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大 津 定 信 展



2009年 117日−228


「命」と作家



大津定信は愛知県名古屋市在住の71歳の前衛書家・現代芸術家です。

「文明は資源の枯渇を招き、環境と心を破壊している。その弊害がもたらした恐ろしい核兵器は、無差別無抵抗の殺人、人類最大のテロの兵器であり、地上から絶滅させなければならない」と考えた彼は、広島の爆心地で採取した土や砂を使い、一貫して原爆をテーマにした作品を発表しています。また、2005年ドイツ・フュルト市立公園、2007年ニューヨーク国連本部前をはじめ、毎年8月6日には国内外で平和を願うパフォーマンスを行ってきました。

画面の上に被爆した土や砂を敷きつめ、自身の指や顔など全身を使って被爆者の姿をかたちづくる作品。「平和」の文字を同一の画面に日本語、英語、アラビア語など多数の言語で記す作品。あるいは大量の紙に「命」の字を書いて周囲を燃やし焦がす作品など、彼は力の限り全身でストレートなメッセージを発し続けています。

丸木位里・丸木俊夫妻の残した共同制作《原爆の図》を常設展示する丸木美術館において、これらのメッセージがどのように響き、新たな意味を持つことができるか、ぜひ多くの方に見届けていただきたいと思います。



大津定信―前衛書を遠くこえて   針生一郎

十字架と新月(17の言語による神話)
1950年代から60年代にかけて、フランスにおこった〈シニフィアン・ド・ランフォルメル(不定形の意味するもの)〉やアメリカの抽象表現主義が世界中に波及するとともに、日本のいわゆる前衛書も欧米人のエキゾチシズムに投じて、カリギュラム(筆触)中心の非具象絵画としてはやされたことがある。

当時は主として現地の要望で、サンパウロ、ピッツバーグ、カッセル、バンクーバーなどの国際展や、ブリュッセル、シアトル、モントリオールなどの万国博にも前衛書が招待、あるいは出品され、1953年ニューヨーク近代美術館、55、56年ヨーロッパ巡回展、1960年フライブルグ美術館、61、62年ドイツ巡回展、63年バーデンバーデン美術館、同年オーストラリア巡回展、64年アメリカ巡回展と、日本の書だけの展覧会も頻繁におこなわれた。
むろん、展示された作品にはあくまで文字に固執する書と文字性を離脱した書があったが、もともと漢字や仮名などの文字の読めない欧米人には一様に「絵」として受けとめられ、じゃからずも「書と絵の蜜月時代」が現出したのである。

国内で前衛書の源流をたずねると、明治時代に清の書家楊守敬が舶載した拓本法帖一万数千冊に学んだ日下部鳴鶴に師事し、自身も中国古法帖の研究に専念して、1930(昭和5)年その複製出版のため「書学院」を設立しながら、弟子たちにはたえず型を破ることを求めた比田井天来にゆきつく。
天来の死後、1940(昭和10)年、上田桑鳩を中心に宇野雪村、大沢雅休、大沢竹胎、岡部蒼風、金子鴎亭、手島右卿らの弟子たちが公募団体として「奎星会」を結成し、戦後の1951(昭和26)年には、京都在住の森田子龍が「奎星会」を離れて、井上有一、江口草玄、関谷太平、中村木子らと公募団体「墨人会」を結成し、機関誌「墨美」を発刊した。こうして生まれた前衛書の二大拠点は、どちらも内外の非具象画家との交流に熱心だったから、わたしも早くから機関誌に寄稿を求められるなど若干のかかわりをもった。
だが、蜜月時代の終わる1960年代後半には、吉原治良や滝口修造がすでに指摘していたことだが、わたし自身前衛書にある限界を感じはじめた。それはとりわけ文字を離れた書では、内にこもる情念を発散してカタルシスに達しようとするため、絵としてみれば日本的フォーヴや初期表現主義の域を出ず、新しい空間の意識が形成されないことである。

ところで1975年ごろ、わたしは筑波大学への再編が進んでいた東京教育大の最後の授業で、日展書部門の重鎮ながら視野広く寛容な上条信山同大教授に依頼されて、「モダン・アートとしての書」について半年間講義した。
その講義の終わるころ一人の女子学生から、有名な前衛書家の塾に通っているが、師は滅多に現れず彼の書の印刷された複製を臨書するだけだから、つまらないと訴えられた。
そこでわたしは、「近代詩文」の書で知りあった詩人小野十三郎の斡旋で、東京にたずねてきて以来親交のある伊賀在住の榊莫山に紹介した。
あとでその女子学生からきた手紙によると、無所属の莫山は弟子もとらないが、月に一回奈良の東大寺の一室を借りて、各自の書をもちより合評する会をひらくという返事で、とりあえずそこで書家の肉声を聞けるので満足だという。

