただきましたので、ご来館のおりにご鑑賞ください。

私と夫、木村亨は、貴館の会員でございます。このたびの「大逆事件といのちの絵画展」の開催を とても喜んでおり、退院したらぜひ見に行こう、と楽しみにしておりました。その矢先の7月14日、 突然にあちらの世界に参りました。

木村亨は、横浜事件の被害者で、敗戦直後から裁判闘争を行ってまいりました。91年に最高裁から棄却されてからは、 国際的にも訴えたいと、3年間続けて国連人権小委員会へ行くなどの活動を行いました。 そして、今年の8月14日、横浜地裁に第三次再審請求をいたしました。

横浜事件は許せないが、何としても大逆事件の被害者の名誉回復をしなければ、といつも申しておりました。 「大逆事件の真実を明らかにする会」の会員です。
季刊『直』16号(82年)の「横浜事件とは何であったのか?」という文中で、木村は大逆事件の 「紀州グループの復権を求めて、出来ることならぼくたち市民の手で彼らの名誉回復のための復権式の ような行事を公式に開催したい旨を、川嶋君とぼくたち有志代表が時の新宮市長杉本喜代松氏に申し入れたのである」 と書いています。敗戦直後の混乱期のことです。
市長は「大逆事件だけは許せない」といったそうです。

位里先生は残念なことになりましたが、俊先生のますますのご健康と貴館のご発展を心からお祈り申し上げます。

98年9月26日 木村まき

ページトップへ