あたたかい、四月の空気。
 それを届けてくれる空は、とても気持ちがいいものだ。
 この意見に同意してくれる人間は、きっと多い。
 でも。逆に、同意してくれない人間というのは、どんな人なのだろう?
 それはきっと、あまり四月の空に、いい思い出のない人間なのだと思う。
 ――ちょうど、今のあたしみたいに。
 (……あー、空が青い、な……)
 四月に入ると、晴れの日が増えてきた。今日も快晴。いい天気。
 ぼんやりと見上げた空は、きれいな青。とても澄んだ、青。
 まるで…………みたいな。
 「っって!! あたしってば、なに考えてんのよ!?」
 思わず浮かんだ思考に、おもいっきりツッコミを入れる。しかし、端から見れば突然叫び出す、ただのアヤシイ人に見えただろう。急いであたりを見回すが、幸い見ている人は誰もいなかった。
 力のはいっていた肩から、ため息とともに力を抜く。いやなクセがついてしまったもんだ。
 去年、ガウリイにもう一度会った、あの日。
 あたしは、胸からどうしても消えなかった想いを、きれいさっぱりふっきった。
 ――つもりだった。
 去年の四月のような、苦しいほど切なかったりする想いは、たぶんもうない。
 もしかすると、言い換えれば、慣れてしまったと表現するのかもしれないが。
 しかし、ふとした瞬間に思い出す。
 晴れた空を見てはあの瞳を。曇り空を見てはあの雪の日を。
 想いはふっきった、つもりだ。その証拠に、彼を思い出しても苦しくない。
 でも、思い出まではふっきれていない。
 「……どーすればいいのかしらね、これ」
 まだ、彼の思い出すべてを、『昔の淡い雪のような思い出』とできるほど、あたしは心の整理がついていなかった。
 だって、雪はとけただけなのだから。
 とけた雪は、水となって地面に染み込み、もう取り出すことはできないのだから――
 「ねえ、リナ」
 「なぁに、ねーちゃん」
 この日は、外に出るのもおっくうなほど寒く、そして天気の悪い日だった。
 天気のいい日は庭でとることもある3時のお茶の時間。もちろん今日は室内でとっている。お茶菓子は、おきにいりのバタークッキー。
 バターの香りが食欲をそそり、あたしは誘われるように一番上のクッキーをつまんだ。
 クッキーをかじって、かわいた口を香茶でしめらせる。うん、いいかおり。
 姉ちゃんも、ゆっくりと香茶を口に運ぶ。まるで、ゆがんだ口元を隠すかのように。
 「さいきん、街中に、あなた宛のラブレターがはりだされてあるのしってる?」
 ぶぷぴゅるぶゅぃいぃぃっっっ!!
 げほがほごほごほがほっっ!
 「な、ななな、ななななっっっ…………!?」
 お世辞にもお上品とはいえないマナーで、飲みかけの香茶はテーブルに四散する。
 あまりに衝撃的なセリフを聞いて、一瞬で言語能力が崩壊してしまった。
 あ……あ……あたしあての、ら、ら、らぶれたあああぁぁぁぁ!!?
 あたしの反応を、姉ちゃんは気にいったようだ。人の悪い笑みを口元にうかべる。
 「あら、さすがに驚いたみたいね」
 「あっ……あっ……あたりまえでしょおおぉぉぉ!?」
 誤解しないでほしい。べつに、ラブレター自体に動揺しているわけではない。
 これでもあたしは、自他共に認める(モンクある!?)美少女だ。ちいさいころは近所のおばちゃんたちから、姉ちゃんと二人、美人姉妹になるとよく言われたもんである。
 ゆえに、もちろんラブレターのひとつやふたつ、もらった経験はあるのだ。
 しかし。さすがにムカシの少女漫画みたく、毎日山と手紙がくるなんて現象、そうそうあるはずもなく。また、ここゼフィーリアではあたしの性格が知れ渡っていることもあって。
 少なくともここ数ヶ月は、確実に手紙と名のつくものは、ラブレターどころか果たし状すら受け取った覚えがない。
 つまりその『らぶれたぁ』とやらは、それだけ昔のモノをさらしものにしているか、あたし宛にもかかわらず、あたしに見せるより先に、どこかへはりだされていることになる。
 なんだって、ンな酔狂なマネを……。いや、それよりも。
 「ねーちゃん!! それ、いったいどこっっ!?」
 まずは、そんなこっ恥ずかしいモンを抹殺するべしっっ!!