わたしはそれから美術史をさかのぼって、つぎのような認識に達した。
近世のとりわけ文人画では「詩書画三絶一如」などといわれて、そこに書かれた詩(あるいは散文の詞)の内容、その文字表現としての書、そのイメージをあらわす画がそれぞれすぐれた上に、一体となって共通のメッセージを伝えることが理想とされた。
ところが明治以後になるとこの三者が別々のジャンルとして引き裂かれた。
文明開化の反動としての国粋主義のなかで、岡倉天心やフェノロサによってつくりあげられた「日本画」は、東京美術学校など官学、私学の主軸教科となったが、そこでも圧倒的に優勢な南画や文人画はなぜかしめ出された。
一方、早くも1882(明治15)年に出た洋画家小山正太郎の「書は美術ならず」以来、書は芸術としての懐疑論にたえずさらされたせいか、美術学校などの教科からはしめだされ、東京教育大や東京学芸大などに書道科がおかれ、専門の教授が配属されたのは、いつからにしろ特例にあたる。
したがって、一般に書家は私塾を設けて弟子たちの収める月謝で生計を立てながら弟子たちには到底読めない漢詩漢文の自書したものをひたすら臨書させる。
これが近代書の形骸化と堕落の人間で、読めない書を形だけ模写する以上、東京美術学校長を追放された岡倉天心をしたって弟子たちが創立した日本美術院と同様、精神主義か技術主義かの二者択一のおとし穴をまぬがれない。
だから同じころ、書道年鑑なるものに寄稿を求められ、わたしは今述べた理由で明治以後の専門書家は前衛書家も含めて、副島蒼海、会津八一、草野心平、勅使河原蒼風ら、広義の文人の書におよばないと書いた。そのタイトルを「くたばれ、書壇のえせ芸術家たち」としたが、できあがった本が届いてみると、編集者が勝手に「書道界変革のために」と改題しており、わたしは苦笑するほかなかった。

前衛書に戻って、わたしがフォーヴ的限界をこえる例外としてみとめてきた人びとをあげておこう。
比田井天来の息子南谷は、古法帖複製のため東京高等工芸学校印刷工芸科に学んで、「横浜製版研究所」を設ける一方、毎年個展をひらいてさまざまの材質と技法にわたる実験を発表した。
1956(昭和31)年以後、英語を本格的に身につけて国際交流に精を出し、アメリカの大学で書を教えながらヨーロッパ各地でも巡回講演し抽象表現主義やアンフォルメルの絵画に多くを学んだ。
こうして1960年代後半には、ベニヤ板に鳥の子紙を貼って同色のリキテックスを塗りかさねた下地に、古墨で描いて失敗しても墨汁を集めて再使用し、ユーモアを含んだ顔のようなイーメージができるとアクリルのマットニスで上塗りする技法に達した。
篠田桃紅は戦後丹下健三の建築、剣持勇のインテリアと結びついて、文字を離れた水墨非具象の壁面によりその瀟洒な詩情とディスプレイの才能が注目された。
1956年渡米して数年滞在し、アメリカ各地やヨーロッパで個展をひらく一方、同時代の絵画から本格的に学んで余白を大きく生かす空間感覚をみがきあげ、帰国後陶板レリーフ、屏風、緞帳、鉄筆や刀によるコンクリートのレリーフ彫りなどにも手をひろげた。

前述の森田子龍は1970年ごろ、心境の変化で古墨の研究にうちこんだが、その前に「墨人会」を脱退した井上有一は文字と筆墨の原点に復帰した。
とはいえ、小学校教員をつとめて校長、定年まで達した彼には、宿直の夜、学校の物置で仮死体として発見され、7時間後に蘇生したという東京大空襲の原点もある。
そこに還ることはやがて一字書に徹して、何百枚と紙にかきなぐったなかから、最も無意無作為無構成と見える一枚を作品として選ぶ、ダダ的な精神に達することだった。
「メチャクチャ、デタラメに書け。ぐわあっとぶちまけろ。お書家先生の頭へエナメルでもぶっかけてやれ、狭い日本の中にうろちょろしている欺瞞とお体裁をブッとばせ」だが、この体当たり的自己表現のはてに、宇宙空間への合体の自覚が生まれたところに、わたしは井上有一の本領をみいだす。

以上は実のところ、大津定信を語るための長い前書きである。ここまでにふれた書家たちより一世代も二世代も若い大津は、やはり書塾の経営から出発したらしいが、今の作品とその発表形式は前衛書の限界を遠くこえている。そのことがどうして可能だったかを、あえて前衛書の絵画との蜜月時代の歴史から考えてみるのが、この文の趣旨である。すると第一に気づかれるのは、大津がヒロシマ、ナガサキの原爆被害者の慰霊鎮魂を原点とする、反核、反戦、平和のテーマに自己を限定していることだ。この限定がかえって、どんなに多様な作品をもたらしたか測り知れない。第二に彼の「絵」は、書の変形、発展によって文字を離れたものではない。書は「命」の字を小さな紙に書いて多数貼りあわせたり、「平和」の文字を同一の面に二十数カ国の国語で書きならべたり、さらに床に敷いた大きな紙の上で、作者自身が等身大の大筆を駆使して書くパフォーマンスを演じたりするが、いずれにしろ文字性を離脱することはない。
一方彼の絵は、広島の爆心地や元安川で採取した砂、土、板きれ、枯れ枝などに、被爆者の写真をなぞって手で削り取った眼、鼻、口などの痕跡をつけた顔、手形、足跡、折れた十字架や法輪をつけ加えたレリーフ状のものだ。むろん、元安川の水が制作の全過程に使われていることも忘れられない。さらに被爆者やその子どもの詩や作文の幼稚園児、小学生、母親たちによる朗読、献花、平和のメッセージの全員による朗誦、作者のパフォーマンスによる揮毫、献灯などもあって、大津のデモンストレーションがそのまま平和祈念の祭典となることもみのがせない。

これは書と絵といったジャンルをこえた、子どもと大人にわたる民衆共同の行事としてうけつがれるべき作品発表で、それが反核反戦の原点ともいうべき丸木美術館でおこなわれる意義は、けっして小さくないことを申し添えたい。

十字架の被爆者

生きていたい


被爆者の肖像