-ORIGINAL STORY-

―冥土INメイド―

「な、な、な……」

 純平の目の前には、毛布がはだけ、玉のような滑らかな肌があらわになった綾音が、微かな寝息を立てながら横たわっていた。腰まで伸びたつややかな髪が覆っているモノの、一糸まとわぬ綾音が背中を向けて同じベッドで熟睡していたのである。
 動揺しない方が嘘だった。
 なまじ全裸であるよりも、髪の毛で体の所々が見え隠れしているのが妙にそそられる。

 エイド○アーン!!(純平、心象風景の叫びの図)

 純平とは反対側を向いて眠っているモノの、昨日確認した通り、その細やかな体にどうやったらこれ程のモノが実るのか――と言った迫力のある胸はもちろん、まるでバイオリンを連想させる腰のくびれや、完全なる曲線を描くヒップラインが横になっていても崩れる事無く自己主張している様は、見る者を魅了してやまない。
 こちら側を向いて居ないのが救いなのかどうなのか……それは判断が別れる所であった。

 タ○ガーアッパーカッツッッッ!!(純平、心象風景の以下略)

 狭くはなかったが、それ程大きくないベッドの中、純平は壁側に張り付いて身動き一つ出来ない状況で固まってしまった。

 よ、よーし、状況確認だ――純平は努めて平静を保とうとした。

 まず目の前に居るのは、昨日会った神楽坂綾音嬢で在る事は間違いなかった。
 腰元まで伸びる髪の毛はきめ細かいキューティクルが抜群の美しさであり、推定88cmと言う由宇をしのぐ双丘は、背中越しとは言え本物である。

 満願全席ぃぃぃ!!(純平、心象風景の以下略)

「いかん、いかん、いかぁーん!!」

 ガンガンガン――純平は思いっきり背後の壁に後頭部を強打し、何とか敵の精神領域浸食を防ぐと、取りあえず毛布をかぶせよう……純平は決死の思いで綾音に毛布をかぶせる事を最優先事項に位置づける事にした。

 毛布、毛布は?――探した毛布は寝ている内に蹴飛ばしたのか、綾音の足下近くに下敷きとなっている。純平はその事実にこれまでにない緊張を強いられた。

 くっ――これじゃあ毛布を取ってかぶせる時、下手をすれば目を覚ましてしまうかもしれん!!
 しかも、しかーもだ!脚の下になっている毛布を取り出すと言う事は、そもそも脚の近くに体を近づけると言う事で、脚の近くには……近くにはぁ!!桃源郷とも言うべき桃の果実が敵城塞を鉄壁の守りとして……

 ガンガンガン――純平はまたもや背後の壁に額を打ち付けた。
 これはミッションだ……そうだ、作戦行動なんだ……最優先事項なんだ……逃げちゃダメだってどっかの少年も言ってたさ!
 もう、純平の頭の中は天使と悪魔がのんきに午後のお茶会を開いてポーカーで賭け事をしている様な混乱の極みにあったが、その中でも、多少、本当に少しばかりの理性を総動員して、この危険極まりない事態に無理矢理な理由をこじつけて、何とかジブンを保つ事にした。

「そ、そうだ、目をつぶれば……」
 多少は違うかも知れない――純平は裸の綾音に毛布を掛けると言う、過去最大で最凶の敵に対してのミッションを成功させるべく果敢に挑もうと思うのだが……どうしても桃園の誘惑には逆らえそうもない。
 しかしである、敵精神攻撃はメデューサの石化の魔眼のごとく視神経からの侵入が最大限の攻撃なので、それに対抗するにはそれを遮断すれば良いのも事実。
 微妙にへたれた思考であったが、こういった状況になれていない純平にそれを言うのは可哀想と言うモノか……

「よ、よおし、そうと決まれば……」
 精神衛生上よろしくない――と言う何とも情けない理由ではあったが、とうとう純平は瞳を閉じて綾音の足下にある毛布へと手を伸ばす事にした。

 むにゅ――などとお約束を期待していた諸君には申し訳無いが、毛布はそれ程苦も無く手につかみ取る事が出来て、それを綾音の肩口までかぶせる事に成功した。

「ふぅ〜」
 一年ほど寿命の縮む思いの純平だったが、次に自分の状況を確認だ――とばかりに漸く瞳を開く……が、ここで純平は血の気が引いた。

 確か昨日は、帰ってきてからバタンキュー。服を脱がなきゃなーと思いつつ深い眠りについたところまでは覚えていたけれど……それがどうだろう、今現在の状況はとてもそれから何も無かったとは言えない格好であった。

 ナニユエ ボクハ パンツ イチマイ デスカ?

 純平はトランクス一枚というあられもない姿だったのだ。

 ナニ ヲ ヤッチャイ マシタカ?

 既に、純平の頭の中からは漢字と平仮名が抜け落ちていた――と同時に、実に三十秒ほどは固まってしまう。
 ちょっとマテ、状況判断をするに……これは、これは!

