ヨシダ・ヨシエ
「原爆の図」を語る

1950年代初頭、『原爆の図』を背負って全国を巡回展示した
当時19歳のヨシダ・ヨシエが、
75歳の老躯を駆って「遺言」の意志で画面の前に立つ。
ヨシダの戦争を知らない世代への痛烈な警世の解説の歴史的再現!!
2004年11月3日(祝)午後2時
本イベントは終了いたしました。

参加者による詳細レポートを頂きました。クリック!

久しぶりに暖かい日和が続いている埼玉・丸木美術館で、11月3日午後、ヨシダ・ヨシエさんの講演が行われました。
約70人の参加者を前に、1時間半ほどの講演でした。
1950年代初頭に行われた「全国巡回展」は、新潟県から、小千谷の近隣からはじまったということで、この度の中越地震による死者に哀悼の意を表しての始まりでした。

「戦争を知らない世代へ」ということで(参加者には知っている世代も多かったのですが)、自らの戦争体験を語り、原爆がいかなるものであったのかを語り、「原爆の図」の前で絵の解説へと移りました。
しばしば背後を振り返り、立ち上がって絵の部分を指し示しながらの講演でした。
55年前に目にした絵の成り立ち。
画面に書き込まれた位里、俊、ヨシダ氏の姿。
(初期6部の)画面構成と、シリーズのテーマの変化。
故・野々下氏とともに行った全国巡回展でのエピソード。
最後は「南京大虐殺の図」の前に場所を移し、なぜ原爆が落とされたのか、またイラク、パレスチナの今後に対する懸念・不安を話され、終了。

そののち、美術館の庭で、ボランティアの方々の手料理を囲んで懇親会となりました。
中学生から80代まで、多くの方が集った一日でした。

ヨシダさんは6月2日に倒れて以来、回復は順調で、所作にも言葉にも後遺症は伺えませんでした。
ご自身で「遺言」とおっしゃっていましたから、心配された方も多かったのですが、多少体力は落ちているものの、まだまだお元気だと安心された様子です。

「わたしたちには戦争責任ではなく、戦後責任がある。
戦後50余年がたつが、私はまだその責任を果たしていない」
講演の最後でヨシダさんはそう話されました。
位里・俊が「地獄の図」の中に自らの姿を書き込んだように、ヨシダさんがそうおっしゃるように、わたしたちにも現在に対する責任があると改めて思いました。

講演の様子はビデオに収め、来館者の方にご覧いただけるようになりました。
(音声があまりよくありませんが)
ご希望があれば、窓口で一声おかけください。
ヨシダ・ヨシエ略歴
1929年、福島県に生まれる。
1950年代初め「原爆の図」を携えて、全国巡回。
著書は『異端の画家たち』(求龍堂)、『丸木位里・俊の時空』(青木書店)、
『修辞と飛翔』(北宋社)など多数。
美術評論家連盟常任委員。
終了後、観音堂前で懇親会。
暖かい日で良かったです。
三島から鷲見さん、下田から庄田さんが駆けつけて
セッションしてくれました。



参加者による詳細レポート
「クボザイク日記(11月3日)」

このレポートはクボザイクさんが美術品観察学会MLに4回にわたって投稿されたものを、ご本人の了承を得て編集、転載いたします。
長文ですが、ぜひ最後までお読みください。
クボザイクさん、ありがとうございました。


【1.丸木美術館に行かなきゃ】
今日は原爆の図 丸木美術館に行った。
以前から「ぜひ行ってみたい!」と、思っていた美術館であったが自分の中で「遠い!」というイメージがあり、今まで行けないでいた。
やっと、念願の美術館に本日、行くのである。
行きたかったと言っても、丸木夫妻のこと、「原爆の図」のことは、まったくと言っていいほど、自分は知らないのです。
しかし、なんか魅力的な美術館というイメージが以前からあった。
丸木美術館へ行くと、一日費やしてしまうので、近くに行く用事があったら、ぜひ行こうという考えで長い月日が経ってしまった。
そんな、出不精の自分であったが11月3日にヨシダ・ヨシエさんの講演が行われるという知らせを受けて「これは行かなければ、絶対後悔する!」という予感がピーン!っと来て、有給休暇も取れ、丸木美術館に行ったのである。
しかも、僕が大好きな丸木スマさんの展覧会会期中である。
これだけの条件が揃って、「いかないわけにはいかない!」

【2.森林公園駅〜丸木美術館】
たいてい、遠いと思っても行ってみると「意外と近かった!」ってケースが多いと思うけど、森林公園はやっぱり遠かった。
たしか、大学受験のとき、このあたりに来た記憶がある。
車窓からの眺めは、森林公園に近づくにつれ、田んぼが多くなりちょっとした旅行気分になり、「気持ちよくなってきた!」
僕は、旅行に行った時、乗り物からの眺めで建物がぽつぽつと消えて、風景が田畑などに変わっていく様がなんとも好きなのである。
しかし、そんな気分に浸っている場合ではなかった。
今回美術館が用意してくれる送迎車の発車時間に間に合いそうもない!