 誰が書いたものであろうと、あたし宛であるという、その一事において恥ずかしい。
 姉ちゃんは、ますます面白い、という顔で微笑み、
 「そうね。じゃあ、今から行ってみる?」
 「行くっっっ!!」
 あたしは一にも二にもなくうなずいたのだった。
 ゼフィール・シティをまっすぐ仕切る、大きな道。それがゼフィール・エターナル・ロード。
 でも、街の人たちは、誰もそんな名前で呼ばない。大通り、で十分である。
 この道は、こっち端は街の入口から、あっち端は王城まで続く、長い道だ。この道にどれだけ近いかで地価が決まったりする、とても人通りの多い通りでもあったりする。ちなみに、姉ちゃんのバイト先のレストランは、今あたしたちが向かっているのとは反対方向の道沿いにある。
 あのあたりからこっち側は、あたしはめったに来ないのだが……。
 「ここよ」
 見覚えのない一軒の店の前で、姉ちゃんが立ち止まった。
 大通りに面した、大きなショーウィンドウ。
 よくある店ならば、服やディスプレイを飾ってあるそこには……絵が、飾られてあった。
 店の名前を見ると……ここは、画商?
 あたしは、ひょいと中の絵をのぞき――
 べし。
 次の瞬間、大通りの冷たい石畳にほおずりしていた。
 ショーウィンドウと反対方面に倒れたのは、ぜひともほめてほしい。
 「まあリナ。だいじょうぶ?」
 「……だいじょうぶじゃないやい……」
 誰だって驚くだろう。いつもならば寄りつきもしない画商に飾られた絵に、いつのまにか自分の姿が描かれていたとしたら。
 「こ…………こりは…………」
 「まだあるみたいね」
 姉ちゃんが指さす方を見ると、同じタッチで描かれた絵が数点、日に焼けないよう注意して置かれていた。
 その数点はすべて、ゼフィール・シティの街中を描いた風景画。そして、必ず、栗色の長い髪を持つ、少女が描かれている。
 目がいいあたしには、多少の距離でもはっきりわかった。
 並木道のベンチで本を読んでいたり。公園で子供たちと遊んでいたり。
 そして、こちらに向かって、うれしそうに微笑んでいたり――
 その人物が、小さく描かれたものでは、あたしと断定するのはむずかしいだろう。しかし、大きく描かれたものはまぎれもなく、<<あたし>>としか思えない顔をしていた。
 ならば、おなじような髪や体型をしている、小さく描かれた人物の方も<<あたし>>だろうと、想像するのは難くない。
 あまりといえばあまりの事態に、ついついきれいに磨かれたショーウィンドウのガラスへ 、おもいっきり指紋をつけてしまっていたが、そんなことに構っていられなかった。
 「バイト先のともだちで、家がこっち方面の子がいてね」
 うしろから姉ちゃんの声がする。ふりむかなくても、声ににじむ楽しそうな響きは伝わってきた。
 「『これ、リナちゃんじゃない? ずいぶん熱烈なラブレターよね』って……」
 「っだああああぁぁぁぁぁ!!!!!!! 言わないでえええええぇぇぇぇぇぇ!!!!!!!」
 そう。言われなくてもわかる。この絵にこめられた、『彼』の想いが。
 たぶん、よっぽどのシロウトさんでなければわかるだろう。一枚一枚ならばただの絵なのだが、この中からどれでも三点並べるだけで、その「少女」に対する描き手の想いは、突然あふれだす。
 伝わってくるのは、切なさと、それを補ってあまりある愛しさと。本来のモチーフは街なのだろうが、「少女」をモチーフに描いたと言われても、まったく不自然さを感じない。それほど、この「少女」は絵の中心になっていた。
 特に。一番「少女」を大きく描いた絵などは、まるで「少女」が、愛しくてたまらない人にむかって微笑んでいるかのような錯覚におちいるほど、幸せそうな笑顔で……