 武士はくわねど高楊枝ぃぃぃ!!!(純平、以下略)

 と、とにかく――純平はトランクスに手をかけた。
 昨夜、自分が取った行動に全く記憶が無い純平に取って、最後に確認しなければならない事……そう、トランクスの中を確認しようと手をかけた、その時である。

「純平君……退居ね」と、いつの間にか汐見由宇がドアの前で腕組みをしていた。
 一番美味しい場面を逃さない女――汐見由宇とはそう言う女性である。

「ややや、ゆ、由宇先輩これはアレで、ナニがソレで……え〜っと」
 チラリと由宇の顔を見る。
「退居ね――」
 にこりと笑う由宇の笑顔は、一つの曇りもなく逆に恐ろしかった。
「オレは無実です!!」
「あら?それじゃどうしてトランクスに手をかけてるのかしら?」
 全くタイミングを計っていたとしか思えない登場の仕方だったが、純平には本当の事は解らない。
「これにはマリアナ海溝よりも深いわけがありまして、人類が未だ到達し得ない海溝五千メートルを確認しようと言う自分なりの青年の主張がありまして……」
 もう一度純平は由宇の顔を窺う、すると由宇は顔を伏せ気味に怒りに肩を震わせ、今にも爆発しそうな雰囲気に変わっていた。
 あ……終わった……オレ、お星様になるのかな……星になるなら一番星がいいな……って、これ、誰に言われたんだっけ……そうだ、親父が唯一もっともらしい言葉をしゃべってたっけ……ははっ……
「ぷっ……」
「はい?」
 くくくっ――という漏れ笑いと共に、由宇の肩が一層ふるえだした。
「嘘よ嘘。退居なんて言わないわよ」
 あー可笑し。由宇は未だ笑いをこらえるのに必死と言った風に体を揺らした。
「解ってるって、どうせ朝目覚めたら綾音が横で寝てたんでしょ?」
「そ、そ、そ、そうです、その通りであります!!」
「私がどうしてこのアパートにカギを付けたか、昨日話そびれちゃったしね……ま、どうせ綾音が『めがね』を掛けずに朝方トイレにでも行ったんでしょう」
「あの……由宇先輩? 昨日も確か『めがね』って言ってたと思うんですけど」
「ああ、そうそう、昨日も少しは話したと思うけど、綾音はね『めがね』を掛けてると人見知りでおしとやかなお嬢様なの。でもなんでか、掛けてない時はなんて言うか、ほぼ悪魔?天然系の悪魔って言うのか、凄いのよ」
「す、凄いってなんですか?」
 確かに凄い――純平は綾音のハダカを思い返すと、由宇の言葉に妙に納得が行く。
「いやぁ〜綾音って小説書いてるでしょ?めがねを掛けてない時の綾音のモットーが『ネタは見つけるモノではなく、作り出すモノだ!』で、ネタになるなら何でもやるって言う迷惑極まりないって言うか……ま、そんな感じ」

 なっ、なんてはた迷惑なっ!――純平は自分のベッドを占領する魅惑の三角形(未だに名前よりも強烈なインパクトの方で覚えている)を、脱力の瞳で見つめるしかなかった。

「それに、自分から誘ったら、朝一であんな悲鳴なんて上げないでしょ?」
「そ、それは確かに……」
「おおかた、未知への探求が小説家としての使命!なんて言いながら、純平君の体を裸に剥こうとして、途中で力つきたんじゃない?昨日も徹夜してたみたいだし」
 見れば、これだけの騒ぎに綾音が起きる気配がない。
 よっぽど疲れてるんだな……俺も疲れましたけど――とは口に出せない純平だった。
「だから、ま、そろそろトランクスから手、離した方が良いんじゃない? それじゃ、今から襲っちゃいますよ〜見たいに見られるから。それに……テントの方も畳んだ方が良いわよ?」と言って由宇は、ニヤリと笑う。

「へっ?」
「だから、それよそれ」

 チョイチョイ――

「私は良いけど、千尋の前じゃやめた方が良いわね……あの娘、あれで結構純情だから」と、由宇は純平のトランクスを指さした。

 ぎゃぁぁぁぁl!!!(以下略)

「これは、男の生理現象と言うか、性と言うか、もうなんて言うか!!」
 響○さん好きジャー!!(※)と、無意味に叫び出したい衝動に駆られた純平は、あわてたのがまずかったらしい、以前とは違い、スプリングの良く効いたベッドの上で体勢を変えようとした瞬間、足を取られて思わず前のめりに倒れ込んでしまった。
※某アパートラブコメとは、一切関係ありません。

 ムニュ――あー母さん、やっぱりお約束ってあるんですね〜

 綾音のたわわな二つの桃の弾力は、純平の想像を超え、毛布越しとは言えない程にその指が埋まる。
 普段とは違い、スプリングの効いたベッドの上で体勢を立て直そうとする純平は、綾音の有り余る質量の『それ』から手を離そうとするが、あわてればあわてる程にバランスを崩す。

 スゲースゲー柔らかいッスよ隊長!!