案の定、送迎車の発車時間に遅れたが何回かに分けて送迎しているらしく、何とか送迎車に乗ることが出来た。
(10名ぐらい駅前に車を待っている集団を発見!いかにも前からいたかのように、その集団に加わり、そうするとすぐに丸木美術館と記載がある車が到着)
送迎車は、フジテレビで放送している「あいのり」のラブワゴンのような車で荷台スペースもフルに活用して何人も乗り、なんだか楽しかった!
丸木美術館へGO!!
車で10分ほどということであるが、けっこう距離がある。
この送迎車に乗れて本当によかったと痛感した。

【3.原爆の図 丸木美術館に到着】
どんな美術館なんだろうと期待を膨らませる自分を乗せて、ワゴンは田畑の中を突っ走った。
そして、着いた。
車が沢山置いてあり、すでに多くの人が集っていた。
外でパーティーの用意をしていたり、思ったとおり家庭的な感じの美術館ですごく良いな!と想像どおりの印象!
入館料735円(←中途半端だなっ)を払って中に入り、早速、二階の原爆の図があるところにむかった。

【4.ヨシダ・ヨシエさんの講演】
二階にて、原爆の図を見ていると、ヨシダさんがいらした。
思ったよりも、元気そうで安心した。
というのも、ヨシダさんは、今年の6月に脳梗塞で倒れたそうである。
「体調の許すうちに『原爆の図』の解説の再現を行いたい」とのご希望でこの講演が実現したとの事だ。
ヨシダさんは、雑誌などにも売り込みをしたことないそうであるが今回はじめて、丸木美術館に「この講演をやらせてほしい」と売込みをされたそうです。
体が動くうちにどうしても伝えたいことがある!という、ヨシダさんの強いものを感じました。
「本当に今日はこの場に参加することが出来てよかった」とこの時自分は思うと同時に、一字一句ヨシダさんがおっしゃられた事を自分の中に吸収させようと強く思った。

【5.10代の頃】
ヨシダさんは、戦争末期は15歳の時ネジを作る工場に動員されていた。
当時は、一つ上の16歳で特攻隊に行くという状況であった。
(ちなみに)一つ年上、親友で画家の池田龍雄は、特攻隊に行った。
突然工場に将校がきて、「なぜ特攻隊に志願しないのか!」と働いている少年達全員に向かって言っていたそうです。

ヨシダさんは、特攻隊に志願しようとした。
そのためには、近眼を治さなくてはいけないと思い、星空を見ていたそうです。
(当時視力がよくなると言われていた)
敗戦後、19歳のヨシダさんは、原爆の図を持って、日本中をまわったとの事。

【6.テロ】
定義がはっきりしない。
テロの裏には、悲鳴が聞こえる。
靖国に銅像がある、大村益次郎は徴兵制度を取り入れようと、〈廃刀令〉〈兵制改革〉施行しようとすると、テロリストとなった、侍に暗殺された。

【7.敗戦】
白旗は美しく、すばらしい物。
敗戦後、白旗が掲げられた丘の上で「戦争は負けたが、米兵が上陸したらやっつけてやる」というような、演説する兵隊などがいたそうです。

ヨシダさんが通っていた学校に配属将校がいて、そいつはいつも偉そうで、銃刀で人を刺殺す練習をよくさせられていたそうです。
人に見立てたものを突いて、すぐ抜くと、「バカヤロウ!」って、殴られた。
人を刺した場合、すぐに抜けない。
だから、蹴っ飛ばして抜くんだ。
というような、偉そうな将校のもと少年達は、人殺しの練習をさせられていた。

ところが、敗戦すると状況が一変し、その配属将校は、髪の毛を七三にして、生徒には「アメリカ軍に俺が軍人って言うなよ」って、なったそうです。
戦時中、天皇から授かった物として大事にしていた銃も「銃を折って捨てろ!」と変化し、埋めた場所までヨシダさんは鮮明に覚えていて、そこに今も埋められている、掘り返すのに立ち会ってもいいとおっしゃっていました。