 ――かああぁぁぁ…………
 自分でも、音が聞こえるぐらいの勢いで、急速に顔がゆであがったとわかった。
 いろんな意味で恥ずかしくてたまらない。
 絵を通して囁かれているような言葉も。自分とおなじ顔の絵がこんな表情で飾られていることも。
 「それにしても、誰かしらね。こんな、情熱的な告白する人って……?」
 「……決まってるじゃない……」
 空々しい姉ちゃんのセリフに、あたしは地を這うような低い声で答える。あの姉ちゃんが、たった一年ぐらいで、わからなくなるはずはない。きっと知ってて、からかっているのだ。
 でも。はっきり言って、それよりはるかに重大な問題が、あたしの目の前にはあった。
 「ねーちゃん! あたしちょっと出かけてくるからっっ!!」
 ここはすでに外、と言うなかれ。姉ちゃんを置いてゆくのだから、まあこう言うしかないのだ。
 一年ぶりに見たが、あのタッチは間違いない。あの、見てるだけで心があたたかくなるような街角の絵は、『彼』にしか描けるはずがない。
 あたしは、心当たりを探すべく、駆けだした。
 ここらへんは、いつものあたしの行動範囲からはずれているからよくわからないけど、あの絵に描かれていたのはすべて公園や並木道など、みんなのいこいの場。しかも、ひとつとして同じ背景がなかったから、あれらの絵の場所をはずせば、候補地はそんなに多くない。
 たぶん、近くの公園その他、絵のモチーフになりそうな場所を、ぐるぐる回っているのではないだろうか。一カ所で絵を描いたら、また次へ。一周したら、しかたなしに同じ場所で。
 …………いや、これは犯罪者の心理なんだけど。まあ、同じ場所で描き続けないって意味ではおそらくあっていると思う。
 三つの公園。一つの遊歩道。それでも『彼』は見つからない。
 (あたしのカンが、まちがってるのかな……)
 さすがに疲れて立ち止まり、はあ、と大きく息をはいた。
 冷たい空気に、呼気は白くそまって消える。
 あたしがいくらこの街で生まれ育っているからといって、街のすべてを知っているわけではない。
 ここがハズれていたら帰ろう。そもそも今日、彼が出歩いている保証もないのだ。
 長い間、外に出ていたせいですっかり身体が冷えている。そう自覚すると同時に、すこしはあたしの頭も冷えてきた。
 怒りにまかせて駆けてきたけど、もうちょっとおちついて考えてから探さないと。見つかるものも見つからなくなってしまう。
 ――けど、この、他にやり場のない怒りは、絶対ぶつけてやるからねっっ!!
 決意も新たに、あたしはふたたび歩き出し――――
 ほんの数歩も行かぬそのうちに。
 彼を、見つけた。
 まるで、あの日に帰ってきたかのようだった。
 そこは、マロニエの並木道。
 四月の空には、早春に不似合いな厚い雲。ここ数日の好天気が、ウソのような寒さ。
 ゆっくりと、まるで幻の世界へ誘うようにはかなげに、いつしか雪が舞い降りている。
 雪の中には、傘もささずにキャンバスへ向かう、人影。
 金色の長い髪。高い身長。モデルのような整った顔をしてるのに、持ってるものから絵描きだと、すぐにわかってしまう。
 ――ガウリイ――
 あたしは、すぐさま駆け出した。そして。
 「なに考えてんのよこのボケエエエェェェェ!!!」
 ……胸にほとばしる怒りを、絶叫とともにはきだし、力いっぱいヘッドロックをかける。
 彼は、すこしの間ボーゼンとしていたようだが、すぐ我に返った。
 「っちょ……おい、苦しい、って……!」
 「やかましいいぃぃぃ!! 大通りの画商の絵、あんたなんでしょ!!?