 結果、純平は手を思いっきり綾音の感触を味わう事になるのだが、由宇の視線に気が付くと、思いっきり背筋の力を利用して後ろにのけぞった。
「はわわわ」と言う動揺と共に、後頭部に鈍い痛みが走る。

 ガツンッ――純平の意識は、またもやここで途切れる事になった。



「あ、お姉ちゃんリビングにいたんだ。あら、こちらは……」
 千尋は隣にたたずむ少女を見て一瞬ギョッとなったが「ああ……昨日言っていた方ですか」と声を掛けた。
 ちょうど朝の八時過ぎ、由宇がリビングで優雅に紅茶を飲んでいる時だった、千尋が大きなバックを二つ袈裟懸けに肩に掛けて現れた。
 千尋は由宇か綾音、それか純平がいるだろうとは思っていたが、見れば、見慣れぬ少女が異様な出で立ちで紅茶を給仕しているところだった。

 誰?とは思ったが、昨日の由宇のセリフと少女の格好から大体の事情は飲み込めた。
 それもそのはず、よく見れば、目の前の少女は現日本に於いてやや一部の地域ではあるがその存在が認知され、ましてや一部の方々には眩しすぎる程の威光を以て存在する、いわゆるメイドルックをしていたからである。
 ただし……某アキバ系メイドの様な白いヒラヒラと言ったモノは纏っていなかった。
 千尋は最初、その少女の姿からはメイドであると気が付かなかった。何せ黒。頭の先からつま先まで、見事な程に黒一色のメイド服を着ていたので分からなかったのだ。

 背中まで伸びている黒髪は、今はカチューシャでまとめられているモノの、そのカチューシャも黒。それと対照的な白い肌色が映えるが、少しツリメな瞳は黒目がちで吸い込まれそうなほどの漆黒。
 ヴィクトリア系とでも言うのか、ロングドレスタイプのメイド服は、まるでしつらえた様に体にフィットして、そのスレンダーな体型を表しているがそれも黒。
 密かに、そのスレンダーなメイドの姿に「勝った……かも」と言う、優越感を抱いたのは秘密だが、それにしても、通常エプロンやカチューシャと言ったオプションパーツは白を選ぶとコントラストが現れてメリハリが出るのだが、それも黒。
 唯一、色が付いていると言えば、白い襟と胸元を彩る赤いリボン位なモノで、あまりにもメイドと言うには黒過ぎて、千尋が一瞬どこかの黒魔術師と見まがうのもうなずける。

 千尋を以て魔術師とおぼしきメイドは、その姿を見ると、礼儀正しく45度のお辞儀をするが一言もハッせられずに無口だった。

「ああ、紹介するわ千尋。今日からお父様の命令で働く斎よ」
「御影石 斎(みかげいし いつき)です」
 黒い少女は、もう一度姿勢を正したまま、まるでロボットの様なお辞儀をした。
「わ、私、汐見千尋です。由宇お姉ちゃんの妹です……よろしく」
「よろしくお願いいたします千尋お嬢様」
「あ、あの、お嬢様はちょっと……年も近そうだし、千尋って呼び捨てにしてもらった方が……」
「ああ、斎は千尋と年は離れてないわ。誕生日が早いから19才だけど、確か学年は一個上。ま、千尋がお嬢様って呼ばれるのが嫌なら、別にそう呼ばなくても良いわよ斎」
 そう言われた斎は、コクコクとうなずくだけで答える。
「それにしても早い到着ね……まあ、もう少し早かったらもっと面白いモノが見られたんだけど」
「何?面白いものって」
「ま、それは純平君の名誉のために……って、そうそう、千尋も飲む?紅茶。こう見えて斎は紅茶を淹れるのが上手なのよ」
「あ、うん……でも取りあえずこの荷物だけでも部屋に入れてきたいから。紅茶はそれから頂きます」
「そう?それじゃ斎、千尋の荷物、一つでも持ってあげて」
 由宇に言われた斎はまたもやコクコクと肯くと、千尋がさげていたバックを一つ持って後ろに控えた。
「千尋の部屋は昨日教えたでしょ?」
「あ、うん。三階の……階段を上がって左手、ちょうど純平さんの部屋の上よね」
「そうよ、昔ここに住んでいたときの部屋だから、ちょっと懐かしいかもね」
「分かった。じゃあちょっと荷物置いてくるから」
 そう言うと千尋は、来るときとは違って一つとなったバックを持ち上げてリビングを後にした。


