2003.7.8.(火)〜9.6.(土)
オープニング 7月20日(日) 午後2時より
関谷興仁略歴

1932年 東京で生まれる。

1981年 栃木県益子・成井藤夫窯にて半年間修行。


1983年 埼玉県八潮市に工房・窯を作る。

1988年 益子に工房・窯を作る。

1992年 益子工房に展示館「朝露館」を作る。

1994年 第1回個展 東京銀座〈ギャラリーモテギ〉

1995年 第2回個展 栃木県益子〈朝露館〉

〈ヒロシマシリーズ〉より



関谷興仁陶板作品私観              針生 一郎

 関谷興仁は1965年ごろまで組合活動に熱心な教師だったが、定年前にやめてクリーニング屋を経営しながら、新左翼の救援活動にたずさわるうち、80年代はじめから「何も考えずに」陶器づくりに集中しようと、益子の窯元に弟子入りした。
だが、土をこねると造形する暇もなくうかびあがるのは、大戦中のホロコースト、日本軍の殺戮、本土空襲や沖縄戦、特攻隊や原爆の無数の戦没者と、戦後の解放闘争や水俣のような公害の犠牲者たちの顔、顔だったという。

 こうした告白は、『原爆の図』をはじめとする丸木位里・俊夫妻の共同制作の思想に近いだろう。
だが、丸木夫妻の画像としての表現とは違って、関谷は禅のように「不立文字」「無」に徹しようとする当初の志向とも裏腹に、死者を哀悼しその霊に祈る既成の詩や散文のうち、彼に衝撃をあたえた文字を刻みこんだ陶板を制作する。
「僕には、こうして悼むしか、今に対する対し方はない。それは僕自身を悼むことである」という制作メモの一節が、わたしには切実に響く。

 関谷興仁の作品の制作過程には、死者たちの顔、顔のイメージがたえず潜在し、それらの慰霊鎮魂のためには、言語遊戯におちいらないすぐれた詩の言葉と文字の導入にしくはない、と作者が思い至ったことは明らかだろう。
そのうえ、明治以後の技術主義と精神主義におおわれた書壇に対して、広義の文人の書がつねに優位を保ってきた伝統をうけついで、陶板に刻みこまれた書が素朴で真率な風格をもつことも指摘すべきだろう。

作品の構成をみると、主題別に厳選されたというより、これしかないと記憶からうかびあがった詩(詞)を彫りこんで焼成した陶板を組みあわせ、あるいはインスタレーション風に配置している。
金明植の叙事詩『漢拏(ハルラ)山』、石川逸子の90年代の長詩『千鳥ヶ淵へ行きましたか』、正田篠枝、深川宗俊の短歌、大原三八雄の英詩、石川逸子の詩集『ヒロシマ連祷』から成るヒロシマ・シリーズ。
とりわけ妻である石川逸子の詩は、さすがに詩的ヴィジョンの深まりを身近に受けとめてきた人生の同行者らしく、丸木位里と俊の『原爆の図』とそれ以後の共同制作に似た味わいがある。
 『悼』と総題された関谷興仁の陶作品は、全体として「用」に背を向け、死者の沈黙にわけいるために詩の文字をとりいれながら、結局は詩と陶と手をたずさえて言語を絶するものに迫ろうとしている。
戦争と戦後の無限の怨念をいだく死者の沈黙に迫ろうとする彼の仕事は、もしかしたら現代陶芸に新しいジャンルをきりひらくかもしれない。
(美術評論家・丸木美術館館長)


インスタレーション〈千鳥ヶ淵へ行きましたか〉より



〈漢拏山〉より



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