  あんた、人の絵を勝手にあんな、何枚も描いてどーーいうつもりなのよおおおおぉぉぉぉ!!!」
 ガウリイと<<あたし>>が会ったのは、たった一度きり。あの、美術館での、主催スタッフと客がかわした、短い会話。もちろん彼が気づかない以上、ガウリイの中で、二年前のことはカウントされていないはずなのだ。
 つまり。ガウリイは『個展に来た客の一人』を、延々モデルにして、描き続けていたことになる。むろん、本人の了承なしに。
 無礼だの、厚顔無恥だの、ンなコトバではとてもあらわせない。はっきり言って、肖像権の侵害とののしられても、仕方ないほどの行為だ。
 まあ、ガウリイがあれだけ何枚も、やたら気持ちをいれて<<あたし>>の絵を描いていた理由は気になるところだったが。
 <<あたし>>をたくさん描いてくれたあの絵を見て、正直、悪い気はしなかった。
 しなかったが、そのことと勝手にあンな絵を描かれることとは話が別である。
 ふっ、ふっふっふっ……。今度こそ、モデル料ふんだくってやろうかしら…………
 「フフフフフフ…………」
 「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくれ! お、おちついて話し合おう、なっ!?」
 ブキミに笑いはじめるあたしに恐れをなしたか、ガウリイは必死であたしを首からひっぺがす。
 ひとつ大きく息をはくと、彼はやや落ち着きを取り戻したようだった。
 久しぶりに見せる、ちょっと困ったようで、どこか情けない表情。
 「なんで怒るんだよ? お前さんの絵、描いてもいいって、言ってくれただろ?」
 「いつ!??」
 首をさすりながら、のほほんと言うガウリイに、あたしは怒りがおさまらないまま吠える。
 美術館で話したのは、たった一言か二言。誓ってもいい。そのなかで、絵を描かれるなんて約束はしていない。
 ガウリイは、まるで明日のおかずをリクエストするかのような気楽な口調で、
 「二年前。こんな雪の日に、オレが『描かせてくれ』って言ったじゃないか。忘れちまったのか?」
 ――――――ッッ!!!!
 「な……あ……なっ……」
 口がケイレンしたみたいに少しだけ動く。しかしまともな言葉は出なかった。
 まさか……気づいてるの?
 そんなはず、ない。だって、美術館の時は、ガウリイにとってのあたしは『個展に来た客の一人』としての会話しかしてないハズで…………
 けれど。
 ガウリイの瞳はいつのまにか、あのころの、見ているだけで優しくなれるような笑顔と、同じ色をしていた。
 「そうだろ?」
 それは、問いかけではなく、確認。
 あたしが二年前、彼の絵のモデルをしたことを、どういうわけか、もうガウリイはまったく疑っていない。
 これ以上は、黙り通せなかった。
 胸をいっぱいにしめる怒りが消えてしまうと、いれかわるように同じくらい大きな、やるせなさがおそってくる。
 飲み込まれそうな気持ちを、憮然とした表情で隠して、あたしは不承不承ガウリイの言葉にうなずいた。
 「……よくわかったわね」
 去年会ったときにわからなかったから、きっと一生わからないと思っていたのに。
 あたしの考えてることが伝わったのか、ガウリイはすまなさそうに、
 「悪かったな……こないだは、気づいてやれなくて。
  探してる、なんて本人に言っちまうなんて、ほんとにマヌケだ」
 「そうよ。笑わないようにするの、苦労したもん」
 とても、居心地がわるい。
 ガウリイと目を合わせていられず、ついつい視線は横へいってしまう。口から出るのは、事実とちがう文句の言葉だけ。
 きっと驚いただろう、あたしにどなりちらされた時は。
 彼の描いていた、優しく微笑むだけの『あたし』のイメージは、すでに粉々にくだけているはず。まぎれもなく、ショックを受けているはずだった。