「ん、ん〜」
 じんわりとした後頭部の痛みを感じながら、徐々に暗かった視界に光が戻ってくる。
「あ……」
 この感じは前にも味わった事がある。確かあの時は、千尋ちゃんの猛烈な突っ張りを食らって壁に頭をぶつけ、その後柔らかい膝枕の中で目覚めた時と同じだよな。
 通常の睡眠とは異なり、『目が覚める』と言うよりも『目が醒める』と言った感じ……まあ、どこが違うのか?と問われれば返答に困るのだが、そう、とにかく目が醒めるのだ。

「ん、ん〜」
 未だ頭には鈍痛が残っているので、恐る恐る伸びをしてから目を醒ます。
「ほっ、由宇先輩が連れて行ってくれたんだ――」
 見ればベッドの中から綾音の姿が消えていた。毛布がベッドのしたに落ちているのが気になったが、綾音を連れて行くときにでも落ちたのだろう――と、純平は一人で納得する事にした。
 まあ、純平の考えていた事はあたっていたのだが、由宇が綾音の両足を抱え込み、そのまま引きずって部屋を出ていった事までは想像出来なかったのは無理もない。
 途中、『ガン――』とか『ゴガッ――』と言った効果音付きなのも、気を失っていた純平には知るよしもない。
 それに、その毛布に隠れて油性の黒マジックが落ちている事など、今の純平には本当に分かりようがなかった。

「う〜ん、俺、これから生きて生活出来るのかな……」
 他の男子にしてみれば、これ程の桃園に何を文句なぞあるのか!と怒りと呪いの声を掛けられると思われるが、毎日気を失う危機にある純平に取っては不安の方が大きい。
「あ……そう言えば時間は」と言って純平は部屋の壁に掛けられていた時計を見た。
 や、やばいかも――前のアパートと違い、アルバイト先にどれくらい時間が掛かるか分からなかったので、純平はいつもより早起きしたものの、気絶していたのでそろそろ家を出なくてはならなくなっていた。
 とは言え……
 純平は一応、そう、本当にやましい事は無いのだが、男の義務としてトランクスの中身を確認することにした。
 いや、まあ、男として確認は必要でありますよ隊長――と、言い訳がましくトランクスに手を掛ける……と。

「なにゆえ!!!」

 そこには、黒いマジックで象さんの耳が書かれていたのである。
 果たして由宇と綾音のどちらが書いたかなど……純平はそら恐ろしくて考えるのも嫌だった。

 ナニユエ ボクノ ココニ ゾウサン ガ イラッシャイ マスカ?

 純平はしばし、トランクスをめくった状態で固まっていた。それもそうだろう、ナニも無かったはずのそこに、今は可愛らしい象さんがコンニチワをしていれば、誰でも固まる状態だ。
 純平の頭の中には「どっちだ!だからどっちが書いたんだ!!」などと、どっかの首都高速最高バトル並の主人公のセリフがリフレイン状態で繰り返していたが、何より思考は停止してしまう。
 しかし、その沈黙もつかの間、純平の思考は現実へと引き戻される事になった。

「はわっ、はわわゎゎゎ……」
「はい?」

 ギギギギギ――と、さび付いた扉の様な音を立てながら首を巡らせると、そこには、見慣れない少女が一人、後ろ向きで自分の耳を押さえながらうずくまっている姿があった。

「見てません、私みーてーまーせーんー」
 随分なトラウマを背負ってしまったかの様な少女は、純平には見慣れないメイドらしき服を着てうずくまっていた。

「だだだだだだ、誰ですか!?」
「わたっ、私、みーてーまーせーんー」

 なんてこったいジョージ!
 HAHAー誰だろーなージャック!

 って言うか誰?――純平は早くも頭の中が混乱し、頭の中ではへっぽこな外人二人がアメリカンジョークを繰り広げる。
 ってそんな事より、一体この娘は誰?純平は目の前で両耳をふさぎながら、まるでお経の様に見てません――と頭を振る少女に見覚えはなかった。
「あ、あの……」
 と、純平はトランクス一枚である事も忘れ、後ろ向きでうずくまっている少女の肩に手を置いた。
「ひっ――」
 純平はこれ以上無い程の引きつった少女の顔に、俺ってそんなに汚らわしい存在デスか――と、一瞬どん底に陥りそうだったが、少女の視線が随分下を向いている事に気が付いた。
 俺ってパンツ一丁じゃん……って……
 純平と少女の視線が、今度こそ漸く絡み合った。

「もう一丁……いく?」
「う〜すっ」

 パタリ――その少女は、顔を引きつらせながら気絶するのだった。
 その様子を見て純平が、何故だか背負ってはいけない十字架を一つ、背負ってしまったのでは――と思ったのは秘密だ。

 純平がその少女を見て取り乱さなかったのには訳がある。
 つい先日から理不尽な事件に巻き込まれ続け、さらには、ここ二日で二度ほど気を失う事故に見舞われると言う不幸に見舞われ、さらにさらに、つい先ほどまで綾音の裸体にさらされ、ましてや自分のナニが象さんになっていると言う非常識に見舞われていたので、少しだけだがトラブルに対して耐性が付いたのである。