【8.原子爆弾】
爆弾は、衝撃によって人を殺すのであるから、原子爆弾というのは間違いである。
実際は焼夷弾である。
木で出来た家がメインのアジアでは、衝撃で破壊する爆弾よりも燃やすことで多くの人が殺せる焼夷弾の方が効果的である。
何度も爆撃に遭っていると、音で爆撃がわかる。
ちなみに、B29はワンワンワンという音がするそうです。
朝7時30分という人が動き出す時間だった。
このときは、はじめ、空襲警報がなり、警戒警報に変わったとの事。
(警戒警報は注意の呼びかけに対し、空襲警報は、もう真上に敵機があるという事だそうです。通常は警戒警報→空襲警報の順番である。警戒警報に変わったので、人々は少しほっとした)

原子爆弾投下前は、注意を促すビラ(伝単)が空から撒かれた。
市民はアメリカの策略にだまされるので「伝単を読むな」と言われていて、読んでいる姿が見つかると捕まってしまうものだった。
「花の都の京より先に 水の都の広島へ」と書いてあり、意味がよくわからない。
「京都は爆撃されていないという話だったから、広島も同じように爆撃されないと考えた人がいたかもしれない」と話されていました。

「ピカドン」と言っている人は、爆心地から遠い人が言うことであって広島の人は「ピカ」であった。
(カミナリなどと同様でピカッと光った瞬間には、爆発していた)
新型爆弾は、6000度のとてつもない高温を発する物で、それは、太陽の表面と同じ熱のものが突然、560メートル上空に現れたのである。
原爆が投下された直後は、「何がおこったのか?」把握できず、多くの人間がうろうろとしていた。
(人間は、パニックを起こすと同じところをグルグルと回る習性があるそうで、破壊され焼けた町中を自分の状況を把握出来ないで、大集団となってグルグルと同じところをまわっていたそうです)

【9.原爆の図】
幽霊
幽霊は、昔から絵や怪談などに登場してきたが女性が圧倒的に多い。
昔は、男性よりも立場が低いとみなされていて、感情をストレートに表現できなかった。
通常怒ると手を上げるしぐさになるが、怒っても手を上げることが出来ない。
かといって、下げることも出来ず、宙ぶらりんな状態が幽霊の手の形になる。
被爆した人たちは、やけどや皮膚がとけて、痛くて手を下げることが出来ず幽霊のような手の形になる。
原爆の図を見ると、赤ちゃんだけは、全く何事もなかったようにきれいな姿ですやすやと眠っている。作者である赤松俊子のやさしさが出ているところだ。

【10.共闘制作】
原爆の図は、共同制作ではなく、共闘制作であった。
丸木俊が描いていると「面白いことやっているな!俺もまぜろ」って、夫である丸木位里が絵に墨をぶちまける。
俊さんが激怒しながら、失われた形などを再度、丁寧に取っていくとまた、位里が墨をぶちまけるような闘いをしながらの制作であった。

【11.日本中をまわった話】
丸木美術館では、屏風のように展示されているが、全国各地へまわる際、原爆の図はクルクルと丸めて、木の箱に巻物のようにしまいこんで運んだ。
はじめに行ったところが新潟中越地震で現在不自由の生活をしている地域である、小千谷、六日町の辺りだったそうです。

どのように会場などを確保していたのかと言うと、まず、はじめに地元の飲み屋に行って、公民館などがどこにあるか情報を入手。
その後、共産党の事務所に行く。(そういうのに共産党は協力的だったみたいです)
次にポスターを作る。
(一緒にまわった画家の野々下徹さんがそこでささっと書いて何十枚もポスターを制作するそうです)
当時4千人ぐらいしかいない六日町に、のべ1万5千人ぐらい来たそうです。
テレビもない時代であり、リピーターや口コミ、隣町からも沢山人が来たそうで、大成功をおさめたそうです。

しかし、絵の説明をしていると、次のような感想があった。
我々も空爆はうけた事はあるが裸になるわけがない。
画家だから女性のヌードを描いているのだろう。
現実とは違うだろう。

と言う意見が全国をまわっているうちにあったそうです。
得体の知れない新型爆弾が服など一瞬で燃えて消滅させる「超大型の焼夷弾」ということを理解できず、原爆の話を聞いている人達は、「納得がいかないで」真実ではないと疑われたりした。
ところが、「納得がいかないのが原爆である。」
だれも想像できもしないことが起こるのが、原爆なのである。