 本当は、ガウリイが勝手に『あたし』というイメージを作りあげただけ。それにあたしが遠慮する必要なんて、これっぽっちもないはずなのに。
 どうしてか、彼への罪悪感から、うつむきぎみの顔を上げることができなかった。
 頬をきる風が、まるで彼からの責め言葉のようにサムい。
 言葉少なでだまりこむあたしの顔を、ガウリイがのぞきこんだ。目に入ったのは、意外にも澄みきった空の色の瞳。
 曇りなんてまったくない、四月の青空のような。
 驚いて、わずかに目を見開くと、ガウリイは小さく笑いながら、
 「そいつはすまなかった。でも、お前さんも悪いんだぞ? 名乗り出てくれれば、オレがマヌケになることもなかったのに」
 「…………」
 なぜ――そんなふうに笑えるのだろう。
 今、目の前にいるのは『あたし』じゃないのに。
 屈託のない、一点の曇りもない笑顔で。
 笑わないでよ、そんな顔で。あたしが、まだあなたをだましてるみたいじゃない。
 喉元まで出かかった言葉のかわりに、別の言葉を口にする。
 「どうして、――あたしを探してたの?」
 「おお、それそれ! ずっと聞きたいことがあったんだ。忘れてた」
 ガウリイは、ぽむ、と思い出したように手をうつ。忘れるなよ……。
 思わず呆れたためいきをつくあたし。しかし、次の瞬間、今度は吐いた息をのみこんだ。
 だってガウリイが、今までのぽやぽやした表情が嘘のような、真剣な目であたしを見るから。
 まるで、あたしの全てを見逃さないことで、真実を見つけようとするかのような、力強い目で。
 「なんで……突然いなくなっちまったんだ?」
 まっすぐな視線に射られ、言葉につまる。そんなこと、本当のことが言えるわけない。
 でもここで、目線をそらしたら、説得力もなくなってしまう。あたしは、持てるだけの気力をふりしぼって、ガウリイを見た。
 青い瞳に、熱く見つめ返される。体温が上がり、混乱しかける頭を必死に回転させ、こわばる口をひらいた。
 「だって……ほら。もう、絵はあの日、完成したじゃない? あたしがモデルをする必要だって、もうなかったわけだし……」
 「オレの絵を、見てくれるって約束した。あれはどうなったんだ?」
 「ちゃ、ちゃんと見たわよ――。ほら、美術館の個展に、行ってあげたじゃない」
 われながら、半分パニクった頭で、よくもまあここまで出たもんだと思う。チンピラ相手にタンカをきるときは、もっといくらでも出てくるのに。
 これでごまかされてくれれば、いいんだけど……。
 あたしの胸中とは裏腹に、ガウリイはまだ、真剣な表情を崩してくれなかった。
 「…………。それだけじゃないだろう? あの絵ができた朝、オレに毛布をかけてくれたのは、お前だったんじゃないのか?」
 ――なんでバレてるんだろう、なにもかも――
 どうあっても、ごまかしきれない。
 ならば、半分でもいい。ウソをまぜて、うやむやにするしかない。
 あたしは、できるだけ自然に、ため息をつきつつ、
 「……あなたの描いた絵は、あたしじゃなかった。だから、ちょっとガッカリしたの。それで、なにも言わないで帰ったのよ」
 「お前さんじゃない? どこが?」
 とたん、とても意外なことを言われたとばかりに、あどけない顔で問うガウリイ。
 「なっっ…………!」
 頭に、カッと血がのぼった。
 こいつの目は、せっかく見えるようになったというのに、何を見ているんだろう?
 ごまかそう、とか、取り繕おうなんて気持ちは、この言葉を聞いたとたんにふっとんだ。感情にまかせて、この二年間、ずっとためていたものを吐き出す。
 「どこがってっ……! あたし、あんなに大人っぽくて、お上品じゃないわ!!