 相手が洋服を着てさえいれば、純平もこの程度では驚かなくなったと言うのが正解か……とは言え純平は、いそいそと洋服を着て、目の前でグルグルと目を回して倒れているメイドさんに、頭のいたくなる思いは隠せなかった。
 仕事の時間は――これまでのトラブルが祟ったのか、既に遅刻は免れない。
「は〜バイト代減らされるけど……今日は休むか」
 ここまで来ると、今日はまともにバイト先にたどり着けるかも怪しい――と、純平はあきらめの境地に達している。それに、目の前で気を失っているメイドさんを放って置くわけにも行かず、取りあえず連絡だけ入れて今日は仕事を休む事にした。
 今まで皆勤賞だっただけに落胆したが、もうどうでも良くなってきた。

「…………しかし」
 純平は気絶しているメイドさんを前にして、盛大な溜息を付かずにはおけなかった。

 少女の格好は純平に取って、全く、これっぽっちも馴染みのない服装だった。
 メイド服と言うのだろう、昨今では珍しくも無くなったが、ウエイトレスの様なワンピースの上にフリルの付いたエプロンが付いていて、俗に言うエプロンドレスである事が窺える。

 フレンチまでは行かないもののヴィクトリア風よりは少々俗っぽいスカート丈で、ホワイトブリムと呼ばれるカチューシャにも無駄なフリルが付いている。
 白を基調としたホワイトブリムとエプロン、袖口や襟元などがワンポイントとして可愛らしいが、ワンピースに至っては黒を基調としてメイドらしさが窺えた。
 ワンピースの裾にもフリルが縫いつけられていて、このまま秋葉原あたりを歩いていても可笑しくない可愛らしいモノだ。

「えーっと」
 続いて少女自身を見てみると、気絶しているとは言えその顔はあどけなさの残る可愛らしい顔つきをしており、髪の毛は色素の薄いショートヘアで毛先が軽くウエーブしているのが特徴的だった。
 千尋ちゃんよりも、ちょっと背が高いかな……
 純平が思ったとおり、少女の身長は大体165cmと言ったところ。しかし、千尋と決定的に差があるとすれば……
「母さん、また巨乳さんです!」
 それは、千尋は言うに及ばず、綾音クラスと言って差し支えない程の隆起を持ち、服の上からもそれが窺えるのだった。

 ダメ、絶対――と、純平の頭の中で何かの標語が浮かぶが、それを思いっきり振り払うには、頭をどこかに打ち付ける必要があった。
 だ、ダメだ……ここでもう一度気を失ったら象さん所の仕打ちじゃすまない――と、純平も学習したのか、何とかそれは回避したものの、どうしたモノかと頭を抱える。

 たしか昨日、由宇先輩が言ってたはずだ。由宇先輩のお父さんがお目付役――と思ってるのはお父さんだけで本当は由宇先輩が雇ったメイドさんが来るって……と言う事は、この娘がそのメイドさん?
「だよなぁ……」
 これはやはり自分のせいなのだろうか?だとしても、自分には全く覚えの無い事――とは言えないところが少々痛いのだが、純平としては不可抗力な結果なので、何とも言えず理不尽がつきまとう。

 しかし、そんな純平のやるせなさを知ってか知らずか、一向に目の前のメイドさんは目を醒ます気配がない。
「そうだ――」
 純平は良い事を思いついたかの様に、指を鳴らす――実際はしけた音がシュとしただけだった――が、部屋の中からリビングへと向かった。



「あ、由宇先輩」
「あら純平君、目、醒めたのね」
「え?ええ、自分は目覚めました」
 純平は今回も由宇が係わっているのかと思ったが、優雅に紅茶を飲んでいるのを見て、本当に自分の事を言っているのだと分かった。
「純平君も飲む?昨日言ってたメイドの娘が淹れてくれたんだけど」

 ギクギク――

「い、いえ、今は良いです」
「あら、そう?さっき千尋も着いたから、一緒にと思ったんだけど……すれ違わなかった?」
「そ、そうなんですか?いやーちっとも気が付きませんでした。HAHAHA」
「純平君……なんか可笑しくない?」
「え?いや、全然いつもどおりでありますよ」
 や、やばい……由宇先輩はこういう時のカンは人一倍鋭いのだ!
「あ、さっき頭をぶつけたから、ちょっと可笑しいのかも……タオルでも絞って頭に当ててきます」
 ジーと突き刺さる由宇の視線が痛いが、ここはなんとしてもやり過ごさなければならない。
 今ここで、汐見家のメイド――とは言っても由宇自身が雇った二重スパイ?のメイドさんだが、自分の部屋で気絶してベッドの上で寝ているなど知られたら、先ほどの退居処分すら生ぬるい処罰を受けるのは目に見えている。

 純平はボロが出る前にさっさとキッチンに入ると、タオルを水で濡らして軽く絞り、「じゃ、少し部屋で寝てきますんで」と言って、そそくさと自分の部屋へと戻る事にした。
 と、その時、由宇は何かを思いついたかと言った顔になった。