広島で原爆の図について、多くの人に向かってしゃべってたら、突然、若くてきれいな女子高生が服を脱ぎだした。
まだ10代の青年だったヨシダさんは、「ギョッ!」となり、一瞬、何が起こったのかわからなかった。
一見きれいな肌とは裏腹に背中がケロイド状になっていた。
(口で説明するのは難しく、的確な表現ではないですが)
ビニールを貼り付けたような異様な、ケロイド化した肌の背中であった。
「この人は嘘ついてない。真実を言っている!」と少女は言った。
きれいな年頃の少女が、絶対に見られたくない醜くくなった肌を勇気を出して、真実を伝えるために大勢の前でさらけ出したのである。

その後、ヨシダさんに向かってその少女は、「ただ生きているということは、寒いことね」と言った。

人間は、今まで経験しない強打を心にあたえると、寒くなってぶるぶる震えるそうである。
原爆が投下されたのは、真夏であったが、熱いお風呂に入ってもぶるぶると体の震えが止まらない人がいたそうです。

また、原爆ドームの前で自らを「原爆一号」と称して、ケロイド化して亀の甲羅のようになった背中を見せている人を見た、ともヨシダさんはおっしゃっていました。
原爆ドームをバックにその人を記念写真にパシャパシャと撮影する外国人観光客が取り囲んでいたとか。


当時米軍は、徹底的に原子爆弾という言葉を使用することを禁じた。
新型爆弾といって、真実を明かさなかった。
(しかし、被爆者は、身を犠牲にしてまで、真実を伝えたかったのでは)
そのような時期だったので、ヨシダさんは、米軍に目を付けられ何度も警察に行った。
(図体がでかいアメリカ人は恐ろしかったが、巡回を続けた)

【12.火】
は、日本画風にこだわって描いた。
(絵を見るとわかるが)外国人が描いた火ではなく、日本古来からの火の描き方をしている。
和紙を使用し、我が国固有の表現方法にした。

絵について丸木位里さんから意見を求められたところ、当時16,17歳のヨシダさんは次のように答えたそうです。

「人が人を押しのけていくような姿が描かれていない」
(「10代の若者が著名な芸術家に向って生意気でした!」とヨシダさんご本人は、おっしゃっていました)
この絵の中で、ヨシダさんがモデルになって登場しているそうです。
(燃え盛る炎の中、助けを求める悲鳴、何とか生き延びたい為に動ける者の足をがっしりと掴む手もあっただろう。
救出しようにも、そこにいるのは、全て同じ被爆した者である。
あまりにも膨大な人数の助けを求める姿に、聞こえないふりをしたり、手を振り解いて、多くの人が見殺しになっただろう。
中には、自分が生き延びるために、他人を踏み潰したり、追いやったりする姿もあっただろう)

【13.水の都】
水の都というのが裏目に出た。
水を求めて川にむかい、太田川の水を飲んで、多くの人がその場で死んだ。
川辺には、死体の山が所々あった。
兵隊がガソリンをかけて燃やすが死んでいる者だけではなく、その中には、生きている者も混じっていた。
悲鳴も聞こえたが、人々はかまってられなかった。

第三部の「」を、平面的で面白くない、と評している評論家もいたが、そいつは何もわかっていない。
この絵の中には、時間の経過が表現されている。
右側から、左に目を移していくと、川に水を飲みに来た人々がその水を飲んで、やがて、命が絶えて、死体の山となって、燃やされる様子が描かれているのである。

【14.虹】
原爆投下後、しばらくすると、黒い雨が降った。
急激に水分が、蒸発し、それがまた、降りそそいだのである。
晴天の空の中に、突然、油のような黒い雨が降ったのである。
一面黒い中、皮肉にも美しい虹が現れたのである。(第4部 
ここで、外国人捕虜の姿が描かれている。
丸木さんの視点が、今までは原爆を落とされた被害国民としてであったがそれが一気に変わるのである。
日本人だけではない、広島で被害にあったのは、原爆を落とした国である23人のアメリカ人捕虜もいたのである。
それは、自国が落とした原爆で死んだかもしれないが、たとえ被爆後幸運にも生き延びとしても、市民のリンチにあって、とても悲惨な状態で、死んでいくのである。

【15.原爆被害の写生画ではない】
おそらく、現実は被爆の中心地では、皮膚は溶け、全身腫上がり、自分の親、兄弟さえも判断できないほど顔や全身が変化したのだろう。
丸木さんは、特に少女に関して美しく描いている。(第5部 少年少女

