2001.6.19.(日)〜9.15.(土・祝)
出展作品

ドナウ(1982)
1.山の上の雲(1942頃)
2.母子猫(1940年代)
3.ふくろう(1945年頃)
4.鵜(1954)
5.休息(1960)
6.ナホトカの海(1963)
7.樹林(1964)
8.三陸の海(1964)
9.穂高(1965)
10.九龍の瀧(1965)

11.海(1965)
12.枯(1966)
13.長門の海(1968)
14.アララット山(1969)
15.塔のある風景(1973)
16.ロドス島の夜明け(1974)
17.桂林(1981)
18.空から見たドナウ(1982)
19.ドナウ(1982)
20.知念村の闘牛(1984)
21.ナイアガラ(1988)
22.富士(1991)
23.万里の長城(1992)
24.白骨(1994)
25.馬(部分)(1939)
26.梅(1943)
27.梅(1943)
28.松(1946)
29.臥牛(1947)
30.月と牛(1950年代)
31.牛(1955)
32.梅(1955)
33.昆明石林(1957)
34.三陸(1962)
35.松韻(1965)

36.伯耆大山(1966)
37.牡丹(1967)
38.牡牛(1967)
39.暗い道(1969)
40.海(1970)
41.グランドキャニオン(1989)

牡牛(1967)
7月8日(日) オープニングセレモニー
午後1時より 講演「丸木位里論」 
講師:針生一郎(丸木美術館館長・美術評論家)
東武東上線森林公園駅より送迎バス 12:00,12:30

8月5日(日) 講演と映画 
講演「丸木夫妻を偲んで」 講師:石牟礼道子(作家)
映画「水俣の図・物語」 監督:土本典昭 1981年青林舎制作 
場所:東松山市中央公民館 ホール
午後5時半会場 午後6時開演
前売・電話予約:800円 当日:900円
(予約電話番号 0493−22−3266)

丸木位里の美術史上の特異さ
針生一郎
丸木位里は近代日本美術史上でも、比類なく特異な画家である。 ほとんど独学で水墨画の技法を身につけたが、同郷で年下の靉光の影響もうけてキレイゴトの日本画を打破するため、 船田玉樹、岩橋英遠と「歴程」美術会を結成し、岩橋が院展に去ったあと船田とともに、 シュルレアリスムの洋画団体「美術文化」に加わった。 こうして日中戦争下に洋画家赤松俊子と結婚する前に、水墨山水を中心に大樹や牛なども描く丸木の前衛、野人、 民衆画家としての風格はできあがっていた。
 戦後の《原爆の図》シリーズにはじまる丸木夫妻の共同制作は、このような水墨画の基盤の上に成りたち、 またこのように放埒自在の画家だからこそなしえたのである。 共同制作は《原爆の図》のあと、南京大虐殺、アウシュヴィッツ、三里塚、水俣、《沖縄戦図》におよび、 夫妻の海外旅行も頻繁につづくが、その間にも位里は幽遠茫洋とした水墨の山水・花木・鳥獣、 俊は海外の男女風俗や生活情景の油絵、精彩ある絵本を旺盛に制作している。 たがいにまったく異質だが、どちらも強烈な個性だったからこそ、二人の共同制作ははげしい葛藤をはらみながらも、 絶妙のコンビを保ちえたので、その実態があらためて正確にみきわめられなければならない。
 土本典昭監督の記録映画《水俣の図・物語》をみると、丸木俊がまず水俣の人物群像を画面左右に精細に描いて、 画風がちまちまと説明的になりかけるところに、位里がバケツで水に溶いた墨をぶちまけて流しこむ。 その無造作さに俊が一瞬悲しげな表情すらみせるが、やがて流された墨が乾くと、 濃淡やにじみもそのまま画面の空間と情調を形づくったことに気づかされる。 こういう過程から推察されるのは、共同制作を先導したのはつねに俊だが、その戦略と構想を最終的に決定したのは位里だろう。 ともかく、一見茫漠模糊とした位里がなかなかの戦略家だったことは、周辺には知られている。
 そういえば、夫妻の共産党入党も芸術的戦略が合致するとみえたせいだし、60年代半ばの共産党除名も戦略的な対立のせいだろう。 夫妻が東松山に転居したのは除名前後だが、共同制作の常設展示場として美術館建設のためにも、前以上に絵を売る必要があった。 その点日本画の方が昔から権力者や金持ちに高く売れるが、位里はその種の顧客を持つ大手画商と一切取り引きせず、 水墨民衆画風を保って親しい小画廊にゆだね、または直接愛好者に売ろうとした。 それまた彼の戦略の一環で、丸木位里ほどすべての戦略と構想を実現した画家はなく、 そのことが彼の美術史上の特異さのみのがせない要因でもあるだろう。

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