「ああ」
「え〜っと、何が『ああ』なんでしょうか?」
 純平の不幸は、こう言った由宇の誘いに乗ってしまう所だと言う事に気が付いてない。
「そうそう純平君……」
「はい?」
「水じゃ消えないと思うわよ」
「は?」
「だから、油性マジックの落書きは、一般的にエタノールかシンナーで拭かないと消えないから……ああ、でも家にそんなのないのよね。そうそうエタノールの代用として、ミカンの皮の絞り汁はリモネンと呼ばれる天然油が含まれていて油性マジックの汚れが溶け出して落ちるわよ」
「え……と……ナニがですか?」
「だから、象さん」

 ――先輩ですか!!

「あああああ、あれはやっぱり――」
「あら、私は別に未完成だったから完成させただけだけど……片方だけじゃ格好悪いでしょ?」
「って、そう言う問題ですか!っていうか、片方とか言わない!……って、じゃあ……」
「そうね、綾音も片方だけで力つきたんじゃないの?」

 ノォォォォ――純平は泣きながら自分の部屋へ戻るしかなかった。

「むふふ、やーっぱり可愛いんだ純平君……とは言え、今のは何か引っかかるのよね……ふむ」
 汐見由宇は邪悪な微笑みを残すと、そのソファーから腰を上げるのだった。



 泣きながら自分の部屋に帰ってきた純平は、取りあえず深呼吸で気持ちを落ち着けると、自分の頬がこれでもかと言う位に赤くなっている事が分かった。
 俺の純情なんて……俺の純情なんて……
 多少なりとも女性に対して幻想めいたモノを持ち合わせている純平に取って、由宇や綾音の様な行動に、何ともやるせない感慨を持たずにはおれないのだ。
 そりゃ、そりゃさ、今時大和撫子なんてものを女性に求めるなんて男の身勝手だとは思うけど、だからと言って由宇先輩みたいなのはどうかと思うわけで――大学でさんざ由宇の悪行を聞いている純平でさえ頭を抱えてしまう。
 とは言え、どこか由宇の行動を憎みきれないと言うのも事実だった。

「ううっ、深みにはまる人間は、皆同じ事を考えるだろうか……」
 うら若き男に象さんを書き込むと言う暴挙も、大学一の美人と言われる由宇にやられると、何故だか怒りと言った感情は浮かんでこないから不思議だった。

「それよりも、今はこっちをどうにかしないと……」
 純平は自分のベッドで、先ほどの自分と交代するかのように気を失っているメイドに視線を落とすと、先ほどキッチンで絞ってきたぬれタオルを額にあてる。
 しかし……純平は仰向けに寝ているにもかかわらず、自己主張してやまない未確認なメイドさんのある部分に目がいってしまった。
 ブラのせいでもあるのだろうが、仰向けになってなお、その起伏が確認出来ると言うのは相当のモノだ。

「隊長!デカイであります!!」と、思わず敬礼したくなるほどのたわわな実りが、どうしても目に飛び込んでくる。
 これはもはや凶器――と言っても差し支えない程の自己主張が、かなりのモノだと想像をかき立てるのだ。先ほど少し見ただけだが、綾音に匹敵……いや、綾音以上である事は洋服を来ていても分かる。『正味』がどれ程なのか想像する事も恐ろしい。

「くっ――」
 まるでメデューサに見つめられて石化してしまう様に吸い込まれそうになる。
「あ、危ない……これはとても危険です隊長!」
 純平はあわてて視線をはずす。
「へっ、こんなトラップも……もう、なれたぜ……」
 と、何故か息も絶え絶えなのは純平の名誉のために触れないでおこう。

 そんな純平の煩悩全開な葛藤もつゆ知らず、ベッドを占領するそれが僅かばかりにまつげを揺らす。
「んっ、あん〜ん」
 なんとも悩ましげな吐息に、そんな声だすんじゃねー!!と叫びたくなるが、目覚めが近いのか、目の前の少女はゆっくりと顔を傾けると、最後に大きく息を吐いてからゆっくりとその瞳が開かれた。

「はれ……わらし、んなんで……」
「あ、気が付いた?」
「へぅ?」
「いやぁ〜びっくりしたよ、君が『貧血』で廊下に倒れてた時は、そう『貧血』で、しかも廊下で倒れた時はね……」
 貧血――と念を押しながら少女に声を掛ける純平に気が付いたのか、その少女は純平の顔を見ると『はわゎ』と小さな声をあげた。
「ななな、なに?どうしたの、何か『夢』でも見たのかな?」
「ゆ、夢……ですか?」
「そう、夢。ボクと君は今『初めて顔を合わせたけど』何か……見た?」
「へぅ……ゆ、夢……あれは……夢?」
 目を醒ましたばかりの人間だ、純平は思考誘導すればそれが夢だと信じ込ませても納得するかも知れない――などと、僅かばかりの期待にすがったのだが、確認する手だての無いメイド娘は、すんなりと純平の言葉を受け入れてしまう。
「はゎゎ……アレは……夢なのですか?」
「あ、アレって?」
「いいいいい、いえいえいえ、例えば一般的に動物園に於いて一番鼻の長い体重の大きな草食動物など見てません……多分」

