| 絵が完成しても、『彼女』は来てくれなかった。 
 「遅いなー。ハラでもこわしたかな?」 しかし、2日たち。3日たち。何日たっても、『彼女』が再び、オレの部屋のドアをたたくことはなかった。 「あいつ……なんで来てくれないんだ……」 答えの返らない問いかけ。けれど問わずにはいられない。心の底から、それだけを考えているのだから。 
 絞り出した小さな声は、すぐに1人きりの薄暗いアパートに吸い込まれて、消えた。 
 
 名前も知らない。声も出ない。当然顔もわからない、たった1人の女性を、どうやって探せというのだろう。 決して楽な作業ではない。でも、どうしてもやりとげたかった。 「だって……お前さんは、夢なんかじゃないもんな」 
 今は絵の中にしかいない彼女をなでながら、噛みしめるように、そう呟く。 
 この絵を完成させた日、たしかオレは机でいつの間にか眠っていたはずなのに、起きてみたら毛布がかぶせてあった。あれは、『彼女』がかけてくれたものだったのではないだろうか。 『…………Au revoir(オー・ルヴォワール)』 
 サヨナラ。 「ダメだ……一方的に、さよならなんて言わせない」 
 会って。もう一度、会って。 
 
 けれど。 「この快挙を、誰に伝えたいと思ってますか?」 
 授賞式の日から、何度となくあびせられた、この質問。 でもそれでは、オレが見つけたことにはならない。 「この絵を見たいと思ってくれた人に、伝えたいです」 
 無難な答えをすると、謙虚な人だとますます取材が来る。 どこかで、聞いていてくれるだろうか。気づいてくれるだろうか、オレの答えに。 
 先日、依頼してきたある女性は、オレの絵を受け取って、満足そうに言った。 
 「この絵は、とてもあたたかいわね」 女性の声からは、依頼に来た時の高慢さが消え、とても柔らかいものになっている。オレの絵に、『人』が入るようになってから、こういうことを言う人がずいぶん多くなった。 
 人の心を、優しくさせる『色』。それは、『彼女』がくれた色だ。 
 『彼女』の『色』を知って、オレは初めて、自分がそれまで描いていた絵がどれだけ寂しい色をしていたか、よくわかった。とても比べものにならない。 
 『彼女』の色を描くたび、自分の心まで優しくなれるのが感じられる。彼女の絵を描く前にはなくしてしまったと思っていた、絵を描くことに対する喜びが、再び戻ってきたことを実感する。 
 「あなたは、こんな色を描くために、画家になったのかしら?」 
 そう。そうかもしれない。 
 無性に、『彼女』に逢いたくなった。逢って、確かめたかった。 
 オレの目の前に、医者のものだろう、指がさしだされる。 「えーと……3本」 ほぅ、と周囲から安堵のため息がもれる。オレの回りには、数人の男女が立っていた。たぶん、医者と看護婦だ。 
 「手術は成功のようですね、ガブリエフさん。 医者は微笑んで、病室を出ていった。彼らとしても、手術が成功して安心しているんだろう。 
 オレは、絵が売れた金で手術を受けた。最近確立された手術法で、これなら視力が戻ると言われたからだ。 
 自分の周りを見回してみる。白い病室。枕元には花束。花の色を見る。赤、黄、白。水色の花瓶との、コントラストが美しい。 ただし、花の色が、心で『見て』いた時より多彩なのには少し驚いた。オレの心では、こんなに複雑な色でなかったような気がする。 「あんがい、ちっちゃかったのかもな。オレの世界って」 
 手を伸ばして花びらに触れると、そこにはいつも通り、目が見えない時と同じ、しっとりとした感触。 そう、思い込んだ。事実が本当にそうか、わからないくせに。まだ拭いきれない不安を、無理やり抑えこもうとして。 
 「……あ!」 オレの声に反応して、今すれちがったばかりの、黒髪の女が振り返る。いや、違う。この人じゃない。 「すみません……間違えました」 
 素直に謝ったオレに、もう興味をなくしたのか、女性はまた元の方向を向いて歩き出していった。 最近、町中で振り返るクセがついた。あまりに『彼女』が見つからないと、わずかでも似ている人を、片っぱしから問いつめてみたくなる。 
 そして……もしかすると、オレは『彼女』のことが、わからないのではないかと不安も生まれる。 
 とはいえ、それで諦める気など、毛頭なく。 
 
 |