当時まだ10代の青年だったヨシダさんは、丸木さんにむかって、「事実をそのまま描くべきである」とおっしゃったそうです。
(今では、その発言したことを恥じているそうですが)
それに対し丸木さんは、「少女達は美しく描いてあげなければ」と言っていたそうです。

本物の絵を前にして見ると、確かに少女達が美しく描かれています。
僕は、この「原爆の図」を今日はじめて拝見した。
恥ずかしながら、丸木夫妻の原爆の図は悲惨さを訴えた絵というイメージでしか、自分は今までとらえていなかったように感じる。
しかし、本物を前にして、ヨシダさんの話を聞いていると、戦争の写生ではなく、目に見えないものまで描いているように感じます。
目に見えないが人間の強いところ、弱いところ、美しいところ、醜いところ、様々な要素がこの一連のシリーズである「原爆の図」に描かれています。

丸木さんもはじめは、原爆の恐ろしさを伝えるために描いたのかもしれませんが描いているうちに、ポイントが変わってきて人間そのものにむかっているようです。

同じ戦争を描いた「戦争画」と言われる絵とも全く印象が異なります。
(もちろん、戦中に描かれ、プロパガンダに使用された「戦争画」と比べる方がおかしいのかもしれませんが・・・・)
絵画としても丸木さんの手ですばらしく仕上げられている。
この絵が日本のゲルニカといわれて、見る人をひきつける大事なポイントだろう。

ヨシダさんは、静物の対象のとらえ方として興味深い指摘をされて次のようにおっしゃっていました。

西洋人が静物画を描くが、その目を日本人は持っていなかった。
静物は14世紀から描かれてはいたが、17世紀に入ってオランダで静物画(ボデゴン=台所画)として1ジャンルを確立する。
静物画というのは、描かれる対象を全く自分から切り離して、ただの物としてそれをとらえ、忠実にキャンバスなどに写し取っていく。

高橋由一の鮭は、日本人の絵として例外的にそのような視点が感じられる。
「原爆の図 第6部 原子野」に描かれている骸骨などの骨を見ると、物として描かれている。
骨が山のように詰まれている様は、最近までそれが人間の姿だったというのが微塵も感じられない。夜が来れば、生物は一切なく、全く無音である。
そこを歩けば、ガリガリと骨が砕ける音がするのみ。

【16.最後】
ヨシダさんの講演は、二階の会場から一階へみんなで移動し、締めの言葉でまとめられました。

そこには、南京大虐殺の図水俣の図アウシュビッツの図などがありました。

ベトナム戦争の頃、「原爆の図」をアメリカに持って行って、説明した。
戦争反対を唱えるのは、とても大変な時期であった。

カリフォルニア州立工科大学にて、「日本に中国人の作家が来て、南京大虐殺の図を持ってきたら、どのようにしますか」
「アメリカ人が行なった、広島と長崎の大量殺害の絵を日本人が描いてアメリカに持ってきています。私達がその展覧会を開いています」
と展覧会場である、アメリカの大学教授に言われたそうです。
アメリカで南京大虐殺の事を聞くとは、全く予想しなかったそうです。

日本人の行った大虐殺は、南京だけで捕虜5万人、非戦闘員35万人の犠牲者を出したといわれています。
それは、二つの原爆の被害に匹敵する物です。
右翼の人が美術館に来て、この絵を外せと、脅されることもあるそうです。

僕は、一階の会場に入ったとたん、あまりのスケールにびっくりしました。
これらの巨大な絵が、迫ってくるのです。
造形的にも、メッセージもたくさん込められて完成されているように感じます。
人間とは何かを考えずにはいられませんでした。
難しい問題で簡単に答えが出そうにもないですが、「もう二度と戦争はしない」
と言うことだけは、間違いないです。
たしか、そのような言葉で、ヨシダさんの講演は終了したと思います。

【17.企画展示】
余談ですが、丸木スマさんの展覧会も本当によかった!
去年偶然、芸術新潮1952年11月号に掲載されているスマさんの文章を読んでそれ以来、ファンになってしまったんです。
どんな絵を描いているのだろうと、楽しみにして丸木美術館で初めての対面でした。
見られることを意識しない、ノーガードの表現でありながら、子供の絵とはよく見ると違うのです。
核となる物を描くといよりは、焦点が全くない。
画面の端っこまできっちり描いて、柄のように描いたり。すごくよかった。
風景も、日常との関係性が描かれいたり、植物、動物などスマさんの日常の生活や今まで築かれた体験などがノーガードで描かれていたように感じます。
そこに展示されていた、1986年3月芸術新潮に掲載された、水上勉の文章も大変よかったです!

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