 やっぱ……見たんだ。
 純平はヒクツク頬を何とか押さえ込むと、絶対に夢の方向でまとめる事を決心した。

「そ、それよりも、大丈夫? 俺が『洋服を着て』廊下に出たら君が倒れてたから、申し訳ないと思ったけどベッドまで運んじゃったんだけど」
「はゃい……だ、っだ大丈夫だと思います……」
 純平のつたない思考誘導が功を奏したのか、少女は漸く自分の額にぬれタオルが置かれている事に気が付いた。
「あの……これ?」
「ああ、ごめん。勝手にやったんだけど迷惑だった?」
「いえ、あの……どうもありがとうございました。私、時々貧血で倒れる事があるので、その、あのありがとうございます」
「いや、そんな大したことしてないし」
「いえいえ、ホントに最近はあまりなかったんですが、貧血で倒れたところを助けて頂いてありがとうございます」
 と言って少女はベッドの上に正座すると深々とお辞儀をした。

 ぐっ――その様を見るとそこはかとない罪悪感を覚える純平だったが、ここはなんとしても目の前のメイドさんが背負ってはいけないトラウマを意識しないでも良い方向でまとめる為、心を鬼にしてでも切り抜ける覚悟を決める。

「そ、それよりも、君はあの……この家で働くって言う、メイドさん?」
「は、ハイ、あ、ご挨拶が遅れまして、私、綾崎 春海(あやさき はるみ)と申します」
 少女はまたもや深々とお辞儀をする。
 あくまで礼儀正しいその姿に、心がズキズキと痛むが、それよりも、少女がお辞儀をするとそれに呼応するかの様に自己主張してやまないそれが『たゆんたゆん』と揺れるのが目に毒だった。
 純平もなんだかんだと男の子、その誘惑は天使か悪魔か……逆らいがたいモノがある。
 が、そんな誘惑に負けたら後々由宇からナニをされるのか分かったものではない――という思考が働き、何とか自我を保つ。

「俺、武田純平です。よろしく」
「武田様ですね、こちらこそよろしくお願いします」
「あ、いや、様はちょっと。俺も昨日からここに住む事になったばかりだし、別に君の雇い主って訳でもないから、気軽に呼び捨てにしてもらえるとありがたいんだけど」
「いえいえいえ、この家に住む方ならご主人様も同じですので」
「いやいやいや、やっぱり様はちょっと……」
 そんな『たゆんたゆん』したメイドさんにご主人様などと言われたら、属性の無い自分でも勘違いしてしまいそうで怖いんです――とは言えない純平だが、正直、今まで様付けで呼ばれた事などないのでこそばゆい。

「はぁ……それでは純平様でよろしいですか?」
「いや、だから様じゃなくて……緋崎さんは、年はいくつなの?」
「はい?私の年齢ですか?」
「あ、うん。多分年下だろうとは思うんだけど、もし年下なら俺も春海ちゃんって呼ぶから、俺の事も武田さんとか純平さんで呼んで貰いたいんだけど」
「はあ、武田様はおいくつなんですか?」
「あ、俺は今年で20才なんだけど」
「そうですか、では私の方が年下です〜」

 そう言うと春海はニコニコしながら純平を見つめる。
 年齢を言わないところに女性のさがを感じられるが、20以下でもそれが適用されるのかは疑問に思ってしまう。

「そ、それで呼び方は?」
「はい?」
「だから様じゃなくて……」
「あ〜そうですね。では、あの、じゅ、純平さんと言う事でよろしいでしょうか?」
「じゃあそれで、って、こっちから頼んでるからそんなに緊張されると困るんだけど……俺も春海ちゃんって呼ばせて貰うけど良い?」
「は、はい、じゃあそれで」
 春海を相手にすると何故だかほんわかとした雰囲気に包まれて癒されるが、そんな純平の元に、悪魔の足音が近づいている事など……知るよしもなかった。



「あれ?お姉ちゃん……どうしたのそんな足音殺して……むぐぅむぅぬぅ」
 自分の部屋に荷物を置いた千尋は、背後に斎を従えて二階に下りてきたところで由宇と遭遇した。そこで、息を殺してゆっくりと階段を上がってくる姉に声を掛けたのだが……いきなり羽交い締めにされ、口元をふさがれたのである。
「しっ――いい千尋、これから私は重要なミッションの為、ステルスで敵生物に接近しなくてはならないの……イエスなら縦に、ノーなら横に首を振りなさい」
 コクン――と、一瞬にして羽交い締めにされた千尋が肯く。
「ぷはっ……お、お姉ちゃん何する……むぐっぅ」
「だーかーら、二度とは言わないわよ。私は隠密行動中なの、声を出さない……オーケー?」