  見ればわかるでしょ!? それに、話をしててわかってるはずよ!! あんな、あんたの絵みたいな――そばにいるほうが優しくなれるほど、優しい人間じゃない!!」
 声は、絶叫に近かった。
 顔があつい。視界が少しだけ歪んでいて、涙が出てるのかもしれない、とうっすら思った。
 でも、そんなことはどうでも良かった。ただ、ガウリイが人にここまで恥をさらさせておいて、それでもあの、ほんわかした顔をしていることが腹立たしくて。
 真剣な表情で、あたしを追いつめてほしくないとは思った。でも、追いつめておきながら、そのくせすぐに、あんな春の日だまりのような顔を見せるのは卑怯だ。
 ガウリイは、表情と同じくのんびりとした口調で、
 「そうかあ? じゅうぶん優しいヤツだと思うぞ、オレは」
 「あたしのどこがっ……!」
 「見ず知らずの、オレの絵のモデル、ひきうけてくれた」
 「そっ、それは……モデル料がもらえる、と思ったからで……」
 「でも、けっきょく欲しいって言わなかったよな?」
 「だって……あんた、貧乏そうだったから――ロクに、はらえないと思ったからよ」
 「それなら、オレが個展ひらけるようになったころ、なんで来なかったんだ? もう、ある程度の金はあったし、一年前にこの街でひらいた個展のときに、言ってもよかったはずだ」
 「う゛っ…………」
 今度こそ、完全に言葉につまる。一度、本音をはきだした頭は、なかなかうまいウソを思いついてくれない。
 ガウリイの言うことはもっともだ。ほんとにモデル料がほしければ、まちがいなくそうしていたはず。
 なにも言い返せないでいると、ガウリイがあたしの髪に手をそえて、にっこりと笑った。
 ――ああ、この笑顔だ。
 あたしを、苦しくも、あたたかくもさせる笑顔。守りたかったのは、ガウリイの中の『あたし』というより、この優しい笑顔だったのかもしれない。
 彼の笑顔が、悲しみで曇ってしまわないように。いつでも、笑っていてくれるように。
 今では少し切なくて、そして懐かしい。半分ずつ、正反対のふたつのきもち。
 「あの絵、自分じゃないって思ってたんだよな。もしかして、オレのこと気遣ってくれたんだって思うのは、間違いか?」
 彼の手が、そっとあたしの髪を梳く。大きくて、あたたかな手。あの四月の日に、初めてふれた時と同じ。
 あの頃の、やわらかな気持ちが帰ってくる。ガウリイの笑顔がだんだん、苦しいものじゃなくて、あたたかいものになっていった。
 ウソをついて隠し通そう、という意固地な思いは、いつの間にかとけて消えている。
 まるで、春の日だまりにあたった、雪みたいに。
 胸の奥が――ほんわりと、あたたかい。
 「オレが本当のお前さんを知ったら、ショック受けると思って、そっといなくなってくれたんだ、って――」
 「……………………」
 不思議でたまらない。
 なんで、わかっちゃうんだろ。
 ガウリイには、なにもかもお見通しなの?
 沈黙は、消極的な肯定。うなずくのすら気恥ずかしくて、あたしは上目づかいにガウリイを見る。
 「ほら。やっぱり優しい」
 ガウリイは、こいつこそとびきり優しい笑顔で笑いかけた。
 ふと、『あたし』の絵を見た、姉ちゃんの言葉が脳裏によみがえる。
 『モデルの性質を、よく描きだしてる。いい絵ね、これは』
 『もしかすると、本人でさえ気づいていない、内面をちゃんと見つけてるわ』
 ――そういうことだったんだろうか、あの言葉の意味は。
 あたしの中の、自分でも気づかなかった『あたし』を、ガウリイは見つけてくれてたんだろうか。
 「逢えてよかった……ずっと、探してたんだ――」
 切なそうに。けれど顔を見なくてもわかるくらい嬉しそうに、ふるえる声でそう言うと、ガウリイはあたしをつよく抱きしめた。
 触れている、ガウリイの体温と鼓動に、なぜだか振りほどく気はおきない。
 きっと、雪がふって寒いから。言い訳はすぐ思いついたけど、あたしはそれを否定した。
 彼のにおいと絵の具のにおいに、居心地のいい、あの日のガウリイの部屋を思い出す。
 ――彼の背中に手を回すと、ふれた指先から、その笑顔と同じくらいあたたかいぬくもりが伝わってきて。わけもなく、泣きたくなった。
 「オレさ。お前ともう一度逢えたら、絶対聞こうと思ってたことがあるんだ」
 「……なによ?」
 「お前さん……名前は?」
 「――リナよ。リナ=インバース――」
 ――――Au revoir(オー ル・ヴォワール)。
 言葉の意味は、「さようなら」。
 より正しくは、「また会いましょう」。
 そして、約束は果たされる。
 再び逢えた二人を祝福するかのように。
 四月の雪は、静かに白い綿帽子を降り積もらせていた。
 四月の雪 それはまぼろし
 あとにはなにも 残らない
 四月の雪は 春のおとずれ
 とけて かわいて みえなくなって
 そのすぐあとに 春がくる
 冬のつぎには かならず春が
 寒くないよ 出ておいでよ 四月はじめの雪
 もう春だよ 冬にさよなら