 コクンコクン
 汐見由宇――彼女は例え妹だろうと、容赦はしないのである。

「じゃ、行くわよ」
「って、どうしたのよ……お姉ちゃん」
 学習したのか由宇の笑顔に恐怖したのか、今度は随分声を落として問いかけた。
「何って、純平君の部屋を覗き……ごほん、純平君の様子と伺いに」
「な、何よそれ!いくらお姉ちゃんだって、そんな事許される……んぐぅんむぅ」
「三度は言わないわよ……わ・た・し・は・ス・テ・ル・ス・中・な・の……オーケー」

 コクンコクンコクン――由宇のすさまじいばかりの微笑みに、背筋がこわばった。

「で、でも、どうして純平さんの部屋なんて覗きに行くのよ……」
「それは……カン?」
「どうして疑問系なのよ!」
「そんな事はどうでもいいでしょ。それより行くわよ」
「う、うん……」
 千尋には、由宇を止める事など思いもよらなかった。



「それで春海ちゃんは、どうして部屋の前にいたの?」
「はい、純平さんが気を失っていると伺い、アルバイトの時間までにお起こししようと思いまして……ですが、私が貧血で倒れてしまったと言う情けない結果です」
 由宇先輩にでも言われたのかな?
 自分が気を失っている事は、それを見ていた由宇にしか解らない事である。アルバイトの時間を気に掛ける点では、由宇に感謝しなければならないと思う純平だったが、まずは目の前で不安そうにしている春海にお礼を言うことにした。
「ありがとう。でも、今日はアルバイトを休む事にしたから時間は大丈夫だよ」
「はぅっ、それは私のせいなのでしょうか」
「あ、そうじゃ無くて、元々今日は休むつもりだったから」
 本当の事を言えば目の前の少女を悲しませてしまうかも知れない――という考えもあったのだが、それよりも、自分がどうして気を失ったかを説明するよりは、元から休むつもりだったと説明した方が良いと判断した結果だった。

「それじゃ、もうそろそろ下に降りた方が良いんじゃない?」
「あ、はい、そうですね。それじゃぁ――」
 と言いかけた春海は、柔らかいベッドの上で立ち上がろうとする――がその時、正座していた足がしびれたのか、はれっ……という情けない声と共にバランスを崩した。

「危ない――」
 と、純平がそれを支えようと手を伸ばす。
 この時、何かしらの予感めいた感もあり、純平は慎重に春海を支える事に集中する。
 何せこの手のトラブルは、ここ二日でてんこ盛りのちゃんこ状態。いくらなんでも慣れるっつーの。ムニュ――などと言ったお約束だけは避ける!!
 しかし、そんな純平の決意とは別に、天は祝福するのか見放すのか、注意していようがどうであろうが、もう一人の相手がそれを許さなかった。

「はぅ――足がしびれて」
 足がしびれたのならもう一度その場に座り込み、ゆっくりと足をのばしてから立ち上がれば良いだけなのだが、柔らかいベッドの揺れに冷静さを失ったのか、それとも元来のドジっ娘が発動したのか、春海は純平めがけてダイビングしてきた。

 トラブルキタァ――

 やはりと言うか、純平はがっぷり四つ春海を受け止める結果となった。
 そのまま体勢を崩して床に転がりまたもや気を失うなど許されない……が、そんな決意も、時にはそれが、自らの破滅となる事など思いもよらなかった。
 がっぷり四つは身長が同じ者どうしなら何も問題は無かっただろう。体を支えるだけなら相手の腰を支え、そのままベッドへとゆっくり下ろせばそれで事が足りるからだ。
 しかし、相手の春海はベッドの上。加えて純平は床の上。

 ムニュ――あはぁ〜お約束ッスね〜

「んむむむむ……」
 や、やわらけーッス、つーか息できねー!!
 純平は圧倒的な谷間に顔を埋められると、あわてた春海に抱き込まれて身動きが取れなくなった。春海も余程あわてているのか純平の頭を離すと言う意識が働かない。

 しかして悪魔はその姿を現した。

「じゅじゅじゅ、純平さん!!」
 ガチャリ――とドアの開く音がして、何とかそちらに視線だけ向けるとそこには、わなわなと震えながら泣きそうな千尋立っていた。
「ごむむ、ごむむ!!」(意訳:誤解、誤解だよ千尋ちゃん!)

「ふっ……純平君」
 純平はもう一人の視線に気が付いた。
「退居――ね」
 そこには、にこやかな笑顔が鬼のように恐ろしい由宇が立っていたのである。

 神は死んだ――って、誰かが言ってたっけな。
 純平は未だ春海の胸の中で身動きが取れないまま、ふとそんな事を思った。

